私はアスペルガー症候群?

人間の謎に古今東西から迫ります

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超感覚的な認識が人間の中に認める第四の本性は、もはや開示された周囲の世界と何かを共有していない。そしてそれこそが、人間を他の自然存在から区別するものであり、それによってこそ、人間は「万物の霊長」なのである。超感覚的な認識によれば、人間は覚醒時に、アストラル体と本質的に区別されうる、別の本性の働きを受けている。

=== 覚醒時の人間は、現われては消える体験だけでなく、持続的な体験を持つが、
このことに注意を向けるなら、この二つの本性の働きの相違が、直ちに明らかとなる。 ===
人間の体験を動物の体験と比較すれば、このことが一層明らかになる。

 動物は、規則正しい仕方で、外界の影響を受ける。そして暑さや寒さ、快や苦の体験を通し、
規則的に繰り返される餓えや渇きの体験を通して、みずからを意識する。人間の生活は、
このような体験だけでは汲みつくされない。人間の所有する欲望や願望は、これらのすべてを超えて働く。動物の場合、必要なだけ深く考察するならば、その行動や感情への誘因が、体外または体内のどこにあるかを、はっきり明示することができるであろう。

=== 人間の場合は決してそうならない。人間の場合、欲望や願望の誘因をその体内にも体外にも見出すことができない場合が生じうる。その場合には、特別の源泉を見出さなければならない。そのような源泉は、超感覚的な認識の意味で、人間の「自我」の中に見出すことができる。
それゆえ「自我」は第四の人間本性であると言える。 ===

 アストラル体がみずからを自由な状態に置けば、快と不快、餓えと渇きがそこに現われるであろう。
しかしその場合は、これこそが持続的なものだ、という感情は現われない。
その場合、持続そのものではなく、持続を体験するものが「自我」なのである。

 この点での誤解を避けるためには、概念を明確にしておかなければならない。「自我感情」が目覚めるのは、変化する内的な諸体験の中に、持続的なものを認めるときなのである。たとえば、餓えを感じることが、人間に自我感情を呼び起こすのではない。餓えの要因が生じるたびに、そのつど餓えの感情が現われ、それゆえに、人は食卓へ向かうが、その場合自我感情が現われるのは、餓えの要因が人を食事にいざなうだけでなく、以前の食事のときに味わった喜びが、快の意識として持続しているときである。それゆえ、現在の餓えの体験だけでなく、食事に際しての『過去の』快の体験がそれと結びついて、自我感情を生じさせる。

===  エーテル体がもはや保持しえなくなった肉体は、崩壊する。アストラル体が明るく照らさないエーテル体は、没意識状態の中に沈みこむ。そして「自我」が過去を現在の中に取り込むのでなければ、アストラル体だけでは、過去はそのつど、忘却の中に沈まなければならないであろう。肉体にとっての死、エーテル体にとっての眠りは、アストラル体にとっての『忘却』に対応する。エーテル体にとっては、生命が固有のものであり、アストラル体にとっては、意識が固有のものであり、そして自我にとっては、
『想起』が固有のものなのである。 ===

 植物に意識があると思うよりも、動物に記憶力があると思う方が、一層容易かもしれない。
長い間別れたいた主人に再会したときの犬の態度は、犬の記憶力を容易に想定させる。しかし、この場合の犬の再認識は、記憶力によるのではなく、それとはまったく別の働きによるのである。

犬がその主人に強い結びつきを感じるとき、その結びつきは、主人の存在によって生じる。主人が眼の前に現われたとき、主人の存在が犬に快の感情を生じさせる。主人が眼の前に現われるたびに、そのつどその存在が快の感情を新たに呼び起こすきっかけとなる。
=== しかし記憶が存在するのは、現在の特定の体験を感じるだけでなく、過去の体験を保持しているときなのである。 ===

 このことが承認できたとしても、なおかつ犬に記憶力があるという誤謬に陥るかもしれない。なぜなら、主人がいなくなったときに悲しむ犬の様子を見ると、主人を記憶しているかのように思えるからである。しかしそう考えることも間違っている。主人との共同生活を通して、犬には主人の存在が不可欠になっている。だから餓えを感じるのと似た仕方で、主人の不在を感じるのである。こうした区別をしない限り、人生の本質を洞察することはできない。(中略)

 人間は記憶を、自分の魂の内的観察によってのみ知ることができるが、動物の内面は観察できない、という主張の根底には、決定的な誤謬が存在している。
=== 人間は、みずからの記憶力を、魂の内観によって知るのではなく、外界の諸事象に対する態度の中に見てとることができるのである。 ===どの人間もこの態度を『自分に対して』、他の人間に対して、そしてまた動物に対して、まったく同じ仕方で示している。
 
 記憶力の存在を内観によってのみ知ることができるというのは、幻想である。
=== 記憶の根底に存する力は、内的な力であるが、この力についての判断は、人生と外界との関連によって眼を向けることによってのみ獲得される。 ===(中略)

「自我」にとっての記憶と忘却は、アストラル体にとっての目覚めと眠りの場合によく似ている。
眠りがその日の心配事を無の中に消し去るように、忘却は人生の悪しき経験の上にヴェールをひろげ、
それによって過去のある部分を消し去る。また、消耗した生命力を新たに補充するためには
眠りが必要であるように、新しい体験と自由に向き合うためには、過去のある部分を記憶から消し去らねばならない。忘却からこそ、新しい何かを学ぼうとする力が生じてくる。(中略)

 さて、記憶はさまざまな段階において生じる。記憶のもっとも単純な形式は、ある対象を知覚し、その対象から離れたあとでも、それについての『印象』を呼び起こすことである。人間は対象を知覚するだけでなく、それを印象として保つことができる。このことが可能となるためには、アストラル体と自我との間に、ひとつの経過が生じなければならない。アストラル体は対象についての外的な印象を意識的にする。しかし、自我がこの意識を自分の中に取り入れ、それを自分の所有物にするのでなければ、その印象を生き生きと保ち続けることはできないであろう。
 
 まさにこの点において、超感覚的な直観は、『体的』なものを『魂的』なものから区別する。眼の前の対象を意識化するのは、『アストラル体』の働きである。しかしその意識を永続的なものにするのは、『魂』なのである。しかし、今述べたことからもすぐにわかるように、人間の中ではアストラル体と、意識を持続的なものにする魂の働きとが、深く結びついている。その魂の働きとアストラル体とは、人間のいわば同じ本性になっている。したがって、この両者をも「アストラル体」と呼ぶことができる。

=== しかしさらに正確な言い方をしようとするなら、人間のアストラル体を「魂体」と呼び、アストラル体に結びついている魂を「感覚魂」と呼ぶこともできる。 ===

===  自我が対象を意識するだけでなく、更にその意識に働きかけを行うとき、自我の本性は、
一段高次の段階に上る。この活動を通して、自我は知覚の対象からますます離れて、自分の所有しているもののなかで働くようになる。そうすることのできる魂の部分は、悟性魂もしくは心情魂と呼ばれる。 ===

 感覚魂も悟性魂も、感覚的に知覚された対象の印象を受けとり、それを記憶に保持するが、その時の魂は、自分の外なるものに完全に帰依している。記憶を通してみずからの所有物にしたものも、魂は外から受けとったのである。

 しかし魂は、こうしたすべてを超えていくことができる。魂は感覚魂と悟性魂だけではない。超感覚的な直観は、一つの単純な事実に眼を向けることによって、このさらなる魂の行為についてのイメージを用意につくることができる。

 言語の中には、その本質上、他のすべての言葉から区別されうるような言葉が、ひとつだけ存在する。
それは「私」(自我)という言葉である。他のどんな言葉も、対応する存在に対して、いつでも使うことができる。しかし「私」という言葉をある存在に対して使うことができるのは、この存在がこの言葉を自分に向けるときだけである。外から「私」という言葉が、ある人の耳に、その人の呼び名として聞こえてくることは、決してない。その人だけが、この言葉を自分に向けて使うことができる。「私は、私にとってのみ、一個の『私』である。すべての他者にとって、私は一個の『汝』である。そしてすべての他者は、私にとって一個の『汝』である。」(中略)

超感覚的な直観との関連を意識的な仕方で保持してきたユダヤ教の立場は、
「私」という呼び名を「神の言い表し難き名前」であると述べている。こういう言い方がなされるときは、まさに上に述べたことが指示されている。

 どんな外的な事柄も、今問題にしている魂のこの部分に通じる道をもたない。この部分は、魂の隠された聖域なのであり、ただ同じ種類の魂を持った存在だけが、そこへ参入することができる。

=== 「人間の内なる神は、魂がみずからを『私』と認識するとき、語りはじめる」
 感覚魂と悟性魂が外界に帰依して生きるゆおに、魂の第三の分肢は、みずからの本性を知覚することによって神的なものに帰依する。 ===

 以上に述べた考え方は、「私」と神とを同一視しているかのように誤解させるかもしれない。
しかし、ここでは自我が神だ、といっているのではない。自我が神的なるものと同じ在り方をしている、
と言っているのである。一滴の水は海水と同じ性質のものだ、と言ったからといって、
海から取ってきた一滴の水を、海だと主張する人がいるだろうか。この比喩を例にとれば、
一滴の水が海に対するのと同じように、「私」は神的なものに対しているのである。

 人間はみずからの内に、神的なものを見出すことができる。なぜなら、人間のもっとも根源的な存在部分は、神的なものからとってこられたのだから。このように人間は、みずからの中の神的なものを通して、魂の第三分肢を獲得する。

=== アストラル体を通して、外的な意識を獲得するように、自我という、みずからの中の神的なものを通して、自分自身についての『内的な意識』を獲得する。それゆえ、神秘学は魂のこの第三分肢を「意識魂」と呼ぶ。そして神秘学の意味において、魂は感覚魂、悟性魂、意識魂の三分肢から成り立っている。同様に体は、肉体、エーテル体、アストラル体の三分肢から成り立っている。 ===

ということで今回はここまで。
自分なりの見解を書きたいとは思ってるのですけど、自分の不正確な理解より、
シュタイナーの文章を引用したほうがいいなと思い、この長い引用を頑張ってタイプしました。

まだまだ輪廻転生の考察まで続けたいなと思います。
これではまだ「霊」と「魂」と「体」の区別はつきませんよね。
それは後ほど引用をこちらにしていきたいと思います。
そして、自分が何を問題としているのかを、どうすればいいのかが
漠然とこれを書きながら浮かんできたことも、引用が終わり次第、
できるだけこれから書いていきたいと思います。


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