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			<title>私はアスペルガー症候群？</title>
			<description>つい先日、自分はアスペルガーなのかもしれないと気づいた筆者が送る人間とは何かを考えるブログ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hikawa_sizuru2002</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>私はアスペルガー症候群？</title>
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			<description>つい先日、自分はアスペルガーなのかもしれないと気づいた筆者が送る人間とは何かを考えるブログ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hikawa_sizuru2002</link>
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		<item>
			<title>DSM-IVからわかること</title>
			<description>本当に久しぶりにブログを更新しようという気になりました。&lt;br /&gt;
三ヶ月ぶりくらいですかね。自分は何事も長続きさせるのは難しい性質を持っていますが、&lt;br /&gt;
継続するということは難しいですね。先日までゲストハウスで仕事をしていたのですが、社長が信用できない会社なので、辞めて帰ってきました。ネット環境はありましたが、ＰＣの画面が壊れていたので、これを更新する気力はなかったところです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ネット依存症ぽくなってきています。&lt;br /&gt;
アスペルガーによる二次障害なのか、依存症的な性質はいつもありますが、アスペルガーによるコミュニケーション障害ですぐに直るという可能性は極めて低いでしょう。依存症には、自己肯定感の欠如というのがありますが、私はまさにそうです。いつでもこの世に未練はないというような状態が物心ついたころから続いています。それは、人を大切にも、本当の意味では愛情をかけることができないということを指します。そういう意味で、私は自分という人間に絶望します。もともと、人といるということに仮初めの救いは求めていても、そこに満足を覚えることはないのだという思いがあります。それは、コミュニケーション障害による自己疎外感からなのか、と思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と、いう前置きはやめにしてＤＳＭ-IVについて話します。『精神疾患の分類と診断の手引き(DSM)』は、精神衛生の専門家が、うつ病、不安、過動・多動性、統合失調症を含めた、あらゆる情緒的、行動的および精神的病状を診断する際に参照されます。これは、アメリカ精神医学会から出されるもので、5年から10年ごとに改訂されるようです。自閉症に対する診断基準としてもう一つ『国際疾病分類（ＩＣＤ）』というのもありますが、今回はＤＳＭの四版目であるＤＳＭ－ＩＶについて話します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自閉症スペクトラム障害が入るのは、「広汎性発達障害」とよばれる範疇だそうです。&lt;br /&gt;
以下引用&lt;br /&gt;
「この包括的な用語は、自閉症スペクトラム障害を、学習障害などのより特定的な発達障害と区別するためにＤＳＭの著者らによって用いられたものです。アスペルガー症候群と高機能自閉症も含め、広汎性発達障害のある子どもたちには、複数の（すなわち「広汎な」）発達領域にわたって（社会的、コミュニケーション、態度、認知、ときには動作技能にさえ）困難がみられます。対照的にディスレキシア（読み書き障害）のような特定の発達障害のある子どもたちは、一つの特定の学習領域（読むことなど）には問題がみられるものの、他の点に関しては機能に問題はなく、社会的にも行動的にもきわめて正常ですし、少なくとも標準的な運動技能を持っています。&lt;br /&gt;
　広汎性発達障害すなわちＰＤＤの範疇には次の５つの特別な障害が含まれます。すなわち自閉性障害、アスペルガー障害、レット障害、小児期崩壊性障害、および特定不能の広汎性発達障害(ＰＤＤ－ＮＯＳ）です。この５つの障害は、具体的な細かな点については互いに異なっていますが、すべてに共通する点については等しく重要であることに変わりありません。&lt;br /&gt;
第１に、５つのＰＤＤ圏のそれぞれには、いづれも複数の発達領域にわたり広汎な困難がみられるということです。第２に、いずれの場合も他者との社会的な関係が著しく損なわれています。精神遅滞（ただし自閉症はみられない）などの他の障害のある人にも、複数の領域にわたって広汎な困難がみられますが、そのような場合は社会的に重大な困難を抱えることはありません。むしろ彼らの社会的能力は、彼らの精神能力と同等のつり合いのとれたものと言えます。対照的にＰＤＤのある人の社会的障害は、彼らの精神能力からみて予想されるよりもしばしば深刻です。&lt;br /&gt;
　自閉症スペクトラムのふたつの疾患、つまりレット障害と小児期崩壊性障害は、ほとんど必ずといっていいほど重大な認知障害と関連があり、高機能自閉症スペクトラム障害とみなされることはありません。」&lt;br /&gt;
引用終わり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ここで今回書きたかったのは何かというと、アスペルガー症候群をどう把握して、どう対処するかということを考えるとき、同じ自閉症スペクトラムに位置づけられる他の障害を持っている人たちと何が違い、それぞれがどういう世界を生きているのかということを把握するのが必要なのではということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つには、アスペルガー症候群に属する人々というのもまさに普通の人が千差万別であるように、十人十色で障害の程度もまったく人によって違うし、ある特定の障害はまったく現われないということも珍しくないということがあげられます。だから、アスペルガー症候群とは専門家にもまだ不透明な部分がついてまわるものなので、他の自閉症スペクトラム障害と関連して考えることで、より本質的な彼らの世界に近づくことが可能な筈です。また、アスペルガーの人には健常者の住んでいる世界の扉を開くかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ともう一つは、アスペルガー症候群に対しての特別な有効な治療法というのが考えられないなかに私たちはいるようなので（私が調べた限りでは）、十人十色のアスペルガー症候群のこの部分に対しては、こういった治療法をあてがうといったこともでき、またある面では別の治療法もあてがうことができるということもできるという側面もあります。ただし、社会に適応することだけを求めるような治療という名を借りた精神的な暴行は、ごめんこうむりますが。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hikawa_sizuru2002/12914523.html</link>
			<pubDate>Sun, 09 Oct 2005 05:26:15 +0900</pubDate>
			<category>その他の病気</category>
		</item>
		<item>
			<title>「ガイドブック アスペルガー症候群」を読み終えて</title>
			<description>今日、昨日ガールフレンドから借りてきた、&lt;br /&gt;
「ガイドブック　アスペルガー症候群」&lt;br /&gt;
親と専門家のために　Tony Attwood著　東京書籍&lt;br /&gt;
原題「ASPERGER&amp;#39;S SYNDROME A Guide for Parents and Professionals」&lt;br /&gt;
を読み終えました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
読み終えての感想は、具体的にアスペルガーの性質、そこから来る周囲との陥りやすい問題、&lt;br /&gt;
対策がわかりやすく、専門用語に偏らず述べられていたように思います。&lt;br /&gt;
そういう面では、敷居が高い本ではないし、人間に関心を持っている人なら誰でも読んでもいい本です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「あの人は人の気持ちがわからない」と嘆く前に、人間の感覚的な基盤は、各人共通ではなく、&lt;br /&gt;
様々な差異があることを具体的に認識してことがどれだけ無駄な争いをなくして、&lt;br /&gt;
悲しい思いを減らすでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
或る意味で一般の人と共通の興味を持てない私は特にそう感じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この本の中で個人的に特に興味深かったのは、&lt;br /&gt;
アスペルガー症候群の特徴の男女における現われ方の差異です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下引用&lt;br /&gt;
『しかし私は、一般に男児のほうが社会的技能の激しく偏ったプロフィールを持ち、とくにフラストレーションやストレスが高いときは、破壊的・攻撃的な行動に流れるような社会的欠陥をもつ傾向があることを指摘してきました。こうした特徴は、親御さんや先生方により気づかれやすいので、その子どもはなぜ普通にできないかと相談に訪れるのです。対照的に、女児は友達と一緒に遊ぶ能力が比較的あって、社会技能のそれほど偏ったプロフィールは見せない傾向があいます。私はアスペルガー症候群の女児は、後から遅れて遅延模倣をすることで、集団内の動きについていく能力が高いようだと見てきました。彼女らは、他の子どもよりタイミングが悪くて、自発的ではありません。この違いを実証する糸口となるデータは、自閉症での性差の研究からも得られています。（マクレナン、ロード、ショプラー、1993)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この症候群の女児は、変わっているより、むしろ未熟だと見られやすい傾向があります。その特別な興味の対象は、男児に見られるほど特異でも、強固でもない場合もあります。ですから、彼女たちは一人きりで空想の世界に浸っていても、クラスの秩序を乱すような行動はとらない－－－「眼に入らない」子どもと述べられたりします。女児は、男児より診断されることが少ない傾向があっても、無言で苦しんでいることが多いのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　女児にとって、一つ重大な問題は、青春時代には日常的な友人関係の基盤が変わることです。おもちゃで一緒に遊んだり、想像力を使って遊ぶのに代わって、青年期の友人関係は、実際の体験や、対人関係、感情などについての内容が圧倒的に多い、会話に基づくようになります。アスペルガー症候群のティーンエイジャーの女の子は、小学校の校庭でやっていた遊びを続けたくて、以前の友人たちとの交わりは薄くなっていきます。もはや同じ興味を分かち合うことはできないのです。さらに、新たな問題となるのが、&lt;br /&gt;
同年代の男の子たちからの異性を意識した働きかけにどう対処するかです。会話をするだけなら受け入れられても、身体的接触はもちろん、ロマンチックな恋愛の観念に当惑したり、嫌悪したりします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　何人かのティーンエイジャーのアスペルガー症候群の女性は、仲間との活動に入りたい一心から、自分の顔の一部であるかのような仮面を意図的につけていると述べています。学校では他人に常に微笑を浮かべているように見えても、仮面の下では、不安と恐れ、自己喪失の感情に襲われているのです。彼女たちは、必死で他人に受け入れられよう、他人を喜ばせ気に入られようとしているのですが、自分の内面の感情を人前で表わすことができないのです。（中略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　いつまでも続くと訴えられる問題は、「他人と感じ方が違う」ことです。彼女たちの人との接し方は、表面的には自然に見えますが、自分たちが機械的で、直感的にはできないと思っています。他人はどうやって互いに親密となり、あまり考えなくても友人関係を保てるのかと悩み続けているのです。』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私は男性で、ここにあるアスペルガー症候群の女性の一例のように、必死で他人に受け入られようとは思いません。社会生活の中で他人を喜ばせようという位置からは、ほど遠い位置にいます。ただし、全く自分の社会性と関係のないところで、他人が困っているとき、親切に何かをするということは人一倍あります。しかし、社会に受け入られようという意識は希薄です。それは、根底に自分が受け入られずにいたことで傷ついたことから来るのか、自分が人の感情への配慮が『難しい』ということから来るのか、わかりません。「孤独」でいなければならないけれども、人を必要としているジレンマを抱えています。&lt;br /&gt;
「自分だけでは生きられない」という思いは確かにあるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですが、受け入られるように努力しよう、配慮しようとすることは今の私にとって、大きなストレスなような気がします。愛する人たち、少しでも好意を寄せる人たちには理解してもらいたいと思っています。&lt;br /&gt;
しかし、そこにいたる方法がどこにあるのか、いまはまだよくわかりせん。そして、私は機械的に形ばかりの振る舞いは、社会的便宜としてあるのだとしても、形ばかりの礼は施したくありません。正直でありたいからです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hikawa_sizuru2002/4466361.html</link>
			<pubDate>Fri, 10 Jun 2005 19:29:17 +0900</pubDate>
			<category>その他の病気</category>
		</item>
		<item>
			<title>占星術</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-26/hikawa_sizuru2002/folder/429517/10/4090410/img_0?1117975997&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_1280_960&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;人間のことを考察しようとすることは、&lt;br /&gt;
私にとって「汝自身を知れ」という命題を、この場合は文が不完全でしかないのだが、&lt;br /&gt;
自分の根底にある霊的衝動を満たすものに他ならない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;私たちが自分たちの位置を確認しようとするとき、&lt;br /&gt;
現代の意識では、大部分の人にとって、身近な人間関係、せいぜい社会の枠組みの中の自分に&lt;br /&gt;
とどまるだろう。世界に眼を向けたとしても、動物界、植物界、そして宇宙との関わりあいにまで&lt;br /&gt;
実感としてどのように関わっているのかということに眼を向けることは少ないだろうと思う。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;私が高校生のときに始めて出会ったトロピカル占星術は、&lt;br /&gt;
ある意味で、人間と宇宙との関わりあいについての、多様な示唆を提供するものだった。&lt;br /&gt;
人間の進化する方向についての、明晰な観点を得られないという思いはあったが、&lt;br /&gt;
人間存在と天体の影響、宇宙の模像である人間という原像に不確かながらも到達する助けになっている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;伝統的占星術は、人間が、人間社会がいかに星の運行の影響をうけているのかということを露にする。&lt;br /&gt;
しかし、もっとも素晴らしいと思えるのは、人間がどのようなリズム＝周期と供に生きているのかということがわかるという点だった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;現代社会で人間がどのような複雑な周期の流れの中で生きているかを&lt;br /&gt;
体感させてくれるものが、占星術のようなもの以外に何かあるのだろうか？&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;浅い占星術の知識でも、&lt;br /&gt;
例えば、土星の29.50年ごとに起こる節目（トロピカル占星術とヘリオセントリック占星術では厳密には違うし意味合いも違うのだけど）や、太陽が黄道を周る一年の内に、もっとも南に近づくときや北に近づくときに人間の魂の中で何が起こるか、約二年半ごとに起こる火星の周期、12年ごとの木星の周期など、約28日周期の月など、そういったことと結びついた時間の感覚が何を起こすのかに眼が向く。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;そして、長い周期では約2万5000年ごとに春分点が黄道12星座を一周するのが、身体が正常な状態一日に行う呼吸の数が、ほぼ同じ2万5000回だということに気づけば、それが宇宙にとっての一日あたるということがわかると思う。太陽は72年ごとに最も上昇する位置を、星座を約1度進行するが、それは一分間の平均脈拍数に対応している。そして、太陽は古来から心臓に関係していると言われている。こういった抽象化の域を出ない眼から見ても、宇宙のリズムと人体が何らかの関連を示しているということがわかるだろうと思う。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;私自身まだ抽象化の域を脱しておらず、自分の中に宇宙の模像を体験するというところには至っていない。しかしながら、こういったものに眼を眼を向けることが進化の方向性に対しての眼を開くということ、宇宙＝世界を知ることが、人間を知ること、つまり自分達の中にある偉大な叡智に眼を向けるということにつながるということは、確信をもって言うことができる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;こういったものを通してしか、現代の人間は時間の本質を探ることは、不可能に近いと思う。&lt;br /&gt;
私達は、いま現在ある材料を通して、一歩一歩確実なものに近づいていく。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;そして、人体とは、人間とは、自分達も知らない、限りない叡智の宝庫なのだから。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hikawa_sizuru2002/4090410.html</link>
			<pubDate>Sun, 05 Jun 2005 14:23:50 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>マヨルカ, Espana</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-26/hikawa_sizuru2002/folder/441839/59/3928859/img_0?1117727570&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-26/hikawa_sizuru2002/folder/441839/59/3928859/img_1?1117727570&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-26/hikawa_sizuru2002/folder/441839/59/3928859/img_2?1117727570&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
今年の一月にマヨルカの友達の家に滞在したときの写真です。&lt;br /&gt;
マヨルカ島はカタルーニャ語が普段の言葉ですが、滞在した友達の家は、&lt;br /&gt;
お母さんがインドネシア系オランダ人、お父さんがマヨルカの生まれ？で、&lt;br /&gt;
会話はカタルーニャ語がほとんどでした。&lt;br /&gt;
友達である息子達とは普段ドイツ語で喋っているので、大体はドイツ語と英語で喋ってます。&lt;br /&gt;
とりあえず、カタルーニャ語で覚えたのは、&lt;br /&gt;
スペルはたぶん、Bon dia ボン　ディア！(こんにちは)&lt;br /&gt;
とBon profit（ボン　プロフィット）&lt;br /&gt;
カタルーニャ語は聞くところによると、スペイン語やフランス語より成立が早いらしく、&lt;br /&gt;
フランス語とスペイン語の間のような言語です。&lt;br /&gt;
スペインに行くからスペイン語を少し覚えたけど、上記のような理由であまり意味がなかったです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サボテンの花、地中海、そして霧の中の建物。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サボテンのこんな大きい花は初めて観ました。&lt;br /&gt;
マヨルカ島の伝統的なオムレツはすごく美味しいですよ。キノコとじゃがいもと、ほかにもたくさん具はあるのですが、忘れました。卵をかなりたくさん使って、形は山のようでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の家では、お昼だけ温かいご飯が出て、あとは各自食べるという感じでしたが、&lt;br /&gt;
スペインではこれが普通の団欒なのかな？お母さんは、お互いが自由な時間を取るためと言ってましたが、もしかしたらオランダ式？なのかも知れないですね。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hikawa_sizuru2002/3928859.html</link>
			<pubDate>Fri, 03 Jun 2005 00:52:50 +0900</pubDate>
			<category>ヨーロッパ</category>
		</item>
		<item>
			<title>人間性の本質２ 神秘学概論より</title>
			<description>超感覚的な認識が人間の中に認める第四の本性は、もはや開示された周囲の世界と何かを共有していない。そしてそれこそが、人間を他の自然存在から区別するものであり、それによってこそ、人間は「万物の霊長」なのである。超感覚的な認識によれば、人間は覚醒時に、アストラル体と本質的に区別されうる、別の本性の働きを受けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 覚醒時の人間は、現われては消える体験だけでなく、持続的な体験を持つが、&lt;br /&gt;
このことに注意を向けるなら、この二つの本性の働きの相違が、直ちに明らかとなる。 ===&lt;br /&gt;
人間の体験を動物の体験と比較すれば、このことが一層明らかになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　動物は、規則正しい仕方で、外界の影響を受ける。そして暑さや寒さ、快や苦の体験を通し、&lt;br /&gt;
規則的に繰り返される餓えや渇きの体験を通して、みずからを意識する。人間の生活は、&lt;br /&gt;
このような体験だけでは汲みつくされない。人間の所有する欲望や願望は、これらのすべてを超えて働く。動物の場合、必要なだけ深く考察するならば、その行動や感情への誘因が、体外または体内のどこにあるかを、はっきり明示することができるであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人間の場合は決してそうならない。人間の場合、欲望や願望の誘因をその体内にも体外にも見出すことができない場合が生じうる。その場合には、特別の源泉を見出さなければならない。そのような源泉は、超感覚的な認識の意味で、人間の「自我」の中に見出すことができる。&lt;br /&gt;
それゆえ「自我」は第四の人間本性であると言える。 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　アストラル体がみずからを自由な状態に置けば、快と不快、餓えと渇きがそこに現われるであろう。&lt;br /&gt;
しかしその場合は、これこそが持続的なものだ、という感情は現われない。&lt;br /&gt;
その場合、持続そのものではなく、持続を体験するものが「自我」なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この点での誤解を避けるためには、概念を明確にしておかなければならない。「自我感情」が目覚めるのは、変化する内的な諸体験の中に、持続的なものを認めるときなのである。たとえば、餓えを感じることが、人間に自我感情を呼び起こすのではない。餓えの要因が生じるたびに、そのつど餓えの感情が現われ、それゆえに、人は食卓へ向かうが、その場合自我感情が現われるのは、餓えの要因が人を食事にいざなうだけでなく、以前の食事のときに味わった喜びが、快の意識として持続しているときである。それゆえ、現在の餓えの体験だけでなく、食事に際しての『過去の』快の体験がそれと結びついて、自我感情を生じさせる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 　エーテル体がもはや保持しえなくなった肉体は、崩壊する。アストラル体が明るく照らさないエーテル体は、没意識状態の中に沈みこむ。そして「自我」が過去を現在の中に取り込むのでなければ、アストラル体だけでは、過去はそのつど、忘却の中に沈まなければならないであろう。肉体にとっての死、エーテル体にとっての眠りは、アストラル体にとっての『忘却』に対応する。エーテル体にとっては、生命が固有のものであり、アストラル体にとっては、意識が固有のものであり、そして自我にとっては、&lt;br /&gt;
『想起』が固有のものなのである。 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　植物に意識があると思うよりも、動物に記憶力があると思う方が、一層容易かもしれない。&lt;br /&gt;
長い間別れたいた主人に再会したときの犬の態度は、犬の記憶力を容易に想定させる。しかし、この場合の犬の再認識は、記憶力によるのではなく、それとはまったく別の働きによるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
犬がその主人に強い結びつきを感じるとき、その結びつきは、主人の存在によって生じる。主人が眼の前に現われたとき、主人の存在が犬に快の感情を生じさせる。主人が眼の前に現われるたびに、そのつどその存在が快の感情を新たに呼び起こすきっかけとなる。&lt;br /&gt;
=== しかし記憶が存在するのは、現在の特定の体験を感じるだけでなく、過去の体験を保持しているときなのである。 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　このことが承認できたとしても、なおかつ犬に記憶力があるという誤謬に陥るかもしれない。なぜなら、主人がいなくなったときに悲しむ犬の様子を見ると、主人を記憶しているかのように思えるからである。しかしそう考えることも間違っている。主人との共同生活を通して、犬には主人の存在が不可欠になっている。だから餓えを感じるのと似た仕方で、主人の不在を感じるのである。こうした区別をしない限り、人生の本質を洞察することはできない。（中略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　人間は記憶を、自分の魂の内的観察によってのみ知ることができるが、動物の内面は観察できない、という主張の根底には、決定的な誤謬が存在している。&lt;br /&gt;
=== 人間は、みずからの記憶力を、魂の内観によって知るのではなく、外界の諸事象に対する態度の中に見てとることができるのである。 ===どの人間もこの態度を『自分に対して』、他の人間に対して、そしてまた動物に対して、まったく同じ仕方で示している。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　記憶力の存在を内観によってのみ知ることができるというのは、幻想である。&lt;br /&gt;
=== 記憶の根底に存する力は、内的な力であるが、この力についての判断は、人生と外界との関連によって眼を向けることによってのみ獲得される。 ===（中略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「自我」にとっての記憶と忘却は、アストラル体にとっての目覚めと眠りの場合によく似ている。&lt;br /&gt;
眠りがその日の心配事を無の中に消し去るように、忘却は人生の悪しき経験の上にヴェールをひろげ、&lt;br /&gt;
それによって過去のある部分を消し去る。また、消耗した生命力を新たに補充するためには&lt;br /&gt;
眠りが必要であるように、新しい体験と自由に向き合うためには、過去のある部分を記憶から消し去らねばならない。忘却からこそ、新しい何かを学ぼうとする力が生じてくる。（中略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて、記憶はさまざまな段階において生じる。記憶のもっとも単純な形式は、ある対象を知覚し、その対象から離れたあとでも、それについての『印象』を呼び起こすことである。人間は対象を知覚するだけでなく、それを印象として保つことができる。このことが可能となるためには、アストラル体と自我との間に、ひとつの経過が生じなければならない。アストラル体は対象についての外的な印象を意識的にする。しかし、自我がこの意識を自分の中に取り入れ、それを自分の所有物にするのでなければ、その印象を生き生きと保ち続けることはできないであろう。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　まさにこの点において、超感覚的な直観は、『体的』なものを『魂的』なものから区別する。眼の前の対象を意識化するのは、『アストラル体』の働きである。しかしその意識を永続的なものにするのは、『魂』なのである。しかし、今述べたことからもすぐにわかるように、人間の中ではアストラル体と、意識を持続的なものにする魂の働きとが、深く結びついている。その魂の働きとアストラル体とは、人間のいわば同じ本性になっている。したがって、この両者をも「アストラル体」と呼ぶことができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== しかしさらに正確な言い方をしようとするなら、人間のアストラル体を「魂体」と呼び、アストラル体に結びついている魂を「感覚魂」と呼ぶこともできる。 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 　自我が対象を意識するだけでなく、更にその意識に働きかけを行うとき、自我の本性は、&lt;br /&gt;
一段高次の段階に上る。この活動を通して、自我は知覚の対象からますます離れて、自分の所有しているもののなかで働くようになる。そうすることのできる魂の部分は、悟性魂もしくは心情魂と呼ばれる。 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　感覚魂も悟性魂も、感覚的に知覚された対象の印象を受けとり、それを記憶に保持するが、その時の魂は、自分の外なるものに完全に帰依している。記憶を通してみずからの所有物にしたものも、魂は外から受けとったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかし魂は、こうしたすべてを超えていくことができる。魂は感覚魂と悟性魂だけではない。超感覚的な直観は、一つの単純な事実に眼を向けることによって、このさらなる魂の行為についてのイメージを用意につくることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　言語の中には、その本質上、他のすべての言葉から区別されうるような言葉が、ひとつだけ存在する。&lt;br /&gt;
それは「私」（自我）という言葉である。他のどんな言葉も、対応する存在に対して、いつでも使うことができる。しかし「私」という言葉をある存在に対して使うことができるのは、この存在がこの言葉を自分に向けるときだけである。外から「私」という言葉が、ある人の耳に、その人の呼び名として聞こえてくることは、決してない。その人だけが、この言葉を自分に向けて使うことができる。「私は、私にとってのみ、一個の『私』である。すべての他者にとって、私は一個の『汝』である。そしてすべての他者は、私にとって一個の『汝』である。」（中略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
超感覚的な直観との関連を意識的な仕方で保持してきたユダヤ教の立場は、&lt;br /&gt;
「私」という呼び名を「神の言い表し難き名前」であると述べている。こういう言い方がなされるときは、まさに上に述べたことが指示されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　どんな外的な事柄も、今問題にしている魂のこの部分に通じる道をもたない。この部分は、魂の隠された聖域なのであり、ただ同じ種類の魂を持った存在だけが、そこへ参入することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「人間の内なる神は、魂がみずからを『私』と認識するとき、語りはじめる」&lt;br /&gt;
　感覚魂と悟性魂が外界に帰依して生きるゆおに、魂の第三の分肢は、みずからの本性を知覚することによって神的なものに帰依する。 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以上に述べた考え方は、「私」と神とを同一視しているかのように誤解させるかもしれない。&lt;br /&gt;
しかし、ここでは自我が神だ、といっているのではない。自我が神的なるものと同じ在り方をしている、&lt;br /&gt;
と言っているのである。一滴の水は海水と同じ性質のものだ、と言ったからといって、&lt;br /&gt;
海から取ってきた一滴の水を、海だと主張する人がいるだろうか。この比喩を例にとれば、&lt;br /&gt;
一滴の水が海に対するのと同じように、「私」は神的なものに対しているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　人間はみずからの内に、神的なものを見出すことができる。なぜなら、人間のもっとも根源的な存在部分は、神的なものからとってこられたのだから。このように人間は、みずからの中の神的なものを通して、魂の第三分肢を獲得する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アストラル体を通して、外的な意識を獲得するように、自我という、みずからの中の神的なものを通して、自分自身についての『内的な意識』を獲得する。それゆえ、神秘学は魂のこの第三分肢を「意識魂」と呼ぶ。そして神秘学の意味において、魂は感覚魂、悟性魂、意識魂の三分肢から成り立っている。同様に体は、肉体、エーテル体、アストラル体の三分肢から成り立っている。 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ということで今回はここまで。&lt;br /&gt;
自分なりの見解を書きたいとは思ってるのですけど、自分の不正確な理解より、&lt;br /&gt;
シュタイナーの文章を引用したほうがいいなと思い、この長い引用を頑張ってタイプしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだまだ輪廻転生の考察まで続けたいなと思います。&lt;br /&gt;
これではまだ「霊」と「魂」と「体」の区別はつきませんよね。&lt;br /&gt;
それは後ほど引用をこちらにしていきたいと思います。&lt;br /&gt;
そして、自分が何を問題としているのかを、どうすればいいのかが&lt;br /&gt;
漠然とこれを書きながら浮かんできたことも、引用が終わり次第、&lt;br /&gt;
できるだけこれから書いていきたいと思います。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hikawa_sizuru2002/3927178.html</link>
			<pubDate>Fri, 03 Jun 2005 00:32:31 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>人間性の本質</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;治療教育講義でシュタイナーの意味するアストラル体やエーテル体、&lt;br /&gt;
自我とは一体何を指すのかという質問が出たので、これからシュタイナーからの引用と&lt;br /&gt;
自分なりの認識を書こうと思う。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;また、トラックバックにしたのは、このシュタイナーなどの引用などに&lt;br /&gt;
私なりに人間とは何なのかに答えがあると思うからだ。&lt;br /&gt;
ただし、彼の見解には超感覚的認識が基礎にあって、容易に納得できるかどうかはわからないが、&lt;br /&gt;
少なくとも自分で彼の見解を吟味して、体験するなら、はっきりと眼の前に&lt;br /&gt;
より正確な新たな人間像が現われると思う。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ちなみに強調はわかりやすいように&lt;br /&gt;
私が行ったのでシュタイナーの強調した部分ではありません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;神秘学概論　ルドルフシュタイナー著　高橋巌　訳　ちくま学芸文庫より&lt;br /&gt;
「肉体」という概念に光を当てるためには、大きな謎となって人生全体を蓋っている「死」の現象に先ず注目しなければならない。そしてさらにこのことと関連して、常に死の状態にある「生命のない自然」、つまり鉱物界にも注目しなければならない。（中略）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;開示された世界の内部で言えば、つまり人間の物質体とは、人間が鉱物界と共有する部分のことである。&lt;br /&gt;
これに反して、人間を鉱物から区別するところのものは、肉体以外の人間本性である。&lt;br /&gt;
とらわれずに考察するとき、特に重要になるのは、人間が死ぬと、人間本性が鉱物界と同じ在り方を示すようになることである。===死体とは、鉱物界での諸経過にゆだねられた人体部分のことである。===&lt;br /&gt;
人間本性の肉体部分には、鉱物界におけるのと同じ素材の力が働いているが、死にいたらなければ、肉体が崩壊することはない。肉体には鉱物界におけるのと同じ素材の力が働いているのに、その力は生きている間、より高次の目的に使えている。死が生じたときになって、はじめてその働きは鉱物界の働きになる。肉体の素材と力は、そのとき、肉体の形態を解体させるが、それは自らの本性に従った働きなのである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;このように人間の開示された部分と隠された部分とをはっきり区別しなければならない。実際、生きている間は、隠された部分が肉体の鉱物的な素材の力に抵抗して生き続けなければならないのだが、この抵抗がやめば、鉱物本来の力だけが作用しはじめる。（中略）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;生きている間、物質の素材と力に、肉体を崩壊させないように働きかけているものは、「エーテル体」または「生命体」と呼ばれる。（中略）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;エーテル体は、このように人間の二番目の本性であり、超感覚的な認識にとって、&lt;br /&gt;
肉体よりもさらに高次の現実である。ここで超感覚的な認識がとらえたエーテル体について記述する前に&lt;br /&gt;
その記述にどんな意味があるのかについて述べておかなければならない。&lt;br /&gt;
先ず、エーテル体が肉体のいたるところに浸透しており、肉体に対して一種の建築家の役割りを演じていることを、強調しておきたい。身体器官の形態のすべては、エーテル体の流れと動きによって維持されている。心臓は「エーテル心臓」に基づいている。そして脳は「エーテル脳」に基づいている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　エーテル体は肉体同様に分節化されているが、肉体よりももっと複雑に分節化されている。&lt;br /&gt;
===肉体においては、各部分が互いに区別されているのに対して、エーテル体においては、すべてが&lt;br /&gt;
互いに生き生きと融合しあっている。===&lt;br /&gt;
===人間は、肉体を鉱物と共有し、エーテル体を植物と共有している。すべて生きものは、&lt;br /&gt;
みずからのエーテル体を持っている。===&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　超感覚的考察は、エーテル体よりもさらに高次の人間本性に向かう。この本性部分をイメージするためには、先ず眠りの現象に眼を向ける。エーテル体の場合に、先ず死の現象に眼をむけたようにである。&lt;br /&gt;
　通常の意識に開示されたものを考察する限り、人間のすべての創造活動は、覚醒時に行われている。&lt;br /&gt;
しかし、この活動は、消耗した力をそのつど繰り返して睡眠から補充するのでなければ、&lt;br /&gt;
継続していくことができない。睡眠中は行動もしないし、思考活動もやめる。すべての苦しみ、すべての楽しみも、意識の中から消えてしまう。しかし、眼が覚めると、隠された秘密の泉からのように、意識の力が、再び、睡眠の没意識状態から立ち現われる。眠るときに暗い深みへ沈み、目覚めるときに再び立ち現われてくるのは、同じ意識なのである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;=== 繰り返して没意識状態から意識を目覚めさせるのは、超感覚的な認識の意味では、&lt;br /&gt;
第三の人間本性である。それはアストラル体と呼ばれる。===&lt;br /&gt;
鉱物素材やその働きだけでは、肉体の形態を維持することができず、そのためにはエーテル体の働きがなければならないように、エーテル体の力だけでは、みずからを意識の光に照らし出すことができず、&lt;br /&gt;
絶えず睡眠状態に留まり続けなければならない。エーテル体は、肉体の中で、ただ肉体の植物状態を維持することができるだけである。エーテル体が目覚めるのは、アストラル体の照明を受けたときである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;このアストラル体の働きは、人間が眠りに落ちたとき、消えてしまうように見えるが、&lt;br /&gt;
超感覚的に観察すれば、その場合も存在し続ける。ただその場合のアストラル体は、&lt;br /&gt;
エーテル体から離れて、またはそこから抜け出て、存在しているのである。（中略）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;人間は、肉体を鉱物と共有し、エーテル体を植物と共有するが、それと同じ意味で&lt;br /&gt;
===アストラル体を動物と共有している。===&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;植物は常に睡眠状態にある。このことが正しく判断できなければ、&lt;br /&gt;
植物も覚醒時の人間や動物と同じ意識を持っている、と誤解してしまうだろう。&lt;br /&gt;
しかし、それは意識について不正確な考え方をした結果に過ぎない。&lt;br /&gt;
植物が外から刺激を受けるとき、動物と同じような反応を示すことがある。&lt;br /&gt;
たとえば外から刺激を受けた植物が、それによって葉を閉ざすとき、そのような植物には感覚が働いている、と人は語る。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;===けれども、ある存在が外からの作用をうけて、一種の反応を示すということが意識の特徴なのではなく、その反応に際して、新たに何かを内的に体験する、ということが意識の特徴なのである。===&lt;br /&gt;
もしそうでなければ、鉄板が熱せられて延びるときも、それを意識の働きに帰してしまうことになりかねない。ある存在が熱せられたとき、内部に痛みを感じたとすれば、そのときはじめて、&lt;br /&gt;
意識の存在を語ることができる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hikawa_sizuru2002/3925544.html</link>
			<pubDate>Fri, 03 Jun 2005 00:13:17 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>アスペルガーと自分１</title>
			<description>アスペルガー症候群と高機能自閉症などを区別している臨床家も多いらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、私は自分と心理療法家としてのガールフレンドの知識を通して、検証しているだけなので&lt;br /&gt;
信頼できる医師にかかり、診断してもらったほうがいいのかどうなのか定かではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今、現在仕事に就いていませんが、発達障害者支援法などを考えると、例えば障害者枠を使って就労が可能なら、むしろ自分にとって有利に働くのかもしれないと思う。私は将来インドに留学して、北インド古典音楽の伝統をしっかり学んで、新しい音楽療法のようなものを開発したいと漠然と思っています。もちろん、音楽家としても大成したいですが。人間と宇宙に関する自分の関心が医学や教育といった分野にまたがっていて、そして芸術に関わることが自分にとっては一番感情が高揚することです。芸術に関わることが自分の治療でもあるからでしょうが、魂に強烈に高次のものを訴えてくるものは芸術を通してだと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ自分の中にはあまりにもたくさんの関心があって、例えばフランス国立高等芸術学校？のステンドグラス科？でいつかステンドグラスを学んでみたいというのもあります。そしていまだに絞りきれない。沢山の才能が自分にはあると思います。ただ、なかなか絞れない。魂が高揚するものと、社会的な使命を果たしているものは自分の中でまだ不確かにしか、イメージが重なり合いません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とりあえず、今日の検証は、&lt;br /&gt;
自分があてはまるものを主にあげてみようと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
引用。&lt;br /&gt;
独特の人付き合い（社会性の問題）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『アスペルガー症候群の人の人付き合いの特徴を一言で述べれば、人の中で浮いてしまうことが多いということでしょう。』&lt;br /&gt;
　これは私にあてはまります。ただ、自分の特徴をあげるなら余りにも興味や関心の方向が人と違いすぎるために、通常の会話に面白みを感じられないことが多いということ。なので、固定した話題しかしないか、冗談をいってその場を繕うということがあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
積極的すぎることもある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『アスペルガー症候群の子どもの人付き合いの問題は積極的すぎるという形であらわれることがあります。誰彼かまわず、質問を浴びせかけることもあります。初対面の人に向かって「家族は何人ですか？体重は何キロですか？身長は何センチですか」とやつぎばやに質問したり、電車や飛行機の話など自分の関心のある話題を一方的に話しかけたりするのです。相手が困惑していたり迷惑がっていても気がつかず、自分にとって関心のあることは相手にとっても関心のあることだと思ってしまうことがこういった行動の一つの理由です。』&lt;br /&gt;
　これはいまでも当てはまります。いきなり人生でしたいことは何なの？と聞いてしまうので、そういった深い質問にいたるまでのプロセスがよくわからないというのは今でもあります。私は、余り表面に現われる好みとか、人のそういったことには関心がありません。何かこだわりを持って、服を着てるの？とかそういったことを聞こうという意識は薄いです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コミュニケーションの問題&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『アスペルガー症候群の人の話し方はちょっと変わっています。話すことができないわけではありません。おしゃべりなアスペルガー症候群の子どもも沢山います。でも話し方が少し変わっています。一言でいえば会話のやり取りが長続きしないのです。』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『話し方が回りくどい、曖昧が苦手、細かいところにこだわる』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『曖昧な聞き方をされると意味がつかめないようです。久しぶりにあったので「最近どう？」と何気なく聞くと「どうって、何のことですか？元気かという意味ですか？勉強のことですか？友人関係のことですか、それとも家族との関係を聞いているのですか？」などと細かく聞き返されることがあります。その場で何が話題になっているか、言外の意味を汲み取ることが苦手なのでどうとでもとれる曖昧な質問には答えることが難しいのです。問いかけはなるべく具体的にする必要があります。』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私はある特定の質問やテーマには、応えることができます。ただ、会話も何かテーマがないと長続きしません。例えば、写真についてどう思うと聞かれても、本当にいいと思ったもの意外には反応が返すことが難しいですね。そして、何かをいいと思った理由を説明するのも、すごく難しいかも知れません。概念化されずに、いいと思うことがはるかに多くて、人に説明するのが困難です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言外の意味を汲み取ることが苦手&lt;br /&gt;
『皮肉やほのめかしの理解も難しいようです。よく学校の先生が「そんなことしたら幼稚園の子だよ」と注意しますが、本当に幼稚園にいくのだと思って不安になったり、幼稚園にいけるんだと思って喜んでしまったりします。「そんな子はうちの子じゃありません」と叱られて戸籍を調べようとした子どももいます。困った行動をしているときに「それはちょっとね・・・」と言われて、ちょっとねの後の言葉を延々と待っていたりしがちです。』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皮肉やほのめかしはそのまま受け取ってしまう傾向がいまでもありますね。詩を読み取ることとかは、普通の人よりはるかに得意なのですけど。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
思考を言葉に出す&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『小さな声でひとり言を言ったり、考えていることを声に出して言うことがあります。また相手の言ったことを小声で繰り返した後に返事をする人もいます』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独り言、小さいころからよくありました。今は減ってはいますけど。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『「３つ組」以外のアスペルガー症候群に良くみられる特徴』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以下の領域の特徴はアスペルガー症候群に必発ではありませんが、アスペルガー症候群の人が示すことが多い特徴です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
不器用&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『アスペルガー症候群の子どもの動作はぎこちない印象を与えます。三輪車のペダルをうまくこげなかったり、小学校に入っても自転車の補助輪がとれない、ボール遊びが苦手、お箸が上手に使えない、など運動が苦手なことが多いのです。歩き方や走り方もどことなくぎこちなく、家の中を歩いてもあちこちぶつかったりします。小学校では体育が苦手なことが多く、バランスをとることが苦手で平均台をうまくわたれなかったり、ドッジボールなどのボール遊びに参加できなかったりします。手先が不器用で工作が下手だったり「みみずのはったような」字を書くこともあります。このような不器用さは知的な能力とは平行せず、成績優秀な中学生でもお箸で食べると食べこぼししたりします。もっとも特定のことに関してはとても器用なこともあります。お箸はうまく使えないのに、テレビゲームのコントローラーはとても素早く正確に操作したりできる子どももいます。運動は全く苦手なのにピアノは上手に弾いたり、読めないような字を書くのに絵はとても上手に描けるなどです。このような不器用さは模倣能力の乏しさや、模倣するときの注目点が一般の子どもと異なることなどが関係しているようです。』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　手を使ったボール遊びは苦手で、お箸が上手に使えない。子どものときはとくにそうでした。&lt;br /&gt;
鉛筆を普通に持てない、字を書くのは疲れて苦痛。いまでもそうです。絵を描くのは好きですし、テレビゲームのコントローラーは正確に操作できました。これは、そのまま当てはまります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
触覚的な障害&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『ツルツルした表面が滑らかなものを触ったり、ぬいぐるみなどの感触が好きでいつも持ち歩いて撫でていることがあります。シャツのタグのあたるのが嫌でタグを取ってしまったり、きついズボンを嫌がってゆったりしたズボンをはきたがったりすることがあります。』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『他人に触られることや抱きしめられることを嫌がることもあります。アスペルガー症候群の赤ちゃん時代のことを聞くと「抱くとそっくりかえって嫌がった」と報告されることがありますが、もしかしたら触覚への過敏性の最初の表現かもしれません。大人は子どもが良いことをすると頭を撫でますが、良い事をするといつも頭を撫でられるので、そのうち良い事をしなくなった子どもがいます。子どものようすを良く見ていれば、喜んでいるかどうかわかるのですが、子どもの反応をみないで機械的に頭を撫でているとこういうことがおきます。耳垢をとることや散髪をとても嫌がり、寝ている時にやろうとしても起きてしまうような行動も触覚過敏が関係しているようです。』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
きついズボンは痛いので嫌ですし、頭をなでられるのは基本的に嫌いでした。ただし、子ども扱いをされるのが嫌いだったという心理的な要因も頭をなでられることにはあると思いますが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
学習の問題&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『アスペルガー症候群の子どもの成績はさまざまです。かなり優秀な成績のこともあれば全体に学習が苦手なこともあります。多くの子どもは普通学級で学んでいますが、小学校も高学年になると普通学級での学業継続が難しくなり特殊学級に転籍することもあります。社会や理科などが好きで図鑑などから詳細な知識を得ていることも珍しくありません。漢和辞典やことわざ辞典などで沢山の熟語やことわざを知っている子どももいます。一部の知的に高いアスペルガー症候群の人は大学にも進学します。理系にいくことも文系にいくこともあります。大学で自主的に研究計画や実験計画をたてることは難しい人が多いようです。』&lt;br /&gt;
　自主的に計画を立てるのは苦手ですね。基本的に高校までの成績は優秀でした。が、大学にいって人と関係性をつくることが難しくて、行かなくなる面もあり、成績は落ちました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
字を書く問題&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『不器用さの項でも説明しましたが、字を書くのが苦手な子どもが多いようです。まず字の書き方が乱雑で「みみずのはったような」字をかくことがあります。全体的な成績は悪くないのに中学生になっても「わ」と「ね」、「シ」と「ツ」などの区別で混乱したり、簡単な漢字を覚えられないことがあります。「偏」と「旁」の位置が逆転したり、いわゆる鏡文字を書く子もいます。文末の「は」と「わ」の混同なども時にみられます。』&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
字を書くのは嫌いでノートは中学生まで、必要なときにしかとりません。なので、頭の中だけで対応してました。基本的に字を書くのが疲れて苦痛なので、書きたくないですね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日の検証はここまで。とりあえず、自分が本当にアスペルガーなのか、どうなのかよくまだわかってませんので、どんどん検証を続けていこうと思います。高機能自閉症とアスペルガーの違いや、アスペルガーのもう一つの基準もあるらしいので、そちらからも検討していくつもりです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hikawa_sizuru2002/3866492.html</link>
			<pubDate>Thu, 02 Jun 2005 05:40:05 +0900</pubDate>
			<category>その他の病気</category>
		</item>
		<item>
			<title>障害のある子どもを教育するということ</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;障害を持った子に関わるということがどれだけの行為なのかということに、震撼させられるくだりです。&lt;br /&gt;
いきなり、この講義録を読んでわかる人は、ほとんどいないと思います。ですが、あえて引用してみました。それが、障害をもっている人々にどういった態度と眼を向けなければならないかを指すくだりだからです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ルドルフシュタイナー自身は、彼の著作と少なくとも格闘して、人智学を理解しようと努めた人のみが講義録に触れるべきだと考えたいたと思います。著作は万人向けであり、講義は、その場にいる人たちの魂の要求に応えるためのものであり、まったく『そこにいた人々に向かっての話』なのです。ただ、現在ではその読みやすさからシュタイナーの講義録から触れる人が圧倒的多いでしょうし、関心の持てる領域のみ、彼の語ったことに触れる人が多いでしょうから、講義録を引用しても問題はないと判断しました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;治療教育講義　高橋巌　翻訳　ちくま学芸文庫より抜粋&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「ゲーテは植物が以上を現すとき、そこに、＜現植物の理念＞を見つけ出す最上の手がかりを見ています。……霊的な生きものである人間の場合にも、基本的には同じことが言えるのです。人体に潜んでいる異常性は、人間本来の霊性を外に開示してくれるのです。」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;P44-&lt;br /&gt;
重度の精神疾患を前にして、皆さんが現在なされているような仕方で心理描写を、つまり症候の記述をするとします。現在通用している見方からすれば、その人はあらゆる種類のばかげた振る舞いをします。今日の人は、その場合何が問題なのかを全然考えようとしません。何も反省しないのです。&lt;br /&gt;
　いいですか、その場合問題は次の点にあるのです。まったく異常な生き方をしているこの誰かは、それゆえにこそ前世において、非常に重要な人物であった可能性、天才的な一生を送った人である可能性があるのです。そのような天才の人生がこの前の前の生涯であったとします。そしてその次の人生において、その人は比較的若い時期に牢獄に閉じ込められてしまい、全然この世と関係を持つことができなくなってしまったとします。そのような人は牢死して霊界で生き続け、そして今、精神障害を伴ってふたたび地上に現れてくることがあるのです。彼の地上生活が完全に肉体とエーテル体の体験をしていなかったために、その体験内容を十分消化できず、人体の内部組織について無知なまま、地上に受肉してきたのです。その人は自分の肉体とエーテル体に関わりが持てずに、その外に留まっています。肉体を使用することができないので、今異常な行動に出てしまっています。私たちがその人の肉体とエーテル体から目をそらして、そのアストラル体と自我だけに目を向けることができれば、彼が何者であるか、どうしてそのような生き方をするのかが理解できるようになるのです。&lt;br /&gt;
　ところでそのような人を、その人の子どものときを、私たちが受け持つことになった、と考えてみてください。私たちはその子の肉体とエーテル体と関わりを持とうと絶えず、試み、そのたびにふたたび追い返されます。それを図例に示せば、ここに肉体とエーテル体があります。そしてその中には、十分の準備なしに形成された、正常でない器官が存在しています。アストラル体と自我がその中に入っていこうとします。いたるところで入っていこうとしますが、正常な仕方では入っていくことができず、そのつど入っていくのに苦労しなければなりません。たとえば、肝臓と胃の中に入っていくために、そのつどアストラル体と自我は苦労しなければなりません。この苦労が嵩じると、独特の仕方で異常なリズムが生じます。苦労の結果、自我は瞬間的に強められ、そしてふたたび弱められます。その子は、あるときは強度の肝臓や胃の感情を持ちますが、それが意識される以前に弛緩した肝臓や胃の感情を持ちます。このようにして常に振り子のように、烈しい肝臓や胃の感情と弱められた肝臓や胃の感情とのあいだを往き来します。その結果、正常な仕方では自分の身体を使用できなくなってしますのです。なぜなら、身体を使用するには、このようなリズムを生じさせることなく、アストラル体と自我が落ち着いた状態で個々の器官に入っていかなければならないからです。&lt;br /&gt;
中略）&lt;br /&gt;
　このことは、いわゆる精神疾患となって現れるすべての事柄を、細部にいたるまで愛情をもって見つめることを求めています。そして心理描写、あるいは魂のいとなみの単なる症候上の記述を超えて、この精神疾患の中に働くカルマ的な関連に、あるいはいわゆる精神病の人とその生活状況との結びつきに注目することを求めています。そのような場合の生活状況は信じ難いほど興味深いものです。その際必要なことは、客観的な仕方で観察することです。そうすれば精神疾患に深い関心を寄せることができるはずです。&lt;br /&gt;
　精神疾患は最高の叡智の歪んだ模像なのです。そこでは霊界が自分の方から扉を開いてくれています。ただその入り口は、歪んだ形をしています。私たちがそれを興味深いと感じれば感じるほど、しかも大げさにではなく、深く内的な仕方で、異常な魂の在り方に興味を感じれば感じるほど、この扉は開かれるのです。&lt;br /&gt;
　異常さが肉体とエーテル体を直接捉えるとき、すでに述べたようなリズムが現われます。それはアストラル体と自我が烈しく働くことの結果、肉体とエーテル体が強く捉えられ、克服され、そしてふたたびその働きが弱くなることによって生じるのですが、このようにして、強い干渉と弱い干渉のリズムとして現われてくるものに私たちが深い愛を持って接するならば、後にこのリズムが克服され、通常の場合よりもはるかに集中的な仕方で肝臓や胃が捉えられた後で、行為の天才がそのような精神障害者の中から現れてくることができるのです。もし教育者からのそのような接し方がなされない場合、この問題は死と再生のあいだで解決されるまで、放置されることになります。&lt;br /&gt;
　どうぞ考えてください。障害のある子を教育するということは、そうしなければ、あるいは間違った教育を与えたならば、その子が死に、そしてふたたび次の地上生活に生まれ変わるまで、待たねばならないであろうようなことを行うことなのです。それほどにまで深く子どものカルマに関わることなのです。このことをよく意識しておかなければなりません。障害のある子の教育は、どのような扱い方をする場合にも、その子のカルマに干渉することになります。そして当然のことですが、干渉しなければならないのです。カルマに対する干渉を正しく行うためには、ある種の事柄が克服されなければなりません。&lt;br /&gt;
中略）&lt;br /&gt;
教育に関して言えば、死と新しい生とのあいだでなければ遂行できないような、カルマへの深い関わりを教育が行うのだということを、私たちは知らなければなりません。障害のある子どもを教育するときには、未来における神々の作業を現在すでに行うことになるのです。このことを理論として受け取るのではなく、心の中にしっかりと作用させるならば、私たちは常に、今なさねばならぬ事柄を行うのか、それともゆるがせにしてしまうのかの決断の前に立たされるでしょう。けれども次のことを忘れてはなりません。霊的衝動によるどんな歩みも、右にも左にも眼を向けながら、内的な勇気を持って新しい決断をするように促されるのです。&lt;br /&gt;
　地上における通常の生活なら、この内的勇気を持たずとも暮らしていけます。その生活の中では、慣れていることだけを行っていればよいのです。そこでは自分の中にすでに在る基準だけを頼りに生きていけますから、新しい見方をする必要を感じないですみます。物質世界でいとなまれる生活ならそれでいいのです。けれども霊的な衝動に促されて生きるときには、毎日、毎時間、決断の前に立たされていると感じないわけにはいきません。&lt;br /&gt;
　どんな行為も、行うこともできるし、行わないこともでき、そしてまったく中立な態度もとることもできます。ですからどの方向を選んだらいいのか、その決断の前にたたされていると感じずにいないわけにはいきません。そしてそのような決断の際には、まさに勇気が、内なる勇気が必要なのです。私たちの問題である教育の分野で何かを行おうとするときには、この覚悟が何にもまして必要な条件になります。問題の大きさを十分に意識し、お前は神々がいつかその子の死後になすであろうような事柄を、現在行おうとしているのだ、と感じるときにのみ、私たちは眼を見開くことができます。このことを意識することは非常に大きな意味があるのです。このことはメディテーションを通して、受けとめてください。そう考えることができるということは、大きな意味を持っています。このことを毎日メディテーションを通して魂の眼前に置くとき、日々の祈りのように、毎日それを瞑想するとき、それは障害を持った子どもに正しく向き合うのに必要なアストラル体の在り方を私たちの中に生み出してくれます。私たち自身が自分をそのように作り上げなければならないと、信じることができるようになったとき、そのときはじめて私たちはさらなる事柄を語り合うことができるのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　これだけの抜粋から、わかるでしょうか？精神疾患や障害は、「健常」という卑小な概念から導き出される「異常」ではありません。健常者における教育は広義の意味でいうならば、治療です。私たちは誰でも異常性を抱えています。健常者における異常に傾くブレは、眼に見える形になりにくいという程度です。私たちは常に治療過程を必要としています。喉が渇けば、水で治療し、お腹が空けばご飯を食べます。これも広義の意味で治療です。息が詰まれば、私たちは自分たちを緊張から弛緩させてくれるようなものを必要とします。精神的なものはより個体的な要求になり、私たちは自分たちのまぎれもない個性からそれらを必要とします。「人はパンのみによって生きるものにあらず」です。教育においては何にもまして、語るものより行うものより、存在が大切なのだということがわかるでしょうか？私は現在教育を行うものではありませんが、自分が何を行っているのかということを真に洞察でき、それを魂に流し込める人が、真に有効な教育を行える人だと確信しています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hikawa_sizuru2002/3779759.html</link>
			<pubDate>Tue, 31 May 2005 22:42:51 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>自分の抱えるもの</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;今日、Redolf Steinerの治療教育講義を買ってきました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;私の中でRedolf Steinerはとても大きい存在です。&lt;br /&gt;
実際に彼ほど人生のあらゆる領域において、深い洞察を開示してくれた人物は20世紀初頭から現代社会にかけていないと私は思っています。もちろん、彼は神ではないし万能でもないけれど、その霊的洞察に基礎をおいたあらゆる領域での認識は、今日でもいまなお新しく、我々の時代の課題に応じた認識へと合流し、生きた霊の力となって働くことを求めているように思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;私は、彼のような霊的進化の根源を見つめて、宇宙と小宇宙である人間存在の進化を見つめた人を知りません。いかに個人の運命が、宇宙の進化と関連しあっているのかということを開示した人は、ルドルフシュタイナーただ一人だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;彼が開示してくれたことが、私の中に生きる力となって流れ込みます。私は、人生の謎に踏む込もうとしない人生に吐き気を催します。人が安楽な暮らしを目指すことを否定はしません。ですが、世界との関連の中の人間という存在、そして自分というものが一体何なのかということに踏むこめない人生だったら、私にとって「人生とは無意味」だという想いがあります。『ただ生きるということに何の意味があるのか』一方の心がささやきます。他方では、いや、私の表面の意識は余りにも愚かで、この日、この瞬間の意義が、卑小な低自我にはわからないのだということを語ります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;私の深い至聖所に隠れている『私』が、何をしようとして生まれてきたのか。それは、低次の自我の私、表面に出る私のの現在の認識能力をはるかに超えています。わかるでしょうか。私自身は、自分を普段きちんと愛することができません。すぐに人生をどうでもいいと考えるし、人の個性そのものに対しても、自分の驕り高ぶりからでしょうか、人間的な付き合いを継続的に付き合おうとはなかなか思えないのです。。。自分が真に求めるものを人と共有できることが少ない。ただの人間的な触れ合いの中に十分な喜びを見出せない。物質的なことを求めていく人生に、一体何の興味がわくのだろうか。これは正直な思いです。余りにも世界はくだらないものにも満ちているように思える。これは私の眼が曇ってるからです。&lt;br /&gt;
くだらないと思えるものの立場が私に見えなくなるときがあるからです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;自分が価値があると思えるものに向かうことのできる意志が気力が薄いのはなぜでしょうか？ときたま生活することに意義を見出せなくなるのはなぜでしょうか？物心ついたときにはこういった暗い感情を抱えていたと思います。私はここから飛び降りたらどうなるだろうかと考えるような、子供でした。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;そういった思いから、私を救ってくれたのは、私にはまだ知らないものがたくさんあるという考えでした。事実、その通りです。私は「この世ならぬもの」と当時、私には思われたものに想いを馳せることで、現実の興味をもてない生活に耐えてきたように思います。戦地に向かうことで生きることを実感してみようか。小さいころ、私も思いました。でも、それは私が求めてるものとは違っていました。当時は衝動的に参加したくもなりましたけど。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;人間の命が虫けらのように扱われる世界に生きることで、達成できることはなにもない。自分の満足のために戦地に赴いても、「生きる価値」を見出すことは不可能。せいぜい、苦痛を覚えない自分の生活にある今生で自分が意識して自分を救える可能性に感謝することだできるようになるくらいではないかと思うのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;感情の高揚を少しでも感じたものを、人生の拠り所にしようとして生きている、それが今の私でしょうか？芸術において、私は救済され、解放される。そう思っていますが、愛情を、自分にどう育めばいいのでしょうか。私は、自分の価値に気づけないから、人を本当の意味で愛せないんだと、思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「あなたたち二人が交流するところに『私』はいる」そんな言葉だったでしょうか。&lt;br /&gt;
福音書の中の言葉だったと思います。本当は畏敬の念をもって、接しなければいけないものでが、あえて、自分の中に残っている、不確かな印象だけでここに書き記しました。&lt;br /&gt;
私が愛を溢れさすことができるようになる日を望んで。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hikawa_sizuru2002/3658428.html</link>
			<pubDate>Mon, 30 May 2005 03:01:32 +0900</pubDate>
			<category>その他の病気</category>
		</item>
		<item>
			<title>人間の多様性の認識から</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;私は文面からみてアスペルガー症候群ではないというご指摘があったのですが、論拠もはっきりとはしないのでとりあえず、もっとアスペルガー症候群に迫ってみたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;以下引用「」は筆者により強調。&lt;br /&gt;
自閉症とはどこが違ってどこが同じなのでしょうか&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　『自閉症とアスペルガー症候群はひとつながりのもので、どこかで厳然と二つに分かれるものではありません。幼児期には典型的な自閉症の特徴を持つ子どもが思春期になるとアスペルガー症候群の特徴が目立ってくる場合もあります。「強いて区別して言えばアスペルガー症候群の子どもや大人は一見して障害があるようには見えないことが多いのです。」「話もできるし勉強なども人並み以上にできることがあります。人前で独り言を言ったり常同運動をしたりすることは稀です。」一見自閉症にみえない自閉症といっても良いでしょう。』&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;私自身は、話もできるし、勉強なども人並み以上にできることはあるに当てはまります。学校の成績は常に上位に位置していましたから。ですから、一見して本人も障害があるとは思わない、気づかないというところに、アスペルガー症候群の特徴の一つにあります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　私自身は自分を現代という時代がつくった発達障害者という枠にいれることにためらいがありました。それはまるで自分がどんなに努力しても可能にならないことがあることを認めざるを得ない＝自分の可能性を放棄する行為のように見えたことにあります。ですが、アスペルガー症候群などの人の中に存在する差異を認識することは、人間存在の多様性を一つの鋳型に無理やり押し込めることから解放するということに意義がありますし、&amp;quot;自分たちには通常の方法では達成できない”目標を最大限の意志力を使って努力するという非効率的な、緊張を強いられる状況から、もっと効果的な心地よい方向へと人生を転換できる可能性を増すことになります。著名なボディワーカーであるフェルデンクライスは、その著書の中で、現代という時代に存在するこの、「何が何でも達成さえすれば良い」という観点の無益さを強調していたように思います。それは意志力だけは鍛えられても、余りにも他の部分を犠牲にする道なのですから。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;脳についてはまた今度書いてみようと思います。明日は、時間があれば個々のアスペルガー症候群の特徴と自分を検証していこうと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hikawa_sizuru2002/3586332.html</link>
			<pubDate>Sat, 28 May 2005 23:57:41 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		</channel>
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