皇統の未来を守るオフ

新世代皇統護持活動「皇統の未来を守るオフ」の告知ブログです。

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

四月二十五日に開催した学習会「皇胤外史(二)」では、仁明天皇皇子人康(さねやす)親王の當道(当道)祖神伝承を主題とした。

人康親王は、第五十三代淳和天皇の天長八年(八三一)に、皇太子正良親王(第五十四代仁明天皇)の第四王子として御生誕された。御生母は女御(後に贈皇太后)藤原澤子(藤原総継公女)。時康親王(第五十八代光孝天皇)は御同腹の御舎兄にあたる。仁明天皇の承和十二年(八四五)に御元服、同十五年(八四八)には四品に叙されている。
上総や常陸の太守、弾正尹を御歴任になったが、清和天皇の貞観元年(八五九)に病のため御出家、御法名を法性と申し上げた。山科に隠棲されたことから山科宮とも申し上げる。貞観十四年(八七二)五月五日に薨去されている。正史にみる人康親王の御年譜は概ね以上の通りであって※1.、宮内庁治定の御墓が京都市山科区四ノ宮泉水町に所在する※2.。

『伊勢物語』に登場する「山科の禅師の親王」は人康親王のことであるとされ、庭園を好む親王のために右大将藤原常行公が、親王の山科の御住まいに名石を運びこみ、在原業平公が詠まれた和歌をその石を覆う苔に刻んで献上したという説話が残されている※3.。この説話は「當道」の祖神伝承に組み込まれ、後世繰り返し語られることになる。

「當道」とは本来、芸能者が自らの携わる技芸を「この道(芸)」と呼んだ程度の語意であった。中世よりは平家物語を語る盲目の琵琶法師の技芸、及び琵琶法師の職能集団を指す固有名詞となったが、その主な生業が平家琵琶から筝曲や鍼灸・按摩に移行したのちも盲人の互助・権益集団として「當道(當道座)」と称し続けた。この當道に於いて、人康親王を琵琶法師の鼻祖とし、祖神・天夜の尊(あまよのみこと。天世尊、雨夜ノ尊とも)として崇敬してきたのである。

當道の最重要文献とされた伝書『當道要集』の語る人康親王伝承の大要を以下に述べる※4.。

當道の祖神・天夜の尊は、仁明天皇第四皇子人康親王その人である。親王は和漢の学問や詩歌管絃に堪能な方であったことから、その山科の御所には風流を好む公卿殿上人らが引きも切らず訪れていた。『伊勢物語』に見える右大将藤原常行公※5.の名石献上の逸話はこの頃のことである。親王は天安二年(八五八)に病のため失明され、翌貞観元年(八五九)に御出家された。御落飾ののちは御容貌が変わられたことを恥ずかしく思われて人とお会いにならなくなったため、畿内各地より家柄人柄の良い盲人※6.を集めてお側に仕えしめた。これら盲人に親王自ら管絃の技芸を御教授になったことが、後の琵琶法師の起源となったのである。親王は夏の暑い盛りには、先に常行公が献上した石の上に座られて琵琶を弾奏されたので、これを今に「琵琶石」と言う。また親王は、大隈・薩摩・日向にあった御領地よりの貢米を盲人に分かち与えるとともに、自らの亡き後もこの施行を続けられるよう清和天皇に奏聞され勅許を得られた。親王薨去ののち十数年を経て、兄君光孝天皇より人康親王の御霊に「天夜の尊」の神号が贈られ、「四宮」の社が創祀された。その後も天夜の尊の御神恩を忘れずこの社に参集する盲人たちに、親王の母君の奏請により「検校」「勾当」の官位が勅許され、これが當道の職階である四官・十六階・七十三刻※7.の始まりとなった。當道の最も重要な祭儀である「二季の塔」も、親王と母君皇太后の追善のためのものである……。

以上の當道祖神伝承について、正史等には人康親王が盲目となられたとの記録が一切なく、親王の御生母(仁明天皇女御贈皇太后藤原澤子)の没年は承和六年(八三九)すなわち親王九歳の折であることなど、史実との整合性には難があり、その多くは、吉野時代に當道座の基礎を築いた検校明石覚一(『平家物語』覚一本の大成者)の頃に付会されたものとする説が有力である※8.。然は然り乍ら、こうした伝承は當道に於いて永く信じられて祖神祭祀は連綿継続し、その由緒は為政者の承認をも得て、當道座に業の独占・諸国移動の自由から治外法権にまで至る特権を齎してきたのであって、その「史実」もまた重いものであろう。制度としての當道は明治初年に廃止されるが、その後もなお人康親王を我が国盲人史の筆頭を飾る偉人として敬慕する風は顕著であった※9.。なお、元禄期成立の『當道新式目』※10.のように、「天世尊」を光孝天皇の皇子とする史料も存在する。

さて、當道(座)は中世に『平家物語』を弾き語る琵琶法師の集団として漸く史上にその姿を現し、久我家を本所に「座」としての姿を整えたのであるが※11.、江戸期に入ると、検校の最上位者であり京都の職屋敷に常住する惣検校を頂点に、各藩ごとに支配役の検校を置く全国統治の体制を整えて幕府の公認を得た(江戸には幕府との折衝などを担任する「惣録役所」が置かれた)。當道の職階(盲官)は「検校」「別当」「勾当」「座頭」の四官を十六階に分ち、さらにその内に合計七十三刻もの階級があった※12.。

中世以来當道の表芸であった平家琵琶は、音楽嗜好の変化や技芸の多様化に伴って江戸期には衰退し、替わって三味線・筝曲がその位置を占めることとなった。さらに杉山流鍼治術の開祖・検校杉山和一が出てからは、當道から多くの盲人鍼医を輩出するようになる。また盲官の昇進には一定の金銭(官金)を座に納める必要があり、納められた官金は検校・勾当など高位者に手厚く分配され、これら高位者は相当に富裕となったことから、それが昇進を望むさらなる意欲にも繋がり、利殖の可能と必要を産んで、盲人による貸金業(この貸金のことも「官金」という)の隆盛に至ったのである※13.。昔の時代劇などで検校の高利貸が悪役として登場するのは、こうした史実を背景としている。

當道では人康親王の御逮夜とする二月十六日※14.の「積塔」、母君皇太后の御逮夜とする六月十九日の「涼塔」を「二季の塔」としてその祭儀を重視した。

二季の塔には※15.、京都及び近国の検校はじめ末席の座頭にいたるまで参列が義務づけられ、検校の順送りで選ばれる「塔人」が費用を負担して行事を執行することになっていた。塔人は参列者全員に祝儀を配り、久我家に礼物を納め、警固に出仕する雑色・河原者への施し物も用意するなど、その負担はかなり過大なものだったようで、塔人に選ばれた検校が、費用の工面のため檀那(パトロン)を廻って勧進することも行われた。当日の祭儀は、一座に飲食物をまわして宴を張り、高位の検校らが神前に平曲を奉納したほか、九州にあった人康親王御領よりの貢米が鳥羽湊に着いたとき盲人が挙って引上げた故事にちなみ、一同エイヤエイヤエイヤと声を上げる「綱引」の儀礼も行われた。設けられた桟敷席には一般の陪観者が詰めかけ、京都市中の年中行事ともなっていたようである。諸国においてもこれにならった祭事が行われていたという。

〜・〜

人康親王隠棲の地と伝わる京都市山科区四ノ宮地区には、現在も親王の旧蹟がいくつか残されている。

現在宮内庁管轄となっている人康親王御墓を長く奉護してきた十禅寺は、人康親王を開山とし、(私は未拝であるが)琵琶を手にした親王像を安置しているという。山科地蔵徳林庵※16.の傍らには、人康親王と蝉丸の供養塔だという古石塔が建っている。今回は特に触れなかったが、蝉丸にも盲目の琵琶の名手にして醍醐天皇皇子であるといった伝承があることから、人康親王との何らかの連想もしくは混同が、この石塔の由緒となったのであろう。また琵琶湖疏水堤下に鎮座する諸羽神社は、人康親王の神霊を祀った「四宮」の後身といわれ、本殿裏には「琵琶石」と木札を立てた石がある※17.。右大将藤原常行公が在原業平公の歌を苔に刻ませ献上し、人康親王が座して琵琶を奏でられたという、かの琵琶石である。「四ノ宮」という地名にしても、人康親王が仁明天皇の第四皇子であることに因むともいう。

〜・〜

以上、あらゆる階層あらゆる境遇の民草に慈愛を垂れ給う皇室の御存在が、光なき民の心に光を与えた一史談である。



【写真1】人康親王御墓の制札
【写真2】十禅寺
【写真3】山科地蔵徳林庵
【写真4】人康親王と蝉丸の供養塔
【写真5】諸羽神社

※1.『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』、及び『本朝皇胤紹運録』。
※2.『陵墓要覧』平成五年版。
※3.『伊勢物語』七十八「山科の宮」。
※4.以下『當道要集』の記述は改定史籍集覧本に拠った。
※5.原文は「右大将経行卿」。
※6.原文は「筋目よき清らか成盲人共」。
※7.原文は「七十二刻」。
※8.中山太郎『日本盲人史』(昭和9年:昭和書房)。
※9.例えば石川二三造『本朝盲人伝』(大正8年:文部省普通学務局)の凡例に「本書立伝の順序は概ね時代に拠ると雖も、人康親王は皇族にして後世盲人の崇敬する所なれば、特に之を巻頭に置き、塙検校は盲人中の翹楚なるを以て其次に之を置けり。」とある。
※10.改定史籍集覧所収。
※11.中山太郎『続日本盲人史』(昭和11年:昭和書房)に、當道の支配を巡る久我家と當道座の紛争についての論考があり、久我家の本所権が礼金徴収等の形で近世にも存続したことが知られる。
※12.加藤康昭「近世の障害者と身分制度」(朝尾直弘編『日本の近世 7 身分と格式』平成4年:中央公論社)。
※13.加藤康昭『日本盲人社会史研究』(昭和49年:未来社)。
※14.正史が人康親王薨去を貞観十四年(八七二)五月五日とするのは既述の通り(『日本三代実録』同年同日条)。
※15.以下二季の塔については、加藤康昭『日本盲人社会史研究』(昭和49年:未来社)に拠った。
※16.京都に入る街道口六ヶ所に建てられた「六地蔵」のうち東海道口にあたる。
※17.『諸羽神社略記』(諸羽神社鳥居前に掲示)には人康親王伝承は一切触れられておらず、同社は上古の「楊柳大明神」を起源とし、貞観四年(当時人康親王は御存命中)に社殿が造営されたとしている。

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事