私はアスペルガー症候群?

人間の謎に古今東西から迫ります

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DSM-IVからわかること

本当に久しぶりにブログを更新しようという気になりました。
三ヶ月ぶりくらいですかね。自分は何事も長続きさせるのは難しい性質を持っていますが、
継続するということは難しいですね。先日までゲストハウスで仕事をしていたのですが、社長が信用できない会社なので、辞めて帰ってきました。ネット環境はありましたが、PCの画面が壊れていたので、これを更新する気力はなかったところです。

ネット依存症ぽくなってきています。
アスペルガーによる二次障害なのか、依存症的な性質はいつもありますが、アスペルガーによるコミュニケーション障害ですぐに直るという可能性は極めて低いでしょう。依存症には、自己肯定感の欠如というのがありますが、私はまさにそうです。いつでもこの世に未練はないというような状態が物心ついたころから続いています。それは、人を大切にも、本当の意味では愛情をかけることができないということを指します。そういう意味で、私は自分という人間に絶望します。もともと、人といるということに仮初めの救いは求めていても、そこに満足を覚えることはないのだという思いがあります。それは、コミュニケーション障害による自己疎外感からなのか、と思います。

と、いう前置きはやめにしてDSM-IVについて話します。『精神疾患の分類と診断の手引き(DSM)』は、精神衛生の専門家が、うつ病、不安、過動・多動性、統合失調症を含めた、あらゆる情緒的、行動的および精神的病状を診断する際に参照されます。これは、アメリカ精神医学会から出されるもので、5年から10年ごとに改訂されるようです。自閉症に対する診断基準としてもう一つ『国際疾病分類(ICD)』というのもありますが、今回はDSMの四版目であるDSM−IVについて話します。

自閉症スペクトラム障害が入るのは、「広汎性発達障害」とよばれる範疇だそうです。
以下引用
「この包括的な用語は、自閉症スペクトラム障害を、学習障害などのより特定的な発達障害と区別するためにDSMの著者らによって用いられたものです。アスペルガー症候群と高機能自閉症も含め、広汎性発達障害のある子どもたちには、複数の(すなわち「広汎な」)発達領域にわたって(社会的、コミュニケーション、態度、認知、ときには動作技能にさえ)困難がみられます。対照的にディスレキシア(読み書き障害)のような特定の発達障害のある子どもたちは、一つの特定の学習領域(読むことなど)には問題がみられるものの、他の点に関しては機能に問題はなく、社会的にも行動的にもきわめて正常ですし、少なくとも標準的な運動技能を持っています。
 広汎性発達障害すなわちPDDの範疇には次の5つの特別な障害が含まれます。すなわち自閉性障害、アスペルガー障害、レット障害、小児期崩壊性障害、および特定不能の広汎性発達障害(PDD−NOS)です。この5つの障害は、具体的な細かな点については互いに異なっていますが、すべてに共通する点については等しく重要であることに変わりありません。
第1に、5つのPDD圏のそれぞれには、いづれも複数の発達領域にわたり広汎な困難がみられるということです。第2に、いずれの場合も他者との社会的な関係が著しく損なわれています。精神遅滞(ただし自閉症はみられない)などの他の障害のある人にも、複数の領域にわたって広汎な困難がみられますが、そのような場合は社会的に重大な困難を抱えることはありません。むしろ彼らの社会的能力は、彼らの精神能力と同等のつり合いのとれたものと言えます。対照的にPDDのある人の社会的障害は、彼らの精神能力からみて予想されるよりもしばしば深刻です。
 自閉症スペクトラムのふたつの疾患、つまりレット障害と小児期崩壊性障害は、ほとんど必ずといっていいほど重大な認知障害と関連があり、高機能自閉症スペクトラム障害とみなされることはありません。」
引用終わり

さて、ここで今回書きたかったのは何かというと、アスペルガー症候群をどう把握して、どう対処するかということを考えるとき、同じ自閉症スペクトラムに位置づけられる他の障害を持っている人たちと何が違い、それぞれがどういう世界を生きているのかということを把握するのが必要なのではということです。

一つには、アスペルガー症候群に属する人々というのもまさに普通の人が千差万別であるように、十人十色で障害の程度もまったく人によって違うし、ある特定の障害はまったく現われないということも珍しくないということがあげられます。だから、アスペルガー症候群とは専門家にもまだ不透明な部分がついてまわるものなので、他の自閉症スペクトラム障害と関連して考えることで、より本質的な彼らの世界に近づくことが可能な筈です。また、アスペルガーの人には健常者の住んでいる世界の扉を開くかもしれません。

ともう一つは、アスペルガー症候群に対しての特別な有効な治療法というのが考えられないなかに私たちはいるようなので(私が調べた限りでは)、十人十色のアスペルガー症候群のこの部分に対しては、こういった治療法をあてがうといったこともでき、またある面では別の治療法もあてがうことができるということもできるという側面もあります。ただし、社会に適応することだけを求めるような治療という名を借りた精神的な暴行は、ごめんこうむりますが。

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今日、昨日ガールフレンドから借りてきた、
「ガイドブック アスペルガー症候群」
親と専門家のために Tony Attwood著 東京書籍
原題「ASPERGER'S SYNDROME A Guide for Parents and Professionals」
を読み終えました。

読み終えての感想は、具体的にアスペルガーの性質、そこから来る周囲との陥りやすい問題、
対策がわかりやすく、専門用語に偏らず述べられていたように思います。
そういう面では、敷居が高い本ではないし、人間に関心を持っている人なら誰でも読んでもいい本です。

「あの人は人の気持ちがわからない」と嘆く前に、人間の感覚的な基盤は、各人共通ではなく、
様々な差異があることを具体的に認識してことがどれだけ無駄な争いをなくして、
悲しい思いを減らすでしょうか。

或る意味で一般の人と共通の興味を持てない私は特にそう感じます。

この本の中で個人的に特に興味深かったのは、
アスペルガー症候群の特徴の男女における現われ方の差異です。

以下引用
『しかし私は、一般に男児のほうが社会的技能の激しく偏ったプロフィールを持ち、とくにフラストレーションやストレスが高いときは、破壊的・攻撃的な行動に流れるような社会的欠陥をもつ傾向があることを指摘してきました。こうした特徴は、親御さんや先生方により気づかれやすいので、その子どもはなぜ普通にできないかと相談に訪れるのです。対照的に、女児は友達と一緒に遊ぶ能力が比較的あって、社会技能のそれほど偏ったプロフィールは見せない傾向があいます。私はアスペルガー症候群の女児は、後から遅れて遅延模倣をすることで、集団内の動きについていく能力が高いようだと見てきました。彼女らは、他の子どもよりタイミングが悪くて、自発的ではありません。この違いを実証する糸口となるデータは、自閉症での性差の研究からも得られています。(マクレナン、ロード、ショプラー、1993)。

 この症候群の女児は、変わっているより、むしろ未熟だと見られやすい傾向があります。その特別な興味の対象は、男児に見られるほど特異でも、強固でもない場合もあります。ですから、彼女たちは一人きりで空想の世界に浸っていても、クラスの秩序を乱すような行動はとらない−−−「眼に入らない」子どもと述べられたりします。女児は、男児より診断されることが少ない傾向があっても、無言で苦しんでいることが多いのです。

 女児にとって、一つ重大な問題は、青春時代には日常的な友人関係の基盤が変わることです。おもちゃで一緒に遊んだり、想像力を使って遊ぶのに代わって、青年期の友人関係は、実際の体験や、対人関係、感情などについての内容が圧倒的に多い、会話に基づくようになります。アスペルガー症候群のティーンエイジャーの女の子は、小学校の校庭でやっていた遊びを続けたくて、以前の友人たちとの交わりは薄くなっていきます。もはや同じ興味を分かち合うことはできないのです。さらに、新たな問題となるのが、
同年代の男の子たちからの異性を意識した働きかけにどう対処するかです。会話をするだけなら受け入れられても、身体的接触はもちろん、ロマンチックな恋愛の観念に当惑したり、嫌悪したりします。

 何人かのティーンエイジャーのアスペルガー症候群の女性は、仲間との活動に入りたい一心から、自分の顔の一部であるかのような仮面を意図的につけていると述べています。学校では他人に常に微笑を浮かべているように見えても、仮面の下では、不安と恐れ、自己喪失の感情に襲われているのです。彼女たちは、必死で他人に受け入れられよう、他人を喜ばせ気に入られようとしているのですが、自分の内面の感情を人前で表わすことができないのです。(中略)

 いつまでも続くと訴えられる問題は、「他人と感じ方が違う」ことです。彼女たちの人との接し方は、表面的には自然に見えますが、自分たちが機械的で、直感的にはできないと思っています。他人はどうやって互いに親密となり、あまり考えなくても友人関係を保てるのかと悩み続けているのです。』

 私は男性で、ここにあるアスペルガー症候群の女性の一例のように、必死で他人に受け入られようとは思いません。社会生活の中で他人を喜ばせようという位置からは、ほど遠い位置にいます。ただし、全く自分の社会性と関係のないところで、他人が困っているとき、親切に何かをするということは人一倍あります。しかし、社会に受け入られようという意識は希薄です。それは、根底に自分が受け入られずにいたことで傷ついたことから来るのか、自分が人の感情への配慮が『難しい』ということから来るのか、わかりません。「孤独」でいなければならないけれども、人を必要としているジレンマを抱えています。
「自分だけでは生きられない」という思いは確かにあるのです。

ですが、受け入られるように努力しよう、配慮しようとすることは今の私にとって、大きなストレスなような気がします。愛する人たち、少しでも好意を寄せる人たちには理解してもらいたいと思っています。
しかし、そこにいたる方法がどこにあるのか、いまはまだよくわかりせん。そして、私は機械的に形ばかりの振る舞いは、社会的便宜としてあるのだとしても、形ばかりの礼は施したくありません。正直でありたいからです。

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占星術

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人間のことを考察しようとすることは、
私にとって「汝自身を知れ」という命題を、この場合は文が不完全でしかないのだが、
自分の根底にある霊的衝動を満たすものに他ならない。

私たちが自分たちの位置を確認しようとするとき、
現代の意識では、大部分の人にとって、身近な人間関係、せいぜい社会の枠組みの中の自分に
とどまるだろう。世界に眼を向けたとしても、動物界、植物界、そして宇宙との関わりあいにまで
実感としてどのように関わっているのかということに眼を向けることは少ないだろうと思う。

私が高校生のときに始めて出会ったトロピカル占星術は、
ある意味で、人間と宇宙との関わりあいについての、多様な示唆を提供するものだった。
人間の進化する方向についての、明晰な観点を得られないという思いはあったが、
人間存在と天体の影響、宇宙の模像である人間という原像に不確かながらも到達する助けになっている。

伝統的占星術は、人間が、人間社会がいかに星の運行の影響をうけているのかということを露にする。
しかし、もっとも素晴らしいと思えるのは、人間がどのようなリズム=周期と供に生きているのかということがわかるという点だった。

現代社会で人間がどのような複雑な周期の流れの中で生きているかを
体感させてくれるものが、占星術のようなもの以外に何かあるのだろうか?

浅い占星術の知識でも、
例えば、土星の29.50年ごとに起こる節目(トロピカル占星術とヘリオセントリック占星術では厳密には違うし意味合いも違うのだけど)や、太陽が黄道を周る一年の内に、もっとも南に近づくときや北に近づくときに人間の魂の中で何が起こるか、約二年半ごとに起こる火星の周期、12年ごとの木星の周期など、約28日周期の月など、そういったことと結びついた時間の感覚が何を起こすのかに眼が向く。

そして、長い周期では約2万5000年ごとに春分点が黄道12星座を一周するのが、身体が正常な状態一日に行う呼吸の数が、ほぼ同じ2万5000回だということに気づけば、それが宇宙にとっての一日あたるということがわかると思う。太陽は72年ごとに最も上昇する位置を、星座を約1度進行するが、それは一分間の平均脈拍数に対応している。そして、太陽は古来から心臓に関係していると言われている。こういった抽象化の域を出ない眼から見ても、宇宙のリズムと人体が何らかの関連を示しているということがわかるだろうと思う。

私自身まだ抽象化の域を脱しておらず、自分の中に宇宙の模像を体験するというところには至っていない。しかしながら、こういったものに眼を眼を向けることが進化の方向性に対しての眼を開くということ、宇宙=世界を知ることが、人間を知ること、つまり自分達の中にある偉大な叡智に眼を向けるということにつながるということは、確信をもって言うことができる。

こういったものを通してしか、現代の人間は時間の本質を探ることは、不可能に近いと思う。
私達は、いま現在ある材料を通して、一歩一歩確実なものに近づいていく。

そして、人体とは、人間とは、自分達も知らない、限りない叡智の宝庫なのだから。

マヨルカ, Espana

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今年の一月にマヨルカの友達の家に滞在したときの写真です。
マヨルカ島はカタルーニャ語が普段の言葉ですが、滞在した友達の家は、
お母さんがインドネシア系オランダ人、お父さんがマヨルカの生まれ?で、
会話はカタルーニャ語がほとんどでした。
友達である息子達とは普段ドイツ語で喋っているので、大体はドイツ語と英語で喋ってます。
とりあえず、カタルーニャ語で覚えたのは、
スペルはたぶん、Bon dia ボン ディア!(こんにちは)
とBon profit(ボン プロフィット)
カタルーニャ語は聞くところによると、スペイン語やフランス語より成立が早いらしく、
フランス語とスペイン語の間のような言語です。
スペインに行くからスペイン語を少し覚えたけど、上記のような理由であまり意味がなかったです。

サボテンの花、地中海、そして霧の中の建物。

サボテンのこんな大きい花は初めて観ました。
マヨルカ島の伝統的なオムレツはすごく美味しいですよ。キノコとじゃがいもと、ほかにもたくさん具はあるのですが、忘れました。卵をかなりたくさん使って、形は山のようでした。

彼の家では、お昼だけ温かいご飯が出て、あとは各自食べるという感じでしたが、
スペインではこれが普通の団欒なのかな?お母さんは、お互いが自由な時間を取るためと言ってましたが、もしかしたらオランダ式?なのかも知れないですね。

超感覚的な認識が人間の中に認める第四の本性は、もはや開示された周囲の世界と何かを共有していない。そしてそれこそが、人間を他の自然存在から区別するものであり、それによってこそ、人間は「万物の霊長」なのである。超感覚的な認識によれば、人間は覚醒時に、アストラル体と本質的に区別されうる、別の本性の働きを受けている。

=== 覚醒時の人間は、現われては消える体験だけでなく、持続的な体験を持つが、
このことに注意を向けるなら、この二つの本性の働きの相違が、直ちに明らかとなる。 ===
人間の体験を動物の体験と比較すれば、このことが一層明らかになる。

 動物は、規則正しい仕方で、外界の影響を受ける。そして暑さや寒さ、快や苦の体験を通し、
規則的に繰り返される餓えや渇きの体験を通して、みずからを意識する。人間の生活は、
このような体験だけでは汲みつくされない。人間の所有する欲望や願望は、これらのすべてを超えて働く。動物の場合、必要なだけ深く考察するならば、その行動や感情への誘因が、体外または体内のどこにあるかを、はっきり明示することができるであろう。

=== 人間の場合は決してそうならない。人間の場合、欲望や願望の誘因をその体内にも体外にも見出すことができない場合が生じうる。その場合には、特別の源泉を見出さなければならない。そのような源泉は、超感覚的な認識の意味で、人間の「自我」の中に見出すことができる。
それゆえ「自我」は第四の人間本性であると言える。 ===

 アストラル体がみずからを自由な状態に置けば、快と不快、餓えと渇きがそこに現われるであろう。
しかしその場合は、これこそが持続的なものだ、という感情は現われない。
その場合、持続そのものではなく、持続を体験するものが「自我」なのである。

 この点での誤解を避けるためには、概念を明確にしておかなければならない。「自我感情」が目覚めるのは、変化する内的な諸体験の中に、持続的なものを認めるときなのである。たとえば、餓えを感じることが、人間に自我感情を呼び起こすのではない。餓えの要因が生じるたびに、そのつど餓えの感情が現われ、それゆえに、人は食卓へ向かうが、その場合自我感情が現われるのは、餓えの要因が人を食事にいざなうだけでなく、以前の食事のときに味わった喜びが、快の意識として持続しているときである。それゆえ、現在の餓えの体験だけでなく、食事に際しての『過去の』快の体験がそれと結びついて、自我感情を生じさせる。

===  エーテル体がもはや保持しえなくなった肉体は、崩壊する。アストラル体が明るく照らさないエーテル体は、没意識状態の中に沈みこむ。そして「自我」が過去を現在の中に取り込むのでなければ、アストラル体だけでは、過去はそのつど、忘却の中に沈まなければならないであろう。肉体にとっての死、エーテル体にとっての眠りは、アストラル体にとっての『忘却』に対応する。エーテル体にとっては、生命が固有のものであり、アストラル体にとっては、意識が固有のものであり、そして自我にとっては、
『想起』が固有のものなのである。 ===

 植物に意識があると思うよりも、動物に記憶力があると思う方が、一層容易かもしれない。
長い間別れたいた主人に再会したときの犬の態度は、犬の記憶力を容易に想定させる。しかし、この場合の犬の再認識は、記憶力によるのではなく、それとはまったく別の働きによるのである。

犬がその主人に強い結びつきを感じるとき、その結びつきは、主人の存在によって生じる。主人が眼の前に現われたとき、主人の存在が犬に快の感情を生じさせる。主人が眼の前に現われるたびに、そのつどその存在が快の感情を新たに呼び起こすきっかけとなる。
=== しかし記憶が存在するのは、現在の特定の体験を感じるだけでなく、過去の体験を保持しているときなのである。 ===

 このことが承認できたとしても、なおかつ犬に記憶力があるという誤謬に陥るかもしれない。なぜなら、主人がいなくなったときに悲しむ犬の様子を見ると、主人を記憶しているかのように思えるからである。しかしそう考えることも間違っている。主人との共同生活を通して、犬には主人の存在が不可欠になっている。だから餓えを感じるのと似た仕方で、主人の不在を感じるのである。こうした区別をしない限り、人生の本質を洞察することはできない。(中略)

 人間は記憶を、自分の魂の内的観察によってのみ知ることができるが、動物の内面は観察できない、という主張の根底には、決定的な誤謬が存在している。
=== 人間は、みずからの記憶力を、魂の内観によって知るのではなく、外界の諸事象に対する態度の中に見てとることができるのである。 ===どの人間もこの態度を『自分に対して』、他の人間に対して、そしてまた動物に対して、まったく同じ仕方で示している。
 
 記憶力の存在を内観によってのみ知ることができるというのは、幻想である。
=== 記憶の根底に存する力は、内的な力であるが、この力についての判断は、人生と外界との関連によって眼を向けることによってのみ獲得される。 ===(中略)

「自我」にとっての記憶と忘却は、アストラル体にとっての目覚めと眠りの場合によく似ている。
眠りがその日の心配事を無の中に消し去るように、忘却は人生の悪しき経験の上にヴェールをひろげ、
それによって過去のある部分を消し去る。また、消耗した生命力を新たに補充するためには
眠りが必要であるように、新しい体験と自由に向き合うためには、過去のある部分を記憶から消し去らねばならない。忘却からこそ、新しい何かを学ぼうとする力が生じてくる。(中略)

 さて、記憶はさまざまな段階において生じる。記憶のもっとも単純な形式は、ある対象を知覚し、その対象から離れたあとでも、それについての『印象』を呼び起こすことである。人間は対象を知覚するだけでなく、それを印象として保つことができる。このことが可能となるためには、アストラル体と自我との間に、ひとつの経過が生じなければならない。アストラル体は対象についての外的な印象を意識的にする。しかし、自我がこの意識を自分の中に取り入れ、それを自分の所有物にするのでなければ、その印象を生き生きと保ち続けることはできないであろう。
 
 まさにこの点において、超感覚的な直観は、『体的』なものを『魂的』なものから区別する。眼の前の対象を意識化するのは、『アストラル体』の働きである。しかしその意識を永続的なものにするのは、『魂』なのである。しかし、今述べたことからもすぐにわかるように、人間の中ではアストラル体と、意識を持続的なものにする魂の働きとが、深く結びついている。その魂の働きとアストラル体とは、人間のいわば同じ本性になっている。したがって、この両者をも「アストラル体」と呼ぶことができる。

=== しかしさらに正確な言い方をしようとするなら、人間のアストラル体を「魂体」と呼び、アストラル体に結びついている魂を「感覚魂」と呼ぶこともできる。 ===

===  自我が対象を意識するだけでなく、更にその意識に働きかけを行うとき、自我の本性は、
一段高次の段階に上る。この活動を通して、自我は知覚の対象からますます離れて、自分の所有しているもののなかで働くようになる。そうすることのできる魂の部分は、悟性魂もしくは心情魂と呼ばれる。 ===

 感覚魂も悟性魂も、感覚的に知覚された対象の印象を受けとり、それを記憶に保持するが、その時の魂は、自分の外なるものに完全に帰依している。記憶を通してみずからの所有物にしたものも、魂は外から受けとったのである。

 しかし魂は、こうしたすべてを超えていくことができる。魂は感覚魂と悟性魂だけではない。超感覚的な直観は、一つの単純な事実に眼を向けることによって、このさらなる魂の行為についてのイメージを用意につくることができる。

 言語の中には、その本質上、他のすべての言葉から区別されうるような言葉が、ひとつだけ存在する。
それは「私」(自我)という言葉である。他のどんな言葉も、対応する存在に対して、いつでも使うことができる。しかし「私」という言葉をある存在に対して使うことができるのは、この存在がこの言葉を自分に向けるときだけである。外から「私」という言葉が、ある人の耳に、その人の呼び名として聞こえてくることは、決してない。その人だけが、この言葉を自分に向けて使うことができる。「私は、私にとってのみ、一個の『私』である。すべての他者にとって、私は一個の『汝』である。そしてすべての他者は、私にとって一個の『汝』である。」(中略)

超感覚的な直観との関連を意識的な仕方で保持してきたユダヤ教の立場は、
「私」という呼び名を「神の言い表し難き名前」であると述べている。こういう言い方がなされるときは、まさに上に述べたことが指示されている。

 どんな外的な事柄も、今問題にしている魂のこの部分に通じる道をもたない。この部分は、魂の隠された聖域なのであり、ただ同じ種類の魂を持った存在だけが、そこへ参入することができる。

=== 「人間の内なる神は、魂がみずからを『私』と認識するとき、語りはじめる」
 感覚魂と悟性魂が外界に帰依して生きるゆおに、魂の第三の分肢は、みずからの本性を知覚することによって神的なものに帰依する。 ===

 以上に述べた考え方は、「私」と神とを同一視しているかのように誤解させるかもしれない。
しかし、ここでは自我が神だ、といっているのではない。自我が神的なるものと同じ在り方をしている、
と言っているのである。一滴の水は海水と同じ性質のものだ、と言ったからといって、
海から取ってきた一滴の水を、海だと主張する人がいるだろうか。この比喩を例にとれば、
一滴の水が海に対するのと同じように、「私」は神的なものに対しているのである。

 人間はみずからの内に、神的なものを見出すことができる。なぜなら、人間のもっとも根源的な存在部分は、神的なものからとってこられたのだから。このように人間は、みずからの中の神的なものを通して、魂の第三分肢を獲得する。

=== アストラル体を通して、外的な意識を獲得するように、自我という、みずからの中の神的なものを通して、自分自身についての『内的な意識』を獲得する。それゆえ、神秘学は魂のこの第三分肢を「意識魂」と呼ぶ。そして神秘学の意味において、魂は感覚魂、悟性魂、意識魂の三分肢から成り立っている。同様に体は、肉体、エーテル体、アストラル体の三分肢から成り立っている。 ===

ということで今回はここまで。
自分なりの見解を書きたいとは思ってるのですけど、自分の不正確な理解より、
シュタイナーの文章を引用したほうがいいなと思い、この長い引用を頑張ってタイプしました。

まだまだ輪廻転生の考察まで続けたいなと思います。
これではまだ「霊」と「魂」と「体」の区別はつきませんよね。
それは後ほど引用をこちらにしていきたいと思います。
そして、自分が何を問題としているのかを、どうすればいいのかが
漠然とこれを書きながら浮かんできたことも、引用が終わり次第、
できるだけこれから書いていきたいと思います。

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