エピソード

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 コバラムビーチは ケララ州の州都トリブヴァンドラムからバスで30分のところにある、こじんまりしたビーチだ。そこに1986年1月に訪れた。
 砂浜の後ろに、茅葺きのレストランが、並び、ビーチでは土地の子供たちが、果物を売っていた。アラビア海の水は、冬でも暖かく、水に漬かっても、暖かく感じられるほどだった。旅行者は、少し大きな波を利用して、ボディサーフィンを楽しんでいた。
 当時は、旅行者の数も少なく、全部あわせても2,30人ぐらいだった。昼になると、思い思いに、ビーチのすぐ後ろにあるレスランで、昼食を取る。伊勢えびのサラダなど、値の張るものもあったが、貧乏旅行者、食べるのは、せいぜい、ムール貝のピラフが精一杯だった。
 隣では、ボンベイから遊びに来ていたインド人親子が、伊勢えびのサラダを食べていたのが癪だった。インド人でありながら、彼らの会話は、英語であったのである。

 もともと、リゾート好みでない私は、もっぱら、周辺のビーチを歩き回ったものである。そこは、土地のインド人たちの生活場所であった。と同時に、砂浜は、彼らの朝のお勤めの場所、トイレでもあったのだ。砂に隠れた汚物は、気をつけようもなく、たびたび、踏みつけてしまったものだ。
 ビーチのすぐ上の丘に、白い灯台があり、そこから、水平線を眺めると、水平線が湾曲して見え、地球は丸いということ、実感させてくれた。
 すぐ隣のビーチに行くにしても、必ず、丘を登らなくてはならない。
 隣のビーチは、不思議なビーチであった。ビーチの片半分にイスラム教徒が住み、もう片半分にはキリスト教徒、後ろの丘にはヒンズー教徒が住むという奇妙な地域だった。
 そのビーチには、値段も安いということで、よく食事に行った。イドリー(米で作ったロティ)、魚のフライ、酸っぱいスープ、そんなものをよく食べた。
 さらにそのビーチを過ぎて、ビーチ沿いに歩いていくと、伊勢えびを採っている漁師に出くわし、捕まえたばかりの伊勢えびを見せ、25ルピーで買わないかと持ちかけられたこともあったし、いきなり、中年の女性が私に声をかけ、蒸したばかりのムール貝をご馳走してくれたこともあった。
 まだ、素朴なインドが、残っていたのである。
 浜ではよく地引網が引かれおり、旅行者にも参加させてくれたものだ。醤油と味噌でも持っていけば、豪華な魚介料理も満喫できるはずだ。

 あれから、20年以上経ってしまったのであるが、再び、行ってみたい気もするが、あの当時と同じ、想いをさせてくれるだろうかと心配にもなる。良い想い出は、そのまま静かに残しておいた方が、いいのかもしれない。


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 無事にカルカッタに到着したが、翌日は、マドラス(チェンナイ)へ行くのだ。
インド・ケララの友人が、コマンダーリ ・エクスプレスの急行列車のセカンダリー・スリータイヤーベットの予約をしていてくれたのである。格好いい名前であるが、カルカッタ・マドラス間は。28時間もかかるのだ。
 それが、22年前のインド・マドラス間を走る最速列車だったのである。(事実、帰りのマドラス・カルカッタ間は、45時間かかった。列車の中で2昼夜を過ごしたのである。)
 昼の12時に出発した列車は、翌日の夕方の6時に着いたのだ。寝ていけたので、大して疲れもしなかったが。

 次は、マドラスから、彼の故郷のパイヤヌールへと向かうのだ。彼は そこまでのチケットの予約はしていなかったのだ。
 やって来た列車は満員、乗り込むのも大変な3等列車だ。乗客のインド人をかき分け、かき分け、やっとの思いで、乗り込んでも、全く席はないのである。夜の8時である。
 通路にも人があふれ、座ることも出来ない。そんな状態の中で、3時間、如何に私でも、疲れるではないか。ふと、上を見上げると、網棚が空いている。
 前に読んだ誰かの旅行記に 込んでいる時は、網棚の上で寝るに限ると。
これはチャンスとばかり、網棚の上によじ登り、寝転がろうとするが、うまく安定が取れず、心地よいものではない、座ると、頭が、天井にあたり、これもうまくない。
 あれは、嘘である。網棚で寝るなど出来るはずはないのである。
 あのインド人が、そんなことはしないのである。インド人は、賢明である。馬鹿なことはしないのである。可能であれば、網棚が空いているはずはないのである。インド人が、まずは、その場所を占めるのが、当然のことである。
 あんな旅行記を書いた奴は、ろくでもない奴だと、内心怒りながら、すごすごと、元居た場所に戻る。立ったままの状態が、明け方まで続き、朝になって、やっと、席が空き始めたのである。
 もうこれ以上はないというぐらいに、疲れ果てた夜であった。恨みがましい眼をインド人の彼に向けたが、こんなことは、当たり前だという顔をしているのである。
 乗客も少なくなり、目的地も近づく頃になって、初めて横になることが出来た。
 後1時間で 彼の故郷 パイヤヌールに到着するのである。彼にとっては、3年ぶりの帰郷だ。
 家では、65過ぎの母親と妹が、待っている。パイヤヌールには嫁いだ二人の姉も居る。彼にとっては、感無量の帰郷であろう。


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 もうかれこれ、22年前の12月のことである。カトマンズで知り合ったケララ州のインド人と親しくなり、彼と一緒に、彼の故郷に行くことになった。
 チケットの手配は、すべて彼に任せ、まずは、バスで ネパール・インド国境 カーカルビッタへ行く。16時間のバスの移動である。
 カルカッタへ行くのだから、ビルガンジの国境を利用して、ムザッファルプルから鉄道で、カルカッタに行くのが普通であるが、彼は、シルグリからツーリストバスを利用してカルカッタへ行く方法を取ったのである。
 別段、それはそれでいいのであったが、二人して、ネパール側のイミグレーションを無事に超え、次は、インド側のイミグレーションに向かい、手続きを始めた途端に、イミグレーションのオフィサーから、クレーム、

 ― 君、君のパスポートには、ダージリン・パーミッションがないではないか。
   インド国境を越えることは許可できない。

 私は、ダージリンにいく場合のみ、ダージリン・パーミッションが必要だと思い込んでいたのだ。これは困った。仕方がないので、同行の彼には、カルカッタのサダル・ストリートのパラゴンホテルで会おうと約束して、私のほうは、とぼとぼと、もと来たネパール側イミグレーションへと引き返したのであった。
 ネパール側のイミグレーションのオフィサーに事情を話すと、カーカルビッタから1時間ぐらい行った所に、別のイミグレーションがあると言う。
 行き方を詳しく聞いて、乗り合いバスを乗り換え、乗り換え、やっとの思いでそのイミグレーションへと辿りつく。
 イミグレーションとは、名ばかり、小さな掘っ立て小屋のような建物の中にのんきそうな警察官が、一人いるのみである。
 ネパールとインドの境には、細い小川が流れているばかり、パスポートを見せ、事情を話すと、OK、行きなさいという。行きなさいと言われても、インド側のイミグレーションが見当たらない。
 インド側のイミグレーションはどこかと聞くと、遠くを指差して、あの白い建物だと答える。小さな橋を渡って、インド側へと足を進めていく。
 
 インド側のイミグレーションものんびりしてもので すんなり入国スタンプを押してくれる。
 しかし、しかしである。私が今、自分がどこにいるのか、皆目、検討はつかないのである。地図もなければ、案内書もない。 
 わかっていることはと言えば、カルカッタに行くことだけだ。
 オフィサーに訊くと、外にいたリキシャに バス停まで私を運ぶように言ってくれている。インド人もなかなか親切なのである。そして、そこから、バスで、カルカッタ行きの列車が到着する駅に行くことになるようだ。駅の名前を教えてもらったが、今は、もう、覚えていない。
 すし詰めのローカルバスに乗って、駅へと出発だ。
 ここまでたどり着くのにもう、夕方近くになっている。
 バスは、ひたすら、インド平原を走っていく。大きな夕陽を追いかけて。あたりは、どんどん暗くなり、村々の夕食の用意の火が、ちらちらと燃えているのが見える。
 このあたり、まだ、電気は来ていないのだ。このあたりといっても、このあたりが、どのあたりかは全く知らない。
 真っ暗だった周辺が、段々明るくなり、街に入り、駅に到着。
 駅でカルカッタまでのチケットを買う。時は、午後8時過ぎ、列車到着は、午後11時、この夜は、インドといってもやたらに寒い夜だったのだ。
 着るものがない。
 というのは、あの同行のインドの友人、故郷のお土産に、やたら中国製のビーチサンダル、万年筆を買い込み、国境でのタックスを嫌がり、私の衣類は、彼のかばんの中へ、私のザックの中はといえば、彼の中国製のビーチサンダルと万年筆ばかり、着る物はないのだ。
 周りのインド人たちは、皆、ウールのショールをはおり、寒さから、身をまもっているのに、がたがた震えているのは、私ばかり、列車到着までまだ3時間もあるのだ。
 やっと来た列車に乗り込んでも、寒さは変わりなく、眠れたものではなかった。
 夕方、やっとハウラー駅に到着、17時間の長旅だった。タクシーに乗り込み、大急ぎでサダル・ストリートのパラゴンホテルへたどり着くと、パラゴンホテルの前で、彼は待っていたのである。こっちの苦労は何も知らないで。

 今であれば、どうであろう。無事にカルカッタまで行き着けるだろうか。その当時は、まだまだ、インドものんびりしていたのだ。何事もなく、無事に着いたのは、運がよかったのだろうか。


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 ネパールの 歯の治療体験に続いて、インドでのこともついでに書いてみよう。
 これは、10年前のこと、奥歯のセメントが取れ、カトマンズで、治療してもらうも、翌日には、すぐに取れてしまった。再び、セメントを詰めてもらい、もう大丈夫と言われ、2,3日後に 安心してインド・デリーへ向かったのである。
 インドに着くや、否や、又、詰めていたセメントが取れてしまう。セメントが取れてしまうと、冷たいものが滲みて、食べるにも困る有様だ。1週間のデリー滞在中、これでは大いに困る。

 ニューデリー、パハールガンジの安宿街に 宿を決めると、早速、歯医者を探し始める。バザールでインド人に訊き訊き、やっと、歯医者らしきものを見つける。
 中に入ってみると、そこに置かれている機械は、大英帝国植民地時代から使われているような代物で、おそろ恐ろしい姿で置かれている。歯医者も同じように、大英帝国植民地時代から、歯医者の仕事を続けているような老人なのである。
 一瞬、逃げ出そうと思ったが、いや、インド人は、ネパール人と違って手先が器用だ。もしかしたら、もの凄い名医かもしれない。一度、試してみるのもいいかもしれない。
 そこで、その古色然たる治療椅子に座り込むも、やはり怖いのである。無愛想な老医者は、笑顔一つ見せることもなく、口をあけるようにと言う。
 痛かったら、手を揚げて、など一言もないのである。
 治療が始まる。歯を削る、あの機械の音が聞こえてくる。それが、口の中に入ってくる。歯を削り始める。私の痛みなどお構いなしに、歯を削るのである。声を上げようにも上げようがない。黙々と、仕事を進めていく老歯医者、まるで悪魔のようだ。
 治療が終わる。ああ、怖かった。

 この恐怖の治療で、デリー滞在中、歯はどうにかもったが、バンコクに向かうエアロフロート機の中では、うずくのである。あの悪魔のような老医者の不気味な笑い声のように。
 バンコク到着後、恐怖の治療の甲斐もなく、セメントは、又、取れてしまった。

 やはり、インドは、インドである。


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 ネパールの歯医者といっても、今のネパールの歯医者のことではない。今のネパールの歯医者は随分立派になっているはずである。これから、私が話そうとするのは、20年近く前の歯医者のことだ。
 
 今から20年前のことである。カトマンズのニューロード・ゲイトの近くのネパール人が良く利用するゲストハウスに泊まっていた時のことである。
 夕方から急激に歯が痛み始める。何事かと、口の中を触ってみると、親知らずが、生えかけているのである。どうも、虫歯の状態で生えてきたようなのである。
 もう どこの歯医者も閉まっている時間だ。仕方がないので、一晩我慢して翌朝に行くことにした。
 早速 朝、ゲストハウスの主人に良い歯医者はないか、ネパールで有名な歯医者はどこかと尋ねる。この主人、ただのゲストハウスの主人ではないのだ。何を隠そう、日本の外務省の国際協力機関のネパール人のトップの地位にある人なのである。ちなみに民族はタカリ族、日本人にも信頼が厚いのである。
 親切に 彼は、ナヤバネソールの 中国トロリーバスの車庫近くにある歯医者がいいと教えてくれる。
 どうにかこうにか、探し当てて、歯医者に辿りつく。奥さんらしい受付の女性の受け答えもしっかりしている。壁には、イギリスで学んだという証明書も飾ってある。
 これなら、大丈夫だと、診察室に入っていく。歯医者も立派そうに見えるし、使っている器具も新しいものだ。さすが、タカリのあの主人、信頼するに値する。
 歯のレントゲンを撮り、その歯医者もそれを診て、もう虫歯になっているから抜いた方がよいと言う。そうだ、そうだ、見立てもまちがってない。
 その憎らしい親知らずを抜いてもらうのだ。私の歯はなかなか頑丈で抜くのに手間取っていたようであるが、どうにか抜けたようで、又、レントゲンを撮って、確かめる。レントゲンを診ながら、完全に抜けたと言う。
 これで今日は、ゆっくりと眠ることが出来ると、一安心、鎮痛剤をもらって、ゲストハウスに帰る。
 ところがところである、痛みがいつまで経っても、収まらないのである。どうもおかしい、歯医者は、2,3時間で痛みは収まると、いったはずだが。
 口の中に手をいれ、抜いた場所に指を触れてみると、なんと、まだ残りがあるではないか。全部きれいに抜いたと歯医者は言ったではないか。これはどういうことだ。
 又、一晩、激しい歯の痛みに耐え、翌朝、再び歯医者へ。歯医者のところへ行き、

 ― どうも完全に抜けてないようですよ。

 ― そんなはずはない、レントゲンでも調べたから、まちがいはない。

 ― じゃあ、抜いたところを触ってみてください。

 歯医者は、私の口の中に指をいれて、確かめる。

 ― あ、本当だ、まだ残っている。これはおかしい。

 おかしいもくそもない、全く、又、残りを抜くのに一騒動である。

 再び、レントゲン、今度は大丈夫だと言う。私のほうも今度は大丈夫かと、口の中に指を入れ確かめる。
 本当に大丈夫そうだ。

 そんな、20年前の歯医者での出来事である。


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