皇統の未来を守るオフ

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マルキ・ド・サド著/澁澤龍彦訳『食人国旅行記』は、ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド(通称マルキ・ド・サド=サド侯爵)の長大な小説『アリーヌとヴァルクールあるいは哲学小説(Aline et Valcour ou le Roman philosophique)』のうち、主人公のひとりサンヴィルの語るアフリカや南太平洋の冒険譚部分を、サド作品の我が国への紹介者として知られる澁澤龍彦が選択的に抄出翻訳したものであり、「食人国旅行記」という表題も澁澤が付けたものである。昭和四十一年(一九六六)に初版単行本が刊行されていたが、二十有一年を経た昭和六十二年(一九八七)に文庫化された。作品自体は、革命前夜のフランスが生んだ唾棄すべき「サヨク」妄想のオンパレードに過ぎず、史料として以外に読む価値はない。

『食人国旅行記』が文庫化された昭和六十二年、澁澤は遺作となった小説『高丘親王航海記』を上梓している(雑誌連載は昭和六十年開始)。サド一流の奇怪な“自由主義”哲学と“ユートピア”志向の込められた『食人国旅行記』と、そのような珍妙な思想を伴わない『高丘親王航海記』の間には随分距離があるが、異境への旅行譚に空想世界を投影するという見かけ上の手法には相通ずるものがある。

『高丘親王航海記』は、アナクロニズム(時代錯誤。単なる「時代遅れ」ではなく、時間的混乱を意味する)とアンチポデス(地理上の対蹠点のことであるが、小説中では空間的錯誤・混乱といった意味あいが強い)を通底する主題とし、史実との整合性を欠く種々の物語を小説に取り込む手段ともしているが※1.、欧州的または十八世紀的エクゾティシズム小説の側面を持つ『食人国旅行記』に示唆を得た澁澤が、主人公を平安前期の実在の日本人として、日本的エクゾティシズム小説の構築を試みた作品が『高丘親王航海記』であると見れば、そこに既にアナクロニズムとアンチポデスの迷宮を企てた意図の存在を読み取ることも全くの的外れではないだろう。

いずれにせよ澁澤龍彦著『高丘親王航海記』は、大東亜戦争後長らく忘却の淵に沈んでいた高丘親王の御名を、一部の現代日本人に想起せしめることとなった。

〜・〜

平城天皇皇子眞如親王(高丘親王)※2.は、第五十代桓武天皇の延暦十八年(七九九)に、皇太子安殿親王(第五十一代平城天皇)の第三王子として御生誕された※3.。父帝平城天皇は即位後わずか三年で病のため皇太弟神野親王(第五十二代嵯峨天皇)に譲位され、高丘親王が、叔父である嵯峨天皇の皇太子に立たれた※4.。平城上皇は平安京を離れて旧都平城京に住まいされ、病癒えられて後は再び御政務に意欲を示されたことから、平安平城二廷が並び立つかの如き観を呈するに至った。平城上皇は皇位への御復帰すら御所望となり、ここに「薬子の変」と呼ぶ政変が惹起した。敗れられた平城上皇は御落飾入道され、高丘親王もまた、歴史の綾とはいえ罪無くして廃太子の憂き目を見られたのである。時に大同五年(改元して弘仁元年。八一〇)九月、親王十二歳の砌の事であった※5.。

親王はその後二十二歳頃までに二男一女を儲けられ※6.、弘仁十三年(八二二)に四品に叙されるが、同年中に品位を辞されて御出家された。親王は東大寺で三論を学ばれたのち弘法大師のもとで真言密教の修行に励まれ、承和二年(八三五)の大師入定に際しては、他の五人の最高弟とともに大師の御尊骸を高野山奥の院岩室に安置する任に就かれている。親王は賜わった「平城旧宮処水陸地四十余町」※7.に創建された超昇寺に住しておられたが、斉衡二年(八五五)に、東大寺大仏の頭が老朽化のため突如落下するという椿事が起こると※8.、大仏再建の最高責任者「修理東大寺大仏司検校」に任じられた※9.。

完工なった大仏の開眼供養たる無遮大会は、貞観三年(八六一)三月十四日に挙行され、親王は僧行事検校の筆頭として、貞観年間最大級の国家的盛事統括の大任を完遂されたのである※10.。このとき親王は既に六十三歳の御高齢であり、押しも押されもせぬ高僧智識の位置に達しておられたが、求法の志は已み難く、「諸国山林跋渉」を朝廷に願い出られ※11.、さらに同じ月のうちに渡唐の勅許を得られている。
(つづく)



※1.例えば、同書第二章「蘭房」は高丘親王が真臘王ジャヤヴァルマン一世の宮廷を訪れる話であるが、ジャヤヴァルマン一世の治世は親王渡天の二百年ばかり前にあたり、このアナクロニズムを利用して夢幻的情緒を醸し出している。また、巷間の親王伝説のひとつに親王がアンコールワットを訪れたというものがあるが、アンコールワットは親王渡天の三百年ばかり後にスールヤヴァルマン二世によって建設されたものであって史実とは認め難い。前者は後者に着想を得たものであろう。
※2.「高丘」は御俗名、「眞如」は御法名である。なお、「眞如」以前に「眞忠」、入唐後に「遍明」と名乗られた記録もある。
※3.親王の御生誕年次や御年齢については、勅撰の正史等に一切記載がないため近年まで不明とされてきたが、杉本直治郎博士が『眞如親王伝研究』(昭和40年:吉川弘文館)で、親王の出家御入寺を弘仁十三年(八二二)、その時の御年齢を二十四歳と考証し、これによって御生誕や入唐渡天時の御年齢も考定した。本稿もこの説に従う。
※4.『日本紀略』大同四年四月己丑条に引く『日本後紀』巻十八同年同日条逸文。
※5.『日本後紀』弘仁元年九月丁未〜庚戌条。
※6.親王の二王子は天長三年(八二六)頃、賜姓降下によって在原善淵・在原安貞となっている。
※7.『続日本後紀』承和二年正月壬子条。
※8.『日本文徳天皇実録』斉衡二年五月庚午条。
>※9.『日本文徳天皇実録』斉衡二年九月甲戌条。
※10.『日本三代実録』貞観三年三月十四日戊子条。
※11.『扶桑略記』元慶五年十月十三日戊子条に引く『日本三代実録』巻四十同年同日条逸文。

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