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人間のことを考察しようとすることは、 私にとって「汝自身を知れ」という命題を、この場合は文が不完全でしかないのだが、 自分の根底にある霊的衝動を満たすものに他ならない。 私たちが自分たちの位置を確認しようとするとき、 現代の意識では、大部分の人にとって、身近な人間関係、せいぜい社会の枠組みの中の自分に とどまるだろう。世界に眼を向けたとしても、動物界、植物界、そして宇宙との関わりあいにまで 実感としてどのように関わっているのかということに眼を向けることは少ないだろうと思う。 私が高校生のときに始めて出会ったトロピカル占星術は、 ある意味で、人間と宇宙との関わりあいについての、多様な示唆を提供するものだった。 人間の進化する方向についての、明晰な観点を得られないという思いはあったが、 人間存在と天体の影響、宇宙の模像である人間という原像に不確かながらも到達する助けになっている。 伝統的占星術は、人間が、人間社会がいかに星の運行の影響をうけているのかということを露にする。 しかし、もっとも素晴らしいと思えるのは、人間がどのようなリズム=周期と供に生きているのかということがわかるという点だった。 現代社会で人間がどのような複雑な周期の流れの中で生きているかを 体感させてくれるものが、占星術のようなもの以外に何かあるのだろうか? 浅い占星術の知識でも、 例えば、土星の29.50年ごとに起こる節目(トロピカル占星術とヘリオセントリック占星術では厳密には違うし意味合いも違うのだけど)や、太陽が黄道を周る一年の内に、もっとも南に近づくときや北に近づくときに人間の魂の中で何が起こるか、約二年半ごとに起こる火星の周期、12年ごとの木星の周期など、約28日周期の月など、そういったことと結びついた時間の感覚が何を起こすのかに眼が向く。 そして、長い周期では約2万5000年ごとに春分点が黄道12星座を一周するのが、身体が正常な状態一日に行う呼吸の数が、ほぼ同じ2万5000回だということに気づけば、それが宇宙にとっての一日あたるということがわかると思う。太陽は72年ごとに最も上昇する位置を、星座を約1度進行するが、それは一分間の平均脈拍数に対応している。そして、太陽は古来から心臓に関係していると言われている。こういった抽象化の域を出ない眼から見ても、宇宙のリズムと人体が何らかの関連を示しているということがわかるだろうと思う。 私自身まだ抽象化の域を脱しておらず、自分の中に宇宙の模像を体験するというところには至っていない。しかしながら、こういったものに眼を眼を向けることが進化の方向性に対しての眼を開くということ、宇宙=世界を知ることが、人間を知ること、つまり自分達の中にある偉大な叡智に眼を向けるということにつながるということは、確信をもって言うことができる。 こういったものを通してしか、現代の人間は時間の本質を探ることは、不可能に近いと思う。 私達は、いま現在ある材料を通して、一歩一歩確実なものに近づいていく。 そして、人体とは、人間とは、自分達も知らない、限りない叡智の宝庫なのだから。
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人間の本質
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超感覚的な認識が人間の中に認める第四の本性は、もはや開示された周囲の世界と何かを共有していない。そしてそれこそが、人間を他の自然存在から区別するものであり、それによってこそ、人間は「万物の霊長」なのである。超感覚的な認識によれば、人間は覚醒時に、アストラル体と本質的に区別されうる、別の本性の働きを受けている。 |
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治療教育講義でシュタイナーの意味するアストラル体やエーテル体、 自我とは一体何を指すのかという質問が出たので、これからシュタイナーからの引用と 自分なりの認識を書こうと思う。 また、トラックバックにしたのは、このシュタイナーなどの引用などに 私なりに人間とは何なのかに答えがあると思うからだ。 ただし、彼の見解には超感覚的認識が基礎にあって、容易に納得できるかどうかはわからないが、 少なくとも自分で彼の見解を吟味して、体験するなら、はっきりと眼の前に より正確な新たな人間像が現われると思う。 ちなみに強調はわかりやすいように 私が行ったのでシュタイナーの強調した部分ではありません。 神秘学概論 ルドルフシュタイナー著 高橋巌 訳 ちくま学芸文庫より 「肉体」という概念に光を当てるためには、大きな謎となって人生全体を蓋っている「死」の現象に先ず注目しなければならない。そしてさらにこのことと関連して、常に死の状態にある「生命のない自然」、つまり鉱物界にも注目しなければならない。(中略) 開示された世界の内部で言えば、つまり人間の物質体とは、人間が鉱物界と共有する部分のことである。 これに反して、人間を鉱物から区別するところのものは、肉体以外の人間本性である。 とらわれずに考察するとき、特に重要になるのは、人間が死ぬと、人間本性が鉱物界と同じ在り方を示すようになることである。===死体とは、鉱物界での諸経過にゆだねられた人体部分のことである。=== 人間本性の肉体部分には、鉱物界におけるのと同じ素材の力が働いているが、死にいたらなければ、肉体が崩壊することはない。肉体には鉱物界におけるのと同じ素材の力が働いているのに、その力は生きている間、より高次の目的に使えている。死が生じたときになって、はじめてその働きは鉱物界の働きになる。肉体の素材と力は、そのとき、肉体の形態を解体させるが、それは自らの本性に従った働きなのである。 このように人間の開示された部分と隠された部分とをはっきり区別しなければならない。実際、生きている間は、隠された部分が肉体の鉱物的な素材の力に抵抗して生き続けなければならないのだが、この抵抗がやめば、鉱物本来の力だけが作用しはじめる。(中略) 生きている間、物質の素材と力に、肉体を崩壊させないように働きかけているものは、「エーテル体」または「生命体」と呼ばれる。(中略) エーテル体は、このように人間の二番目の本性であり、超感覚的な認識にとって、 肉体よりもさらに高次の現実である。ここで超感覚的な認識がとらえたエーテル体について記述する前に その記述にどんな意味があるのかについて述べておかなければならない。 先ず、エーテル体が肉体のいたるところに浸透しており、肉体に対して一種の建築家の役割りを演じていることを、強調しておきたい。身体器官の形態のすべては、エーテル体の流れと動きによって維持されている。心臓は「エーテル心臓」に基づいている。そして脳は「エーテル脳」に基づいている。 エーテル体は肉体同様に分節化されているが、肉体よりももっと複雑に分節化されている。 ===肉体においては、各部分が互いに区別されているのに対して、エーテル体においては、すべてが 互いに生き生きと融合しあっている。=== ===人間は、肉体を鉱物と共有し、エーテル体を植物と共有している。すべて生きものは、 みずからのエーテル体を持っている。=== 超感覚的考察は、エーテル体よりもさらに高次の人間本性に向かう。この本性部分をイメージするためには、先ず眠りの現象に眼を向ける。エーテル体の場合に、先ず死の現象に眼をむけたようにである。 通常の意識に開示されたものを考察する限り、人間のすべての創造活動は、覚醒時に行われている。 しかし、この活動は、消耗した力をそのつど繰り返して睡眠から補充するのでなければ、 継続していくことができない。睡眠中は行動もしないし、思考活動もやめる。すべての苦しみ、すべての楽しみも、意識の中から消えてしまう。しかし、眼が覚めると、隠された秘密の泉からのように、意識の力が、再び、睡眠の没意識状態から立ち現われる。眠るときに暗い深みへ沈み、目覚めるときに再び立ち現われてくるのは、同じ意識なのである。 === 繰り返して没意識状態から意識を目覚めさせるのは、超感覚的な認識の意味では、 第三の人間本性である。それはアストラル体と呼ばれる。=== 鉱物素材やその働きだけでは、肉体の形態を維持することができず、そのためにはエーテル体の働きがなければならないように、エーテル体の力だけでは、みずからを意識の光に照らし出すことができず、 絶えず睡眠状態に留まり続けなければならない。エーテル体は、肉体の中で、ただ肉体の植物状態を維持することができるだけである。エーテル体が目覚めるのは、アストラル体の照明を受けたときである。 このアストラル体の働きは、人間が眠りに落ちたとき、消えてしまうように見えるが、 超感覚的に観察すれば、その場合も存在し続ける。ただその場合のアストラル体は、 エーテル体から離れて、またはそこから抜け出て、存在しているのである。(中略) 人間は、肉体を鉱物と共有し、エーテル体を植物と共有するが、それと同じ意味で ===アストラル体を動物と共有している。=== 植物は常に睡眠状態にある。このことが正しく判断できなければ、 植物も覚醒時の人間や動物と同じ意識を持っている、と誤解してしまうだろう。 しかし、それは意識について不正確な考え方をした結果に過ぎない。 植物が外から刺激を受けるとき、動物と同じような反応を示すことがある。 たとえば外から刺激を受けた植物が、それによって葉を閉ざすとき、そのような植物には感覚が働いている、と人は語る。 ===けれども、ある存在が外からの作用をうけて、一種の反応を示すということが意識の特徴なのではなく、その反応に際して、新たに何かを内的に体験する、ということが意識の特徴なのである。===
もしそうでなければ、鉄板が熱せられて延びるときも、それを意識の働きに帰してしまうことになりかねない。ある存在が熱せられたとき、内部に痛みを感じたとすれば、そのときはじめて、 意識の存在を語ることができる。 |
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今日、Redolf Steinerの治療教育講義を買ってきました。 私の中でRedolf Steinerはとても大きい存在です。 実際に彼ほど人生のあらゆる領域において、深い洞察を開示してくれた人物は20世紀初頭から現代社会にかけていないと私は思っています。もちろん、彼は神ではないし万能でもないけれど、その霊的洞察に基礎をおいたあらゆる領域での認識は、今日でもいまなお新しく、我々の時代の課題に応じた認識へと合流し、生きた霊の力となって働くことを求めているように思います。 私は、彼のような霊的進化の根源を見つめて、宇宙と小宇宙である人間存在の進化を見つめた人を知りません。いかに個人の運命が、宇宙の進化と関連しあっているのかということを開示した人は、ルドルフシュタイナーただ一人だと思います。 彼が開示してくれたことが、私の中に生きる力となって流れ込みます。私は、人生の謎に踏む込もうとしない人生に吐き気を催します。人が安楽な暮らしを目指すことを否定はしません。ですが、世界との関連の中の人間という存在、そして自分というものが一体何なのかということに踏むこめない人生だったら、私にとって「人生とは無意味」だという想いがあります。『ただ生きるということに何の意味があるのか』一方の心がささやきます。他方では、いや、私の表面の意識は余りにも愚かで、この日、この瞬間の意義が、卑小な低自我にはわからないのだということを語ります。 私の深い至聖所に隠れている『私』が、何をしようとして生まれてきたのか。それは、低次の自我の私、表面に出る私のの現在の認識能力をはるかに超えています。わかるでしょうか。私自身は、自分を普段きちんと愛することができません。すぐに人生をどうでもいいと考えるし、人の個性そのものに対しても、自分の驕り高ぶりからでしょうか、人間的な付き合いを継続的に付き合おうとはなかなか思えないのです。。。自分が真に求めるものを人と共有できることが少ない。ただの人間的な触れ合いの中に十分な喜びを見出せない。物質的なことを求めていく人生に、一体何の興味がわくのだろうか。これは正直な思いです。余りにも世界はくだらないものにも満ちているように思える。これは私の眼が曇ってるからです。 くだらないと思えるものの立場が私に見えなくなるときがあるからです。 自分が価値があると思えるものに向かうことのできる意志が気力が薄いのはなぜでしょうか?ときたま生活することに意義を見出せなくなるのはなぜでしょうか?物心ついたときにはこういった暗い感情を抱えていたと思います。私はここから飛び降りたらどうなるだろうかと考えるような、子供でした。 そういった思いから、私を救ってくれたのは、私にはまだ知らないものがたくさんあるという考えでした。事実、その通りです。私は「この世ならぬもの」と当時、私には思われたものに想いを馳せることで、現実の興味をもてない生活に耐えてきたように思います。戦地に向かうことで生きることを実感してみようか。小さいころ、私も思いました。でも、それは私が求めてるものとは違っていました。当時は衝動的に参加したくもなりましたけど。 人間の命が虫けらのように扱われる世界に生きることで、達成できることはなにもない。自分の満足のために戦地に赴いても、「生きる価値」を見出すことは不可能。せいぜい、苦痛を覚えない自分の生活にある今生で自分が意識して自分を救える可能性に感謝することだできるようになるくらいではないかと思うのです。 感情の高揚を少しでも感じたものを、人生の拠り所にしようとして生きている、それが今の私でしょうか?芸術において、私は救済され、解放される。そう思っていますが、愛情を、自分にどう育めばいいのでしょうか。私は、自分の価値に気づけないから、人を本当の意味で愛せないんだと、思います。 「あなたたち二人が交流するところに『私』はいる」そんな言葉だったでしょうか。
福音書の中の言葉だったと思います。本当は畏敬の念をもって、接しなければいけないものでが、あえて、自分の中に残っている、不確かな印象だけでここに書き記しました。 私が愛を溢れさすことができるようになる日を望んで。 |
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