私はアスペルガー症候群?

人間の謎に古今東西から迫ります

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障害を持った子に関わるということがどれだけの行為なのかということに、震撼させられるくだりです。
いきなり、この講義録を読んでわかる人は、ほとんどいないと思います。ですが、あえて引用してみました。それが、障害をもっている人々にどういった態度と眼を向けなければならないかを指すくだりだからです。

ルドルフシュタイナー自身は、彼の著作と少なくとも格闘して、人智学を理解しようと努めた人のみが講義録に触れるべきだと考えたいたと思います。著作は万人向けであり、講義は、その場にいる人たちの魂の要求に応えるためのものであり、まったく『そこにいた人々に向かっての話』なのです。ただ、現在ではその読みやすさからシュタイナーの講義録から触れる人が圧倒的多いでしょうし、関心の持てる領域のみ、彼の語ったことに触れる人が多いでしょうから、講義録を引用しても問題はないと判断しました。

治療教育講義 高橋巌 翻訳 ちくま学芸文庫より抜粋

「ゲーテは植物が以上を現すとき、そこに、<現植物の理念>を見つけ出す最上の手がかりを見ています。……霊的な生きものである人間の場合にも、基本的には同じことが言えるのです。人体に潜んでいる異常性は、人間本来の霊性を外に開示してくれるのです。」

P44-
重度の精神疾患を前にして、皆さんが現在なされているような仕方で心理描写を、つまり症候の記述をするとします。現在通用している見方からすれば、その人はあらゆる種類のばかげた振る舞いをします。今日の人は、その場合何が問題なのかを全然考えようとしません。何も反省しないのです。
 いいですか、その場合問題は次の点にあるのです。まったく異常な生き方をしているこの誰かは、それゆえにこそ前世において、非常に重要な人物であった可能性、天才的な一生を送った人である可能性があるのです。そのような天才の人生がこの前の前の生涯であったとします。そしてその次の人生において、その人は比較的若い時期に牢獄に閉じ込められてしまい、全然この世と関係を持つことができなくなってしまったとします。そのような人は牢死して霊界で生き続け、そして今、精神障害を伴ってふたたび地上に現れてくることがあるのです。彼の地上生活が完全に肉体とエーテル体の体験をしていなかったために、その体験内容を十分消化できず、人体の内部組織について無知なまま、地上に受肉してきたのです。その人は自分の肉体とエーテル体に関わりが持てずに、その外に留まっています。肉体を使用することができないので、今異常な行動に出てしまっています。私たちがその人の肉体とエーテル体から目をそらして、そのアストラル体と自我だけに目を向けることができれば、彼が何者であるか、どうしてそのような生き方をするのかが理解できるようになるのです。
 ところでそのような人を、その人の子どものときを、私たちが受け持つことになった、と考えてみてください。私たちはその子の肉体とエーテル体と関わりを持とうと絶えず、試み、そのたびにふたたび追い返されます。それを図例に示せば、ここに肉体とエーテル体があります。そしてその中には、十分の準備なしに形成された、正常でない器官が存在しています。アストラル体と自我がその中に入っていこうとします。いたるところで入っていこうとしますが、正常な仕方では入っていくことができず、そのつど入っていくのに苦労しなければなりません。たとえば、肝臓と胃の中に入っていくために、そのつどアストラル体と自我は苦労しなければなりません。この苦労が嵩じると、独特の仕方で異常なリズムが生じます。苦労の結果、自我は瞬間的に強められ、そしてふたたび弱められます。その子は、あるときは強度の肝臓や胃の感情を持ちますが、それが意識される以前に弛緩した肝臓や胃の感情を持ちます。このようにして常に振り子のように、烈しい肝臓や胃の感情と弱められた肝臓や胃の感情とのあいだを往き来します。その結果、正常な仕方では自分の身体を使用できなくなってしますのです。なぜなら、身体を使用するには、このようなリズムを生じさせることなく、アストラル体と自我が落ち着いた状態で個々の器官に入っていかなければならないからです。
中略)
 このことは、いわゆる精神疾患となって現れるすべての事柄を、細部にいたるまで愛情をもって見つめることを求めています。そして心理描写、あるいは魂のいとなみの単なる症候上の記述を超えて、この精神疾患の中に働くカルマ的な関連に、あるいはいわゆる精神病の人とその生活状況との結びつきに注目することを求めています。そのような場合の生活状況は信じ難いほど興味深いものです。その際必要なことは、客観的な仕方で観察することです。そうすれば精神疾患に深い関心を寄せることができるはずです。
 精神疾患は最高の叡智の歪んだ模像なのです。そこでは霊界が自分の方から扉を開いてくれています。ただその入り口は、歪んだ形をしています。私たちがそれを興味深いと感じれば感じるほど、しかも大げさにではなく、深く内的な仕方で、異常な魂の在り方に興味を感じれば感じるほど、この扉は開かれるのです。
 異常さが肉体とエーテル体を直接捉えるとき、すでに述べたようなリズムが現われます。それはアストラル体と自我が烈しく働くことの結果、肉体とエーテル体が強く捉えられ、克服され、そしてふたたびその働きが弱くなることによって生じるのですが、このようにして、強い干渉と弱い干渉のリズムとして現われてくるものに私たちが深い愛を持って接するならば、後にこのリズムが克服され、通常の場合よりもはるかに集中的な仕方で肝臓や胃が捉えられた後で、行為の天才がそのような精神障害者の中から現れてくることができるのです。もし教育者からのそのような接し方がなされない場合、この問題は死と再生のあいだで解決されるまで、放置されることになります。
 どうぞ考えてください。障害のある子を教育するということは、そうしなければ、あるいは間違った教育を与えたならば、その子が死に、そしてふたたび次の地上生活に生まれ変わるまで、待たねばならないであろうようなことを行うことなのです。それほどにまで深く子どものカルマに関わることなのです。このことをよく意識しておかなければなりません。障害のある子の教育は、どのような扱い方をする場合にも、その子のカルマに干渉することになります。そして当然のことですが、干渉しなければならないのです。カルマに対する干渉を正しく行うためには、ある種の事柄が克服されなければなりません。
中略)
教育に関して言えば、死と新しい生とのあいだでなければ遂行できないような、カルマへの深い関わりを教育が行うのだということを、私たちは知らなければなりません。障害のある子どもを教育するときには、未来における神々の作業を現在すでに行うことになるのです。このことを理論として受け取るのではなく、心の中にしっかりと作用させるならば、私たちは常に、今なさねばならぬ事柄を行うのか、それともゆるがせにしてしまうのかの決断の前に立たされるでしょう。けれども次のことを忘れてはなりません。霊的衝動によるどんな歩みも、右にも左にも眼を向けながら、内的な勇気を持って新しい決断をするように促されるのです。
 地上における通常の生活なら、この内的勇気を持たずとも暮らしていけます。その生活の中では、慣れていることだけを行っていればよいのです。そこでは自分の中にすでに在る基準だけを頼りに生きていけますから、新しい見方をする必要を感じないですみます。物質世界でいとなまれる生活ならそれでいいのです。けれども霊的な衝動に促されて生きるときには、毎日、毎時間、決断の前に立たされていると感じないわけにはいきません。
 どんな行為も、行うこともできるし、行わないこともでき、そしてまったく中立な態度もとることもできます。ですからどの方向を選んだらいいのか、その決断の前にたたされていると感じずにいないわけにはいきません。そしてそのような決断の際には、まさに勇気が、内なる勇気が必要なのです。私たちの問題である教育の分野で何かを行おうとするときには、この覚悟が何にもまして必要な条件になります。問題の大きさを十分に意識し、お前は神々がいつかその子の死後になすであろうような事柄を、現在行おうとしているのだ、と感じるときにのみ、私たちは眼を見開くことができます。このことを意識することは非常に大きな意味があるのです。このことはメディテーションを通して、受けとめてください。そう考えることができるということは、大きな意味を持っています。このことを毎日メディテーションを通して魂の眼前に置くとき、日々の祈りのように、毎日それを瞑想するとき、それは障害を持った子どもに正しく向き合うのに必要なアストラル体の在り方を私たちの中に生み出してくれます。私たち自身が自分をそのように作り上げなければならないと、信じることができるようになったとき、そのときはじめて私たちはさらなる事柄を語り合うことができるのです。


 これだけの抜粋から、わかるでしょうか?精神疾患や障害は、「健常」という卑小な概念から導き出される「異常」ではありません。健常者における教育は広義の意味でいうならば、治療です。私たちは誰でも異常性を抱えています。健常者における異常に傾くブレは、眼に見える形になりにくいという程度です。私たちは常に治療過程を必要としています。喉が渇けば、水で治療し、お腹が空けばご飯を食べます。これも広義の意味で治療です。息が詰まれば、私たちは自分たちを緊張から弛緩させてくれるようなものを必要とします。精神的なものはより個体的な要求になり、私たちは自分たちのまぎれもない個性からそれらを必要とします。「人はパンのみによって生きるものにあらず」です。教育においては何にもまして、語るものより行うものより、存在が大切なのだということがわかるでしょうか?私は現在教育を行うものではありませんが、自分が何を行っているのかということを真に洞察でき、それを魂に流し込める人が、真に有効な教育を行える人だと確信しています。

閉じる コメント(3)

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ありがとうございます。息子はやはりASです。 せっかく今生の人生を選び、生きにくい人生だがやって行こうという意思を持って私に宿ったのだから・・・。 ”語るものより、行うものより、存在が大切なのだということ”を読んで今、やっと泣けました。 ありがとうございました。

2006/7/18(火) 午前 11:08 [ ぴょん ]

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うちの息子もASです。先日、義理の姉から親戚だと思われると困るといわれました。あまりに悲しくて・・・でも大事に育てていきたいと思います。

2007/5/24(木) 午後 7:35 [ uti**nobab*a ]

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私はアスペルガーですが下にはADHDの妹がいます
私は中学、高校とイジメにあい、つい最近学校を辞めることになりました。高校を辞めたことで近所から好奇の目で見られ、家では妹に「障害者だから学校を辞めたんだ」と母には「妹に影響がよくない」といわれます。いろんなことがあって人間不信にも陥ってしまい、バイトも出来ません。どうか返事まってます。

2007/6/19(火) 午後 11:22 [ はな ]


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