バンコク ある風景

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 昔から、行為を伴わない信仰を受け容れることは出来なかった。
 日本には 行為を伴わない似非信仰が多かったように思えていた。
 今日本の仏教は、葬式仏教に成り果ててしまっている。
 信仰とは何かということが問われることなく、長い年月が経ってしまっている。

 タイにはタイ全国で3万近い仏教寺院があり、30万人の僧侶がいると言われている。
 タイ人の中の2百人に1人は僧侶ということになる。
 これだけ見ると、なんと信心深い国民性、仏教の持つ平等性の思想が行き渡っている
 ようにも思える。
 ところがタイの歴史、人々の生活を見ているとそうではないのではと
 疑いを抱くようになってきた。

 上座部仏教とは一体どのようなものであろうか。日本に伝わった大乗仏教とどのような違いが
 あるのだろう。
 仏陀入滅百年後、戒律と修行では人々は救えないと考えた仏教大衆派の運動が起こり、
 仏教団は保守正統派と改革進歩派に分裂してしまう。

 大衆の救済という大きな理想を抱えた改革進歩派がチベットから中国を経て 日本に
 伝来した大乗仏教である。
 一方 保守正統派は、あくまでも仏陀本来の教えにこだわり、厳しい修行と禁欲に
 よって選りすぐられた者だけに救済の道が開かれることから『上座部仏教』と
 呼ばれるようになったようだ。
 インドのアショカ王の時代にインド全土に普及し、スリランカ、ミャンマーを経て、
 タイに伝わったものだ。
 タイの仏教には227条の戒律があり、僧侶は それに従う義務があり、
 厳格な戒律を守り通し、厳しい修行を経たものだけに救いがある。
 僧侶のみ涅槃に至ることができる。

 それでは一般の人々はどうすればよいのであろうか。
 救いを求めるためには 『タンブン(徳を積む)』をすることだ。
 寺院や僧侶に喜捨寄進して善行を積むことである。
 現世で高い身分についているのは前世において多く徳を積んだお陰だし、
 苦しい生活を強いられるのは徳を積むのが足りなかったせいだ。
 だから、来世のために 出来るだけ徳を積みなさいということになる。
 裕福な階級の人々は財力を生かして どんどん質、量、回数ともに 多く徳を積むことが
 出来るが、貧しい人は僅かの徳しか積めないから、来世は少ししか期待できないことになる。
 一番大きなタンブンは、寺院と建てることである。
 親にとってのタンブンは、子供が出家し、僧侶になることである。
 これも多大なお金がかかる時勢だ。
 昔から王が王位を継いだときには寺院を建てる。自らのタンブンを積み、
 仏教の擁護者であることを顕示するためのものだ。
 金持ちにおいてもそうである。

 仏陀が考えていた教えとは、こんなものだったのかと疑問を感じ、
 壮麗な寺院であればあるほど足が遠のいていく。
 僧侶を見ても有難みを感じなくなる。
 さしずめ、私などは、地獄に落ちるか、来世は下等動物にでも生まれ変わるのだろう。


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 バンコクの街を歩いていると、仏教寺院とは別に、サン・プラプームと呼ばれる廟や
 サン・チャオと呼ばれる祠をよく見かける。
 サン・プラプームは、神(特にヒンズー教の神)を祭るもので、商売繁盛や地震、
 交通安全、金運などの祈願のためのものだ。
 一方、サン・チャオ(バーン・ピー)に祭られているものは、タイ人やラオス人の
 土着信仰の精霊ピーである。
 日本で言えば八百万の神ということになるが、もっと凶暴な力を持っており、タイ人や
 ラオス人にとっては、ピーは 大きな脅威になっている。
 人間のおくにある深層心理から根ざしているピーという存在は、論理では解決の
 出来ない恐怖の対象にもなりうるのだ。
 ピーはどこでもいる。草花や木々、山や森の中、家の中にも人間の中にもいる。
 説明のつかない現象、病気、自然現象すべてピーのなせる業である。
 人々に 悪運、不運をもたらすピーもいれば、幸福をもたらすピーもいる。
 幸福をもたらすピーだって、ないがしろにすれば 悪いピーになって、猛威を振るう
 ことにもなるのだ。

 都市から離れ、田舎に行けば行くほど、人々は ピーの存在を強く信じている。
 バンコクを歩く人々も、廟や祠を見れば、ワイをする。
 心のどこかにピーの存在を感じているからだ。
 ないがしろにしないように気をつけている。いつ何時、ピーを怒らせるかはわからない。
 葬儀などの儀式においても、ピーを怒らせないように、死者が 悪いピーになって
 戻ってこないように 細心の配慮が施されている。

 タイのテレビや映画を見ていると、ピーが主人公になったものが 結構ある。
 怖いもの見たさではないが、タイ人はこんなテレビ、映画を好む。
 ピーの怖さを再確認しているようなところもある。

 日本で夕方遅くまで遊んでいると、人買いにさらわれるなどと親は言ったものだが、
 タイの田舎では ピー チャ マー(ピーが来るぞ)と言って、子供たちを脅かす。
 科学万能の時代より、ピーの存在を信じている世界の方が、精神世界は、豊かなのかもしれない。
 精神的にも悪と善のバランスが取れているのかもしれない。

 怖いもののなくなった近代社会では、何でもまかり通ってしまう。
 それこそ大きな悪が 堂々と臆面もなくのし歩いている。
 こんなことをすれば、ピーが来る、罰が当たるという想像力は働かないのである。
 親殺し、子殺し、動機のない殺人など、後をたたない日本だ。
 これもピーの仕業なのだろうか。
 悪いピーが日本中を飛び回っているのだろう。
 なんとも理解できない世の中に世界中がなって行きつつある。


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 バンラムプーのワット・サケットの中に プーカオ・トーン(Golden Mountain)という
 観光名所がある。周囲5百メートル、高さ77メートルの金色の仏塔だ。
 ラーマ3世の時代から造られ始め、ラーマ5世の時代に完成したと言われている。
 こうした観光名所はどこにでもあるようなものだから、取り立てて言うほどのものでも
 ないが、この仏塔に登れば、見晴らしが良いことは付け加えておこう。

 むしろ私の興味を惹いたのは この仏塔の周りに造られたタイ人たちの墓だった。
 日の当たらない場所に置かれた墓は、あまり気持ちの良いものではなかった。
 後で調べてみると、当時の城壁の外にあったこの寺院に ラーマ1世からの百年間に
 疫病でなくなった6万にも及ぶ人たちを葬ったという。
 ラーマ3世の時代には疫病が流行ったのか3万人の人々が葬られたということだ。
 しかしそれらの人々は墓標を持たない人々だ。
 薄気味悪さのようなものを感じたのは 疫病という不慮の死を迎えた人々の怨念でも
 感じたせいだろうか。
 どんな埋葬のされ方をしたのかと想像すると、少しばかり怖くなる。

 基本的にはタイ人は墓を持たない。火葬の後、1時期骨は保管するが、大きな仏教行事の際、
 川に流すか、山、森林に散骨するのが、中国人を除いて、タイの仏教徒たちの
 埋葬の形であるというが、東北タイや北タイでは、日本の墓と同じではないけれど、
 墓を造るようだ。立派な墓は、貴族や高僧のものだという。
 そうであれば、貧しい農民や庶民だって、本当は墓を持ちたいと願っているのではと
 思う。
 墓と造る必要がないというのではなく、ただ貧しいがゆえに、死者にかける費用に
 事欠き、墓が持てなかったということも考えられる。それが習慣化してしまったのでは、
 ないだろうか。
 身分制度を支えたサクディ・ナー制のアユタヤ時代からのプライ・タートの長い歴史が
 墓を持てない人々を生み出してきたような気もする。
 寺院の中に墓を持とうとすれば、日頃から多額の喜捨も必要だろうし、埋葬のための
 喜捨も並大抵のものではなかったに違いない。今だってそうだろう。

 身分が高く、裕福な人々の墓が、このプーカオ・トーンの周りにあり、その下には
 このプーカオ・トーンを支えるように名もない人々が埋葬されている。
 何か人間の業の深さを見ているようで悲しい気持ちになる。
 忘却は悲しみを和らげる一つの方法かもしれないが、埋葬の形が、身分や地位、
 そして財産の多少で決まるというのも、納得がいかない。

 私のような独り者にとっては、墓など意味のないものであるが、家族があり、
 その気綱を大切にするものにとっては 大きな意味を持つだろう。
 何か死者の墓標が必要になることはないのだろうか。


    ****
 
 非業の死を遂げた人の遺体は、火葬にすることはできない。また形式の如何を問わず、
 葬式それ自体、行うことが許されない。
 またこのほか、死者を火葬にしない事例には、幼児、妊婦などの例があげられる。
 昔は幼い子供の遺体は火葬より埋葬の方が多かった。
 イサーンの慣習では、齢10歳に満たない子供が非業の死を遂げたり、
 またコレラや天然痘などの疫病で一命を落した場合には、遺体の火葬を禁じ、
 即座に埋葬する決まりであった。
 埋葬後、掘り起こし、火葬にすることも禁じられた。もしそんなことをすれば、
 いかなる災厄が身にふりかかるやも知れない。
 曰く「寝ているピィーに余計な手出し」なのである。

 ちょっと外れるが、以前は貧乏人や罪人の遺体は遺棄され、禿鷹のついばむのに任せられた。
 わざわざ遺体を切り刻み、ついばむのを容易にすることもあった。
                                             ****
                             小泉康一 1993「葬儀:3.タイ」より




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 チャオプラヤ川にかかるバンコクとトンブリを結ぶサファン・プット(メモリアル 
 ブリッジ)のすぐ近くに パクローン市場がある。
 その市場の表通りは花市場になっている。
 へそ曲がりな私は、市場の裏通りを歩く。
 そこはバンコクの人々の食卓を潤す野菜市場になっている。
 今のチャックリー王朝が バンコクに王都を定めて以来、バンコクの食を供給していた
 古い市場である。

 うらびれた感じのする市場の裏通りを歩いていると、不思議な思いに駆られる。
 懐かしいという感情が沸き起こってくる。どこかで見た風景だ、そんな気がしてくる。
 滅び行くものには、そんな詩情が漂っている。
 百年前も 同じようにこんな商いをしていたと思われるやりかたで、人々はのんびりと
 商いをしている。
 手押し車を押して、車まで荷を運ぶクーリー、服装は違っていても 仕事のやりかたは
 変わってはいないだろう。
 ただ違うのは 百年前は、クーリーたちは 買い付けに来た商人たちの荷を、
 近くのロッド運河、オン・アン運河で待ち受けている船まで運んだことだろう。

 古ぼけた建物は百年前の世界に紛れ込んだような錯覚を起こさせる。
 バンコクの旧市街や川向こうのトンブリにはこんな世界が混在している。
 古い世界と近代的な世界の狭間の中で人々は生き続けている。
 どちらの世界が 居心地が良いのか、庶民たちは知っている。
 しかし、そんなこととはお構いなしに時代は、世界は動いていく。
 そして、知らぬ間に自分の周りが変わってしまい、居心地が悪くなってしまう。
 
 そうなってしまえば、もう取り返しは出来ないし、時代を戻すことも出来ない。
 自分たちが何を失ってしまったかも、わからない。
 そんなことを思い出すゆとりも失い、
 ひたすら、時代に後れないようについていくだけで精一杯で、
 かつてはあった自分にとっての居心地の良い世界も 忘れられていく。

 バンコクの 忘れられ、そして 滅び行くような場所に身を置いてみると、
 心がうずくのは、遠い昔の記憶や感情が呼び起こされるせいだろう。

 日本ではすっかり失われてしまった世界を、バンコクの古い名残を残す場所で
 再発見してみるのも旅の楽しみかもしれない。
 そんなことを思いながら、バンコクの街を歩いている。


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 14,5年前、東北タイのコンケンに住んでいた頃、用事でバンコクに出てくると、
 バンコク中央駅(フアランポン駅)のすぐ近くのスリ・クルンホテルに泊まっていた。
 ホテルのすぐ前には 黒い汚水のような水の流れているパドゥン・クルンカセム運河があった。
 夕暮れ時に 橋を渡って フアランポン駅方面の方に向かうと、路上にござを敷いて、
 イサン料理を売っているイサン、東北タイからの女たちがいた。
 やはり、イサンから来た男たちが ござの上に座り込んでメコンウィスキーを傾けながら、
 イサン料理をつまんでいた。
 今のように照明のなかった駅周辺は、いかがわしくも風情はあった。

 当時のスリ・クルンホテルは、1泊550バーツ、タイ人価格は別にあったらしいが、
 外国人には、静かな部屋を優先的にくれていたようだった。
 運河側の部屋に泊まると、トゥクトゥクの音がうるさく、気になって眠れない。
 空いていれば、バスタブ付の部屋にも泊まれた。冷房、テレビ、ホットシャワー、
 冷蔵庫は備え付けていないというのが難点だった。
 中華街のすぐ近くなので夕食は外で食べることが多かったが、1階にあるレストランの
 蟹チャーハンは絶品だったので、ここに泊まると必ず食べた。
 今はどうなっているだろう。

 ホテルのすぐ隣には、マサージパーラーと称する店があり、ガラス越しに 
 番号をつけた女子たちが座り込んでいたのが見えた。いわゆる金魚鉢だ。
 ここは中華街の入り口で、ヤワラート周辺には 冷気茶室と呼ばれる売春宿は隆盛を
 誇っており、ここを目当てにやって来る日本人も多かった。
 中華街の歓楽街が、まだ無法地帯のような姿を残していた時代だ。
 楽宮、ジュライ、台北ホテルもまだ健在で、路上の売春婦を連れ込むホテルも至る所にあり、
 いかがわしい独特の雰囲気を醸していた。

 そんなことを思い出しながら、この辺近辺を歩いてみたら、昔、中国茶を買った店が、
 昔と同じ姿で商いをしていた。お土産に中国茶を買うことはあったが、自分で飲むことは、
 あまりなかった。その頃は、コーヒー党だった。
 年を取ったせいか、今は紅茶党、中国茶は安いのを買って、冷やして水代わりに飲む程度だ。
 20年経っても変わらないものもあるが、中華街もこの頃は、小奇麗になった。
 昔のいかがわしい雰囲気は一層され、外国人旅行者のための観光スポットに成り代わった。
 時代の流れである。
 
 アポリネールの『ミラボー橋』の1節が 頭の中を流れてゆく。

 ― 日が去り、月がゆき
   過ぎたときも 昔の恋も 二度とまた帰ってこない
   ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる
   日も暮れよ 鐘もなれ
   月日は流れ わたしは残る ―

 古きよき時代はいつまでも続かないのだ。


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