ネパールの歴史

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カトマンズのネワール族のマッラ王朝を征服し、トックリ・チェットリ族のサハ王朝の支配が始まる。
サハ王朝の王としてその座についたプリティビ・ナラヤン王は、早速、ネパール統一への道を歩み始める。ネパール各地にあった24の土候国を、次々と支配下に置き始める。
 その兵士と言えば、ゴルカから連れてきたマガール族、グルン族の兵士たちだ。
カトマンズの街の治安にも、チェットリ族を上級警察官、グルン、マガールを下級警察官として、力を入れてきたのであろう。当時のカトマンズの人口は、ネワール族が圧倒的に多かったはずだから。カトマンズの治安の確保は、必須のことであったはずだ。被支配民族であったネワール族、今でも、ネワール族の警察官、軍人は極めて少ない。
 サハ王朝の支配を嫌ったネワール族たちは、地方へと、散らばっていく。パルパ・タンセン、ツルスリ、ボジュプールなどは、多くネワール族の住む町である。

東ネパールのライ、リンブー族の支配地も支配下に置き、ネパール統一を成していくのである。その後、ライ、リンブー族は、警察官、グルカ兵として、重要な役割を果たすようになっていく。
プリティビ・ナラヤン・サハ王、シンハ・プラッタプ・サハ王、ラナ・バハドール・サハ王のこの3代に渡る治世の中で 完全なネパール国土統一を成し遂げるのである。
その間、1788年には、チベットのシガチェまで攻め入るが、中国、時の清国の力を借りたチベット・清国軍に追い返され、互いの損失は大きく、1792年に休戦協定を結ぶことになる。
 それでも飽き足らず、当時イギリス植民地下にあったインドに攻め入っていくのである。そして、インド、ガンジス平野の2百以上の村を占領するのである。
 まさにこの時代、ネパールが対外的にも力を持った時代であった。

 バクタプールでの3年の修行の間に、ナラヤン・サハは、カトマンズ盆地の中で起こっているカトマンズ、パタン、バクタプールのネワールの王たちが、争い続け、それらの権力が予想していた以上に弱まってきているのを間近に見た。
 いよいよ、カトマンズ盆地を我が物にする絶好の機会が訪れたのだ。
 ゴルカに帰ったナラヤン・サハは、信頼厚い腹心、カル・パンディとカトマンズ攻略の作戦を練り始める。
 まずは、カトマンズ盆地至るまでのから道のりの中で障害となる地方豪族を制圧し、支配下に置くことから始める。着々と、カトマンズ周辺の豪族、部族を支配下に置きながら、カトマンズ盆地の外堀を埋め始めるのだった。チェトッリの命令、指図に従って、その手足となり その戦いの先頭に立って戦ったのが、ナラヤン・サハの支配地の中で訓練された先住民、マガール族、グルン族だったのである。
 一方、カトマンズ盆地の中はと言えば、カトマンズ、パタン、バクタプールのネワールの王たちは、争いに明け暮れている。カトマンズ盆地の外で起こっていることなど、露ほどにも関心を示さない。
 以前にはあった彼らの軍隊も、訓練しなくなってから、長い年月が流れ、ないも同然、の状態になっていた。
 カトマンズ周辺の豪族、部族を征圧しつつ、まず手始めに、キルティプールに攻撃を仕掛けるが、キルティプールのネワールの激しい抵抗にあい、その時に忠実で最も信頼のおけるカル・パンディを失ってしまうのだ。その時は、撤退を決意し、カトマンズ周辺の村々を支配下に置くことに専念することに方向転換することになる。

 1764年、再びキルティプールを攻撃するものの、キルティプールのネワールの激しい抵抗にあい、その際、ナラヤン・サハの末の弟、親戚筋のプラテープ・サハは、両目をうしなっていまうのである。煮えたきった油、熱湯をかけられたのであろう。
 攻撃、撤退を繰り返しながら、1767年 突然の奇襲が、成功し、キルティプールは陥落してしまうのである。

 キルティプール攻略に勢いを得たナラヤン・サハとその軍隊は 1768年9月25日インドラ・ザットラの日を狙って、カトマンズに攻め入る。祭りに酔いしれ、何の準備もしていないかとマンズのネワールは瞬く間に、征服されてしまう。
 カトマンズのネワールの王、ジャヤ・プラカースは、突然のことに戦う準備も出来ず、パタンのネワールの王に助けを求めたが、それも2,3ヶ月、その間、パタンの王の側近であったプラダン(ネワールの上位カースト)たちは、ナラヤン・サハの方に寝返ることを相談し始める。
 それを知った二人のネワールの王は、バクタプールの王に助けを求めて、バクタプールに逃げ込む。
 ネワールの二人の王が バクタプールに逃げ込んだことを知ったナラヤン・サハは、再々に渡ってバクタプールの王、ランジット・マッラに、カトマンズ、パタンの王を引き渡すよう使者を送るが、ランジット・マッラは応じない。
 1769年11月 半月の夜、痺れを切らしたナラヤン・サハはバクタプールに攻め入り、最後まで残っていたカトマンズの都を、制圧してしまうのである。

 三人の王を捕らえたナラヤン・サハは、三人のネワールの王に、問いかける。
 「何か望みがあるか、言ってみよ。」
 バクタプールの王、ランジット・マッラは答える。
 「もし、余生をインド バラナシで送ることが出来れば、幸いである。」と。
 カトマンズの王、 ジャヤ・プラカースは答える。彼は、バクタプールでの戦いで致命傷を負っていた。
 「もう私は、この世には未練はない。私の余命もあと僅か、出来れば、残る時間をパシュパティナートで平和な過ごし、そこで荼毘にふされれば 幸いである」と。
 パタンの王、テジュ・ナール・シンハだけは、何も言わず黙り込んだまま、その結果、彼は、獄につながれ、獄死することになる。
 ここで、50年近くに渡って続いたマッラ王朝は幕を閉じ、サハ王朝の幕開けとなるのである。

 (最後の部分は、あまりに出来すぎている。ネワールの王、そして王の末裔を残しておくことは、今後のナラヤン・サハのカトマンズ支配の障害となることは、眼に見えている。マッラ王朝の血筋は、根絶やしにされたと考えていいのだろう。)

 13世紀から18世紀中期まで カトマンズ盆地で、栄華を極めたマッラ王朝、広い農地とチベット・インド貿易を土台とした莫大な富を手にし、この盆地に桃源郷を築き上げたのであった。
 彼らは、この盆地の中の平和な満ち足りた生活に満足し、盆地の外で起こっていることには、無関心であった。もう当時から、人口増加に悩んでいたインドから、新しい領地をもとめて、クシャトリア(インドのカーストの武士階級)、彼らとともにブラーマン(インドのカーストの僧侶階級)がネパール領地に入りこみ始めていたのだ。
 インドに イスラムの勢力が入り込み始め、ムガール帝国を築き始めると、インドの北にいたクシャトリア、ブラーマンは大量にネパール西部へと入り込んでくるようになるのだ。そして、先住民族であるマガール、グルン、タマン族を支配下に置き、地方豪族として、ネパール各地にその勢力を伸ばしていったのだ。
 その中でも、勢力を大きく広げていったのが、ゴルカ、ツルスリを支配地とするトックリ・チェットリ、プリティビ・ナラヤン・サハであった。

 一方、カトマンズ盆地のマッラ王朝では、そんなことには、少しも関心を、示すこともなくカトマンズ、パタン、バクタプールと三つに分かれた王朝は、血みどろの勢力争いを演じていたのである。
 15世紀後半に王位についたヤクシャ・マッラは、三人の王子可愛さから、マッラ王国をカトマンズ、パタン、バクタプールと三つに分け、三人の王子に分け与えてしまうのだ。これが悲劇の始まりであった。
 領地が、親から子へ 子から孫へと、受け継がれていくうちに、だんだんと気綱も弱くなり、互いに背力争いをするようになり、血で血を洗う戦闘も行われるようになり、マッラ王朝は弱体化していくのであった。

 そのマッラ王朝の末期、地方豪族のプリティビ・ナラヤン・サハは、バクタプールの王宮に 修行と言う名目で入り込み、カトマンズ盆地の勢力図を探ることになる。

 修行を終えたプリティビ・ナラヤンは、ゴルカに帰り、あのカトマンズの都をどうしたら、手に入れることが出来るのか、思案をめぐらす。自分の祖先が夢をかなえることなく、インドを終われ、この地やってきて以来、チャンスがやってきたのである。一つの王国を持ち、マハラジャとして、君臨できるチャンスが。

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