皇統の未来を守るオフ

新世代皇統護持活動「皇統の未来を守るオフ」の告知ブログです。

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(つづき)
その後仏法の真諦を求めて渡唐された眞如親王の御事績については、勅撰の正史には目ぼしい記述が無いものの、一行に加わった伊勢興房(親王御生母・贈従三位伊勢繼子の縁者)の筆になる『頭陀親王入唐略記』が、『入唐五家伝』中の『眞如親王入唐略記』に引用される形で残ったため、ある程度まで知ることが出来る。以下、同書によって親王の入唐渡天の御足跡を辿ってみよう※12.。

貞観三年(八六一)六月十九日に池辺院(超昇寺)を出られた親王は、巨勢寺を経て難波津から乗船せられ、八月九日に太宰府の鴻臚館に御到着になった。その後、壱伎島(壱岐)、小島(斑島)を経て柏島(神集島)に移られ、ここで唐の通事張支信(正しくは張友信か)に船一隻の建造を命じられる。翌貞観四年(八六二)五月に船が完成すると、一旦鴻臚館に戻られた親王は、七月中旬に僧俗六十人とともに船に乗り込み、遠値嘉島(五島列島の福江島あたり)に赴いて風待ちをされ、九月三日に遠値嘉島より御出帆、東支那海を一気に渡り切って同月七日には唐の明州(寧波)に到着されている。

唐の役人の点検を受け上陸を許されると、親王は越州(紹興)に赴かれて所々を巡礼し、現地の高僧達に仏法に関する質問をされたが、まともに答えることの出来た者はいなかったのだという。親王は貞観五年(八六三)五月に、越州の節度使孤陶許>※13.を通じて入京を奏されるが、官許の符は九月にようやく到着する。同年十二月に江船に乗って入京を目指された親王一行は、途中河が凍って足止めされるなど難儀もされたが、翌貞観六年(八六四)二月には、鞍付きの馬を買って陸路を進まれることとなり、同月末に洛陽に至られた。

そして五月二十一日、眞如親王はようやく唐の都長安に御入城になり、西明寺を御座所とされたのであった。同寺にいた日本の留学僧円載法師が、早速親王入城の由を唐の皇帝(懿宗)に奏聞したところ、感歎した皇帝は、阿闍梨(法全か)をして仏法に関する親王の難疑の解決にあたらせた。しかし、当時の唐仏教界の最高権威たる法全阿闍梨をもってしても、親王の疑問を解決することは出来ず、失望を深められた親王は、ついに仏教発祥の地天竺に渡ることを決意されたのである。親王は円載を通じて皇帝に渡天を奏問し勅許を受けられると、同年十月九日には、渡天費用の必要のためでもあろうか、往路の処々に預けてきた寄附功徳の雑物を請取るため、伊勢興房を淮南へと却廻させている。ところが、雑物を預かっていた現地の者たちは、言を左右にして容易に雑物を返そうとしないため、興房は大いに手こずり時日を費やすことになる。明けて貞観七年(八六五)、親王は渡天に出航するため既に広州に到着しておられ、興房に件の雑物を早く請取り広州に来るよう命じておられる。

この時、南海への出航に不可欠な季節風の時期は終わろうとしていた。齢六十七の正月を迎えられ、残り時間を指折らざるを得ない境涯にあられた親王は、興房の到着を待たずに出航する決意を固められ、興房には帰国を命ずる教書を発せられたのち、貞観七年正月二十七日、安展・円覚・丈部秋丸の三名を率い、広州より渡天の旅へと出帆されたのである。

親王よりの教書を受けた伊勢興房は泪を呑んで帰国の途に就き、同年六月、祖国に無事生還した。程なくして興房は、親王の記憶を永遠に語り残すべく筆を執るのである。

〜・〜

広州を発ち、遥か天竺を目指して大海原へと乗り出された眞如親王と三名の従者が、その後どうなったのかは誰も知らない。

親王の御事績の語り部、『頭陀親王入唐略記』の著者伊勢興房は上記の通り、親王渡天の旅に同行すること叶わず帰国しているからである。しかしその故に『頭陀親王入唐略記』は書き記され、いま我々は親王の旅路の一端を拝することが出来るのである。

その後、親王渡天より十六年を経た元慶五年(八八一)、在唐日本人僧よりの申状が朝廷に届き、親王が「羅越国」にて「逆旅に遷化」されたとの風聞がもたらされた※14.。それが何時のことで、どのような事態により、そもそも何を根拠にした情報なのか、一つとして詳らかでない。薨去の地という「羅越国」の位置についてすら諸説あって確定されなかったが、現在の通説ではマレー半島の南端部、現在のシンガポール近辺であると考えられている。

〜・〜

或は一天万乗の皇位を践まれたであろう金枝玉葉の御身にして、仏法の真理を求められて入唐さらに渡天の壮挙に出られた眞如親王。しかもその御消息が南海の彼方に杳として知れないとなれば、そこに様々な野史・伝承が生まれるのはあまりにも当然のことではある。そうした伝承のうち、最も世に知られたのは虎害譚、すなわち親王が異国の地で虎によって食べられたという陰惨な伝説である※15.。現代の視点からはこれを史実と見做すことは極めて困難であるが、かつては一般によく知られた「歴史」であった。

眞如親王に関する史伝は、前近代までは仏教関係者による「求法者」と解釈しての著述が多いのだが※16.、明治以降、我が国に海外雄飛の機運が高まるにつれ、親王はその魁として注目を集めていく。大正十二年(一九二三)には、新村出博士(後に『広辞苑』の編纂者となる)が、シンガポールに親王の顕彰碑を建立することを提唱したりもした。そして、大東亜戦争中の昭和十七年(一九四二)二月十五日に大日本帝国陸軍がシンガポールを攻略すると、眞如親王は山田長政とともに、我が国南方進出史のアイコンとして喧伝されることになり、同年九月には、細川護立侯爵(細川護煕元首相の祖父)を会長に、「高丘親王奉讃会」が音羽の護国寺境内に本部を置いて発足する(翌年三月「眞如親王奉讃会」に改称)※17.。翌昭和十八年(一九四三)には、国民学校用国定教科書『初等科国史』と師範学校用国定教科書『師範歴史』に眞如親王が載せられるに至ったのである※18.。

そして敗戦後、眞如親王の御存在は、一転して国史から隠蔽に近い忘却の扱いを受ける。杉本直治郎博士畢生の大著であり、それまで不明であった親王の御年齢を事実上確定するなど、親王研究に劇的な進歩を齎した『眞如親王伝研究』(昭和40年:吉川弘文館)が、五百部の限定出版であったことは、学術書の宿命としてやむを得ないのであるとしても。

〜・〜

澁澤龍彦著『高丘親王航海記』は、大東亜戦争後長らく忘却の淵に沈んでいた高丘親王の御名を、一部の現代日本人に想起せしめることとなった。語られる「歴史」は必ず時代精神の影響を受けるものではあるが、古代の人物である眞如親王を巡る近現代の狂騒は、澁澤に皮肉なアナクロニズムの視点を与えたのかも知れない。



※12.『頭陀親王入唐略記』は主に続群書類従本に拠ったが、大日本仏教全書本及び『眞如親王伝研究』(昭和40年:吉川弘文館)所収杉本直治郎校訂本も参考にした。
※13.佐伯有清『高丘親王入唐記』(平成14年:吉川弘文館)は、揚州の節度使であった令孤陶の事とする。
※14.『日本三代実録』元慶五年十月十三日戊子条。
※15.虎害譚の初出は、鎌倉初期の慶政による仏教説話集『閑居友』である。
※16.『閑居友』『元亨釈書』『本朝高僧伝』『弘法大師弟子譜』など。
※17.杉本直治郎『眞如親王伝研究』(昭和40年:吉川弘文館)。
※18.佐伯有清『高丘親王入唐記』(平成14年:吉川弘文館)。

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