カトマンズ ネワールの街と文化

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 秋晴れのダサインの祭りの中、バグマティ川にかかる黒い鉄製の吊橋のすぐそばの
 川辺のシバ寺院を歩き回ってみた。
 
 シバ寺院のすぐ近くの沐浴場の上の四角い石造りの休憩所で、4,5人の女たちが 
 何やら料理を作っている。
 カトマンズの寺院の近くでは よく見かける風景で礼拝のようでもある。
 しかし、礼拝のための僧侶はいない。

 近づいて行き、訳を訊くと 七日前に亡くなった母親のための供養を行っていると言う。
 彼らは ネワール族の中のカランジットというカーストに属する。
 元々は 糸を染めることを仕事にしていたようだが、マッラ王朝時代には、王の占い、
 礼拝にも係わるようになり、マハブラーマンとも呼ばれるようになったカーストの
 人たちだ。

 このネワール族のカーストの人々は 母親が亡くなってから七日目に母親のための
 供養を行う。
 そこで母親の好きだった食べ物を用意し、亡き母親にご馳走するのである。
 子供のうち、結婚した娘たちが集まり、その中でも一番下の娘が 中心になって行う。
 彼女たちは五人の姉妹であるが、末っ子は結婚していないために参加できない。

 父親が亡くなった時にも同じ供養をするが、そのときには結婚している一番上の娘が
 中心になって行う。

 父親が亡くなれば、一年間 ダヒと呼ばれるヨーグルトを食べることはできないし、
 母親がなくなれば、一年間牛乳を飲むことはできない。
 ネパールのミルクティは一年間お預けである。

 今回の母親の供養の中心が 年の若い娘のため、供養の儀式の流れがわからず、
 一番年上の娘の指示に従って、行っている。
 一番年上の娘は父親が亡くなったときに同じ体験をしているから、要領はわかる。
 そのときには 親戚の年長者の女性が 手順を教えてくれたと言うことだ。
 下の娘は その間、口を利いてはならないし、他のものはその娘に触ってはならない。
 下の娘が 巫女の役割を担い、母親を呼び寄せる役目なのだろうか。

 私がネワール族の文化に興味があるというと、最後まで見ていけと言う。
 昔は 64ロプニの農地があったが、50年前のマヘンドラ王の時代に半分の農地を
 取り上げられてしまったこと、マハブラーマンとも呼ばれ、ネワール族の中でも
 高いカーストであること、母親は82歳でなくなり、亡くなる1週間前までは、
 元気で強健だったことなどを話してくれる。

 母親への供養ための料理が整うと、今度はすぐ近くにある丸い石造りの休憩所へと
 料理を運び、一番下の娘が きれいに並べて、亡き母親のための供養は終了する。

 すべての料理を並べ終えれば、したの娘も普通の娘に戻り、口を利くことも触ることも
 許される。
 その途端に そこに集まっていた四人の娘たちは 号泣し始める。
 それも儀式の流れに組み込まれているようだ。

 供養のための食べ物は、近くの犬たちにも与えられ、母親のために用意した食べものや衣類は 
 少額のお金とともに 呼ばれたカーストの低いものたちに与えられる。
 この日は 三人の低カーストの人たちが呼ばれていた。

 供養が済んだあと、家に帰るまで後ろを振り向いてはならない。
 名残惜しさを示すと、なくなった母親が再び、家に戻ってきてしまうからだ。
 母親は浄土に行けず、天と地の間を彷徨うことになる。

 彼女たちにお礼を言い、号泣する彼女たちを後に残し、家路へと向かった。


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 ラナ家独裁政治の中で ネワール族の生活はどう変化していったのだろうか。

 ネパールはラナ家のみにあるという独裁政治は、首相職を世襲制にし、カトマンズの
 至るところに ラナ家の息子たちのための豪奢な宮殿を建て、ラナ家の家系に
 つながる者たちで 官僚、軍隊の中での上級将校は占められ、イギリスへの留学の機会も
 A級ラナと呼ばれるシェムシェル・ラナ家直系のみに与えられ、民衆には教育の機会は
 与えられなかった。
 学校づくりが行われるようになったのも、ラナ家末期のことである。
 それまでは、他民族に対する徹底的な愚民政策を続けていたのだ。

 逆らうものには徹底した重罰を与え、気に入らないものは 意のままに排除していった時代だった。
 ラナ家の言うことが 法だったのだ。
 そして、ラナ家の地位を確実にするために、サハ王家が 妃を迎えるときには 
 必ず 妃は ラナ家からというルールも確立していったのである。

 イギリスには イギリス軍傭兵、グルカ兵として グルン、マガール、ライ、リンブー族を送り出し、 イギリスから 莫大な見返りを得ていたのだ。
 一体何人のグルカ兵が イギリス軍の戦いの最前線に立ち、命を落としていったのだろう。
 命を落としても、得るお金は、イギリス兵の何十分の一にも満たなかったのである。

 ヒンズー教至上主義を掲げたラナ独裁政治は ネワール族の仏教徒たちへの圧迫へと
 つながっていった。仏教徒の多かったパタンでは、サッキャ・カーストの仏教僧侶たちは、
 カトマンズ追放、ネパール追放の憂き目に合い、あるものはチベットへ、あるものはインドへと
 逃れていった。
 サッキャ・カーストの宗教施設バハイと呼ばれる建物から 僧侶の姿が消えたのは
 このラナ独裁政治の時代のことだった。
 毎年、パタンで行われる仏陀生誕節のお祭りの時には、その時代の悲しみを歌に託して、
 行列は、その悲しい歌を歌いながら、街の中を練り歩く。

 仏教徒たちは ラナ家の恐怖政治から逃れるために、ヒンズー教の儀式も取り入れるように
 なっていく。
 殺傷を禁じる仏教の教えとは裏腹に、ヒンズー教徒のダサインの祭りには、山羊、アヒルを
 生贄に捧げるようになっていく。
 ラナ家への従順を示すためである。
 ラナ家に逆らうことは、死を伴うくらい危険なことだったのだ。
 気に入らない相手を抹殺するには、ラナ政権に密告するだけで充分だったはずだ。

 イギリス様式の建造物に憧れるラナ家のものたちは、イギリス様式の宮殿、豪邸を建て、
 寺院といえば、インド様式の寺院が建てられ、ネワール族の仏教徒の工芸職人の仕事は
 先細り、ネワールの工芸文化は停滞していくのだ。
 インドのマルワリ商人に ネパールの商業活動に利権を与えることで ここでも莫大な財を
 得ていたのである。
 インド、チベット貿易の覇者だったネワール族は、ここでも力を失っていくのである。
 チベット貿易では、西のタカリ族が 台頭してくるのである。

 ネワールの農民カーストにおいても同じことである。
 ラナ家がここに家を建てると決めれば、容赦なく農地は、何の保障もなく取り上げられて
 しまったのだ。
 土地は個人のものではなく、国王のものだったのである。
 国王を幽閉し、実権を奪い取ったラナ家にとっては、何事も意のままであり、
 反逆すれば、死が待っているだけだったのだ。

 こうした当時の残虐性は、今でも警察、軍の中には残っているのである。
 つい最近まで続いた毛沢東主義共産党と政府の戦いの中で、毛沢東主義者の疑いをかけられ、
 軍や警察に拉致されたものの多くが、軍、警察による拷問、強殺によって、命を失っていったと
 いうのは周知の事実である。
 チェットリ族の下位カーストに対する残虐性は、今でも軍や警察内部に
 脈々と息づいているのである。


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 1768年にゴルカからの豪族 プリティビ・ナラヤン・サハの侵略を受け、
 征服されたカトマンズの民 ネワール族の新たな悲哀の歴史は続いていくのである。
 カトマンズ盆地の中で大半の人口を占めていたネワール族 まとまって反乱を起こせば、
 再び、国を取り戻す機会もあったように思われるが、カースト制にこだわり、まとまりを欠く
 ネワール族は、ゴルカ王朝に逆らう勢力を形成することは出来なかった。

 憧れの桃源郷 カトマンズ ネパールで唯一の文明社会を手にした
 プリティビ・ナラヤン・サハの喜びの程は、如何程のものであっただろうか。
 ゴルカ王朝では、上級警察官、上級将校にはチェットリ族を配し、下級兵士、下級警察官には
 マガール、グルン、ライ・リンブー族を用い、ネワール族の監視を強めていったのだ。
 当然のことであるが、ネワール族の兵士、警察官などはいなかった。
 反乱の原因になる職業にネワール族を抱えるはずもない。
 ネワール族とすれば、新しい支配体制の手足となり、ネワール族を監視する仕事に就くことは
 嫌っただろう。
 下級兵士として支配体制を支えたグルン、マガール、ライ・リンブー族の人たちは
 後のラナ家専制(ラナ家による摂政制)の時代には イギリス軍の傭兵 ゴルカ兵として、
 名を馳せるようになっていく。その命と引き換えに。
 
 サハ家、ラナ家の支配体制は、ネワール族の力を削ぐことに専念したことだろう。
 チベット・インドとの貿易も支配体制に協力的なタカリ族を優遇し、ラナ家の時代には
 インドのマルワリ商人を優遇することで、ネワール族の経済力も削いでいったのだ。

 世界に名を広めたネワール族の建築様式も、ラナ家の時代には、イギリスの建築様式のものに
 変わっていく。
 イギリス人の建築技師をネパールに招聘し、ラナ家の宮殿、シンハ・ダルバール、
 現宮殿ナラヤンティ宮殿などを完成させていった。
 寺院などもインド様式のものを建て、ネワール様式のものは、新たに建てられることはなかった。
 国教もヒンズー教に定め、ヒンズー教徒優遇の体勢になっていく。

 貿易、商業に従事していたサッキャ、トゥラダの経済力にも陰りが見え始めただろうし、
 寺院も工芸を支えていたウダース(タムラカール、スタビ、シルッパカール、シラッカールなど
 工芸に従事するカーストのグループ)たちの仕事も目減りをしていっただろう。
 マッラ王朝時代の支配カースト シュレスタ・カーストの人々も、新たな生活の道を
 探す必要に迫られただろう。
 あるものは商業への道へ、あるものは新しい支配体制に従順を誓うことで、下級官吏の
 職を得ただろう。

 新しい支配体制の中での生き残りをかけて、すべてのネワール族は新しい生活の形を
 模索し始めたのである。それを支えたのが、各カーストの中にあったつながりであり、
 一族の強固なまとまりだ。
 それが クル・デェオタを守り神とする一族集団で構成するグッティであり、
 各地域ごとのグッティであり、同一カーストをまとめた組織だった。

 プリティビ・ナラヤン・サハによって カトマンズに成立したゴルカ王朝も 
 有能な摂政であったビムセン・タパ(1839年没)までは安定していたが、その後は
 王位継承争うに絡んだ側近たちのパンディ・チェットリとタパ・チェットリたちの内紛に明け暮れ、
 ラナ家の創始者、ジャン・バハドール・ラナの台頭を許すことになる。
 ジャンバハドールは 国王を幽閉し、権力を争う中で、残虐性を発揮し、ラナ家の専制制の基礎を
 作ったが、そのジャン・バハドール・ラナもジャングルでの狩の際に、
 1877年に なぞの死を遂げる。どうも暗殺だったようだ。

 7年前に起こった王宮殺害事件のような血生臭い事件が ラナ家の中にも起こり、
 ジャン・バハドール・ラナの直系である息子・甥たちのすべてが、ジャンバハドールの兄弟たちに
 よって殺害され、シェムシェル・ラナ家に権力は移っていく。
 それはラナ家の殺戮の血の歴史でもある。
 首相であり、マハラジャであり、軍の指揮権を手にしたシェムシェル・ラナ家は、
 強権・恐怖政治の中で力を発揮していくことになる。
 こうしたラナ家の血で血を洗う姿を眼にしていたネワール族にとっては、
 ラナ家は恐怖の対象でしかなかった。


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ネワール社会にカースト制を導入したジャスティス・マッラ王の時代から、ヤクシャ・
マッラ王の時代までの百年、栄華を極めたマッラ王国だったが、ヤクシャ王の6人の息子による
後継者争いから王国は バクタプール、パタン、カトマンズと三つの王国に分かれてしまう。

 ヒンズー教色の強いバクタプール、仏教色の強いパタン、ヒンズー教と仏教が混然としていた
 カトマンズ、それは サッキャ、バジャチャーレ、ウダースを中心とした仏教徒の人口比の
 多少によるものだろう。
 一人の国王を中心に 国を支配していくという体勢が崩れ、マッラ王国の国力は分散していく。
 バクタプール、パタン、カトマンズの三つの王国同士の争い、あるいは王国内での後継者争い、
 それに群がる王国を支えていたシュレスタ・カーストの争いも頻発しただろう。
 そうした不安定な時代が 三百年にわたって続いていくのである。
 その間、カトマンズを取り巻く状況は急激に変化しているにもかかわらず、
 三つの王国同士の争い、後継者を巡る支配階級内の争いに明け暮れ、カトマンズの外の
 大きな変化には対応できなくなっているのだ。

 インドではイスラムのムガール王国の成立、イスラム勢力との争いに敗れた
 多くのインドからのクシャトリア(チェットリ族)の移住、そして 
 彼らによるネパールでの各地での支配体制の確立にも目を向けないまま
 三百年の時が過ぎていくのである。

 ゴルカを本拠地にすえたチェットリ族の豪族 トックリ・サハチェットリは 耽々と
 カトマンズ進出を狙っている。
 ゴルカ王朝の始祖、プリティビ・ナラヤン・サハは行儀見習いと称して、バクタプールに入り込み、
 カトマンズ盆地の状況を探り、カトマンズ侵略の手立てを練るのである。

 三百年、カトマンズの外の世界に眼を向けることのなかった三つの王国には訓練された
 軍隊すらなかったのだ。
 絶えず内紛に明け暮れていたカトマンズ盆地の中では、ネワール族のまとまりも失われていたのだ。
 強固なカースト制を作り上げた支配下級のシュレスタ・カーストと被支配階級の溝は、
 広がっている。

 そんな状況を見て取ったプリティビ・ナラヤン・サハは兵を起こし、兵士として訓練した
 グルン、マガール族を先頭に立て、1768年に兵力に欠けるカトマンズを いとも簡単に
 征服してしまうのである。

 チベット、インド貿易に従事していた仏教徒のサッキャやトゥラダ・カーストの人たちは
 カトマンズの外で起こっている変化には充分に気がついていたはずである。
 外国貿易に従事していたものが、カトマンズの外の状況の変化に無関心なはずはないのだ。
 被支配階級にいた仏教徒たちは 権力の中枢にはおらず、ただひたすら貿易・商業、
 そして 生産に従事していただけだ。
 ヒンズー教を信仰する支配階級 シュレスタ・カーストの人間たちは 被支配階級で
 あった仏教徒 サッキャ、トゥラダ・カーストの声などには耳も傾けなかっただろう。
 皆、それぞれカーストの内側に閉じこもり、視野をどんどん狭くしていく。
 カースト間の交流はなく、正確な情報を得ることも出来なくなっていた。
 こんな状況では国家を苦難から救うことは出来ない。

 今のネパールも別の形で同じ状況にある。
 カースト間の交流の無さが、民族間の交流の無さに変わっているだけだ。
 それが互いに理解しあうことを阻害し、国の発展を妨げ、混乱を生み出しているのである。


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 カトマンズのネワール族のすべての職業カーストにはグッティと呼ばれる組織がある。
 このグッティは一族の団結を図るものであったり、カーストの中の人々のつながりを深めるもので
 あったりする。
 そのグッティという制度が異なったカーストとの交流を阻害し、職業カーストを固定したものにし、
 身分制度を作り上げる基礎となったようだ。

 農民カースト マハルザンのグッティについていえば、まず 一族の護り神クル・デョオタと
 崇めるグッティ集団がある。この護り神は 各家々で異なる。
 それはヒンズー教の神でもなければ、仏陀でもない。民間・土着信仰の神々のようだ。
 タイの土着信仰のピー 精霊信仰にも似ているようだ。
 この家族の護り神は、一族以外のものに見せることは許されない。
 例えば、家族の中で、娘が結婚すると その娘は結婚しても実家の一族の護り神クル・デョオタの
 祭儀には参加できるが、彼女の夫は参加できない。
 この一族の護り神 クル・デョオタを崇める血のつながりを持つグッティは、
 ネワール族のすべての職業カーストの家族が持っている。
 もし、家族の誰かが、下位に属するカーストか、他の民族と結婚することになれば、
 そのグッティから追い出されることになる。
 一族の護り神 クル・デョオタを穢すことになるからだ。
 下位に属するカーストの人間、あるいは異なった民族が、家の中で生活できたとしても
 一族の護り神 クル・デョオタの祭事には参加できないし、その家の台所にも入ることは 
 許されない。上位カーストになればなるほど、その傾向が強いようだ。
 下位カースト、異なった民族のものは、一族の護り神 クル・デョオタを崇める家族に
 穢れを持ち込むということからだ。

 そのグッティとは 別のグッティもある。
 カトマンズのマハルザンについていえば、カトマンズの農民カースト マハルザンの
 住む地域を35に分けている。その地域の一つ一つをトールと呼び、このトールを
 一つのグループとしたグッティがある。
 これは祭りなどの運営、トールの中の諸問題の解決を図るグッティであり、
 タカリと呼ばれる5人の長老と中心として運営されている。

 その中にサナ・グッティと呼ばれるいくつかのグッティがあり、
 それは 葬儀の際の助け合いのグッティであり、同じトールに住み、同じカーストの人間で
 あればよく、血縁関係は問わない。
 下位カーストのものや他の民族と結婚すれば、このトールのグッティからも排除され、
 葬儀の際の援助、トールの様々の行事にも参加できないことになる。

 こうしたグッティの形は、すべてのネワール族のカーストに共通しており、シュレスタ・カースト、
 サッキャ、バジャチャーレ・カーストにおいても同じシステムで成り立っている。

 こうしたグッティ制度は 各カーストの中で重要な役割を果たし、異なったカースト間の交流に
 大きな制限を与え、排他的な集団、組織を創り上げている。
 これがネワール族同士のまとまりを阻害し、ばらばらにしている原因にもなっている。
 本来仏教徒の指導的役割を果たすはずのサッキャ、バジャチャーレもこのカースト制度を
 支えるグッティ制度の中に閉じこもり、自らの優位を護ることだけに専念にし、
 他のカースト、他の民族に仏教を広める努力をしてこなかったようだ。

 こうしたネワール族のカーストの中にあるグッティ制度は、一族内、家族内、同一カースト内の
 総合扶助のシステムを作っていったが、それが強固になればなるほど、他のカースト、
 他の民族に対して 排他的になっていったのである。
 それがネワール族の衰退を生む原因にもなっていったのだ。


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