|
今日、Redolf Steinerの治療教育講義を買ってきました。 私の中でRedolf Steinerはとても大きい存在です。 実際に彼ほど人生のあらゆる領域において、深い洞察を開示してくれた人物は20世紀初頭から現代社会にかけていないと私は思っています。もちろん、彼は神ではないし万能でもないけれど、その霊的洞察に基礎をおいたあらゆる領域での認識は、今日でもいまなお新しく、我々の時代の課題に応じた認識へと合流し、生きた霊の力となって働くことを求めているように思います。 私は、彼のような霊的進化の根源を見つめて、宇宙と小宇宙である人間存在の進化を見つめた人を知りません。いかに個人の運命が、宇宙の進化と関連しあっているのかということを開示した人は、ルドルフシュタイナーただ一人だと思います。 彼が開示してくれたことが、私の中に生きる力となって流れ込みます。私は、人生の謎に踏む込もうとしない人生に吐き気を催します。人が安楽な暮らしを目指すことを否定はしません。ですが、世界との関連の中の人間という存在、そして自分というものが一体何なのかということに踏むこめない人生だったら、私にとって「人生とは無意味」だという想いがあります。『ただ生きるということに何の意味があるのか』一方の心がささやきます。他方では、いや、私の表面の意識は余りにも愚かで、この日、この瞬間の意義が、卑小な低自我にはわからないのだということを語ります。 私の深い至聖所に隠れている『私』が、何をしようとして生まれてきたのか。それは、低次の自我の私、表面に出る私のの現在の認識能力をはるかに超えています。わかるでしょうか。私自身は、自分を普段きちんと愛することができません。すぐに人生をどうでもいいと考えるし、人の個性そのものに対しても、自分の驕り高ぶりからでしょうか、人間的な付き合いを継続的に付き合おうとはなかなか思えないのです。。。自分が真に求めるものを人と共有できることが少ない。ただの人間的な触れ合いの中に十分な喜びを見出せない。物質的なことを求めていく人生に、一体何の興味がわくのだろうか。これは正直な思いです。余りにも世界はくだらないものにも満ちているように思える。これは私の眼が曇ってるからです。 くだらないと思えるものの立場が私に見えなくなるときがあるからです。 自分が価値があると思えるものに向かうことのできる意志が気力が薄いのはなぜでしょうか?ときたま生活することに意義を見出せなくなるのはなぜでしょうか?物心ついたときにはこういった暗い感情を抱えていたと思います。私はここから飛び降りたらどうなるだろうかと考えるような、子供でした。 そういった思いから、私を救ってくれたのは、私にはまだ知らないものがたくさんあるという考えでした。事実、その通りです。私は「この世ならぬもの」と当時、私には思われたものに想いを馳せることで、現実の興味をもてない生活に耐えてきたように思います。戦地に向かうことで生きることを実感してみようか。小さいころ、私も思いました。でも、それは私が求めてるものとは違っていました。当時は衝動的に参加したくもなりましたけど。 人間の命が虫けらのように扱われる世界に生きることで、達成できることはなにもない。自分の満足のために戦地に赴いても、「生きる価値」を見出すことは不可能。せいぜい、苦痛を覚えない自分の生活にある今生で自分が意識して自分を救える可能性に感謝することだできるようになるくらいではないかと思うのです。 感情の高揚を少しでも感じたものを、人生の拠り所にしようとして生きている、それが今の私でしょうか?芸術において、私は救済され、解放される。そう思っていますが、愛情を、自分にどう育めばいいのでしょうか。私は、自分の価値に気づけないから、人を本当の意味で愛せないんだと、思います。 「あなたたち二人が交流するところに『私』はいる」そんな言葉だったでしょうか。
福音書の中の言葉だったと思います。本当は畏敬の念をもって、接しなければいけないものでが、あえて、自分の中に残っている、不確かな印象だけでここに書き記しました。 私が愛を溢れさすことができるようになる日を望んで。 |
全体表示
[ リスト ]




