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芥川賞。
書店にとっては『本屋大賞』や『このミス』の方が話題として取り上げやすく、フェアもやりやすいのだが、そこはそれ権威ある賞であることには違いない。年に2回、この賞が授与された後に出る『文藝春秋』にはその全文と選評が掲載され、通常よりも売れ行きが伸びる。というか、売れ行きを伸ばすようにノルマが課せられるのだ。
というわけで、新米書店員himaの勤める書店にもノルマは投げつけられ、面積だけ広くて集客力のない書店でこんなに売れるわけないやろ、という店長の嘆きをよそに、文藝春秋がドカンと届く。まがりなりにも雑誌コーナー担当であるhimaは、ノルマのために1冊購入。もっとも、現代版『蟹工船』とも呼ばれた受賞作にに少なからぬ興味と親近感を抱いていたので、問題はないのだが。なんとなく買わされた、という釈然とした思いもあったりなかったりで複雑なのだ。
さておき、集中して読みたかったので、夕食をすませてからファミレスへ。ドリンクバーとマルゲリータピザを注文してカバンから分厚い雑誌を取り出す。カプチーノで軽く喉を湿らせ、マルゲリータをゆっくりと16等分してから、ページをめくる。
やがて店内の喧騒は遠のき、世界には活字とコーヒーとピザだけが残された。
29歳の独身女性、ナガセは工場でライン作業をする契約社員。月給手取り13万8千円。そこかしこに綻びを抱えた古くて広い一軒家に母親と独り暮らし。工場の仕事だけでは収入が足りず、時間も持て余すので他に友人のヨシカの経営するカフェやパソコン教室の講師などの仕事も掛け持ちしている。そんなある日、彼女は工場の事務所で2枚のポスターを目にする。軽うつ病患者の相互扶助を呼びかけるものから目をそらした先にあったのは、世界一周クルージングのポスター。費用は163万円――ナガセはその金額が工場から得られる年収とほぼ同額であることに気づき、漫然と働く毎日の中に一年間でその費用を稼ぎ出すという目標をねじ込むことにする。
しかし、退屈な日常は退屈なりに起伏に富み、確実に用意されていると思われた目標へのゴールの前には意外と障害も多いことに気が付く。生き甲斐と言えるほどのことでもない、ただ歩みを止めないための餌としてぶら下げたような163万円という数字は、彼女をどこへ導くのか。
予備知識としてあったのはそのようなあらすじ。何しろ芥川賞受賞作である。予備知識は豊富だった。興味と親近感は年収163万円という数字と29歳という年齢、そして契約社員という肩書き。色々と共通点が多いのだ。
読み始めてすぐ、こんな文章があった。余りにもストレートにリンクしてしまったので、引用させてもらう。
『時間を金で売っているような気がする』というフレーズを思いついたが最後、体が動かなくなった。働く自分自身ではなく、自分を契約社員として雇っている会社にでもなく、生きていること自体に吐き気がしてくる。時間を売って得た金で、食べ物や電気やガスなどのエネルギーを細々と買い、なんとか生き長らえているという自分の生の頼りなさに。それを続けなければいけないということに。
甘ったれた考え方だとは思う。思うのだが、まさに時間を切り売りして時給をもらい、独りで生活している身としては、共感しないではいられない。
彼女が何を考え、どういう毎日を生きているのか、どんな世界を見ているのか、俄然興味が湧いたのだ。そして案の定、彼女は僕の普段は漠然としたままの思考に見事に刺激を与え、言葉としてそれを引き出してくれた。
あふれ出す言葉を留めるのは大変な作業だったが、心地よい時間だった。切り売りしなくてもいい時間、秒針の音に怯えなくてもいい時間。僕が読書に求めているのは、こういうものなのだ。
以下、感想とあふれ出した言葉に号令をかけて整列してもらった文章。
ドラマなき日常のドラマ。しかしナガセ日常には様々なことが起こっている。自宅には友人のりつ子が夫から逃れて娘と共に転がり込んできているし、同僚の岡田さんも悩み事を抱えているようだし、ヨシカと同じく友人であるそよ乃の仲は最悪だ。彼女自身も自転車のブレーキを壊されたり、過労から動けなくなるほど体調を崩している。なにより彼女は、世間一般で言うところのワーキングプアなのだ。
ただ、ナガセはそのどれもに踏み込んでいかない。だからそれらは決してドラマの題材たり得ない。起こっていないのではない。起こしていないのだ。
自己の俯瞰とでも言えばいいのか。這いつくばって必死に生きているようで、どこか超然としている姿がそこにはある。物語の語り手だから客観的であるのは当たり前だといってしまえばそれまでだが、その姿勢であったからこそ、このような作品に仕上がったのだろう。自分の境遇を悲観し、周囲の人間の悩み全てに付き合っていたとしたら、胃もたれのしそうなものになっていたに違いない。
自己の俯瞰という言葉を使ったとき、ふと夏目漱石を思い出した。漱石作品に登場する語り手たちも、妙に達観している雰囲気を持っていた。けれどもそれは厭世観を伴った感情的なものであったように思え、ナガセの醸すそれとは根本的に違っているように感じる。村上春樹はどうだろうかと考えてみるが、やはり違う。ナガセは別に斜に構えているわけではない。無力感に苛まれてはいるが、人生のどこかを諦めて切り捨ててしまってはいない。
おそらくナガセは基本が俯瞰なのだ。ただそれだけのことなのではないかと思う。これは彼女が持つ世界が狭いとか、思いやりがないとか必死さが足りないとか、そういうネガティブなことではなくて、出発点の問題だ。前者2人の登場人物が地面スレスレのところからスタートして徐々に上へと上がっていったのだとしたら、そういう過程を経て達したスタンスではなくて、まず俯瞰からスタートして地表近くへ移動することも覚えたということだ。だから他者の気持ちも理解しようとできるし、当たり前の感情を抱くこともできる。ただし基本は俯瞰だから、立ちふさがった大きな出来事をドラマとして見上げることはない。
同世代の作家、乙一や米澤穂信、西尾維新、漫画家でいうと木尾士目や浅野いにおなどの持つ《乾き》のようなものも、このスタンスから生まれるものではないだろうか。先に例として引いた夏目漱石や村上春樹作品との決定的な違いは、自己を俯瞰しているため自我や感情への陶酔がないということだ。
現に木尾士目は作中で自らの感情に酔いそうになった登場人物に《戒め》の言葉を叫ばせている――落ち着け!! 戻るんだ 浸るな!!(『陽炎日記』より)
陶酔を拒絶するために、視点を体内から外へと飛ばしているとも言える。だから世界の出来事は感じるものではなくて眺めるものになる。ある種の酔いがあるとするならば、この《戒め》からも読み取れるように、前者のそれへ流れようとするのを、必死に押し留めている自己へのもの。俯瞰の高度に酔っているとでも言えばいいだろうか。車に酔うか、飛行機に酔うか。どちらも辛いが、似て非なるものだろう。
かの伯爵夫人や学長先生ほどアルコールには精通していないが、麦酒、日本酒、ワイン、焼酎、同じ酔いでも全て種類は違い、決して同一のものではないのではないだろうか。チャンポンは悪酔いの素とも言うし。
こうして、体の外側で起こっている出来事を内側にまで取り込むことを無意識に拒絶しているから、そのどれもがドラマにはならない。どんな重大な事件でもテレビで観る限りは他人事になってしまうようなもので、認識がなされなければ一大事も小事に成り下がる。我が心の(中でだけの)友、登美彦氏も『太陽の塔』で高らかに宣しているではないか――我々の日常の九〇パーセントは、頭の中で起こっている――つまりは、それが全てだ。
こういう主人公が語り手となるにはどうするか。それは見えたものを率直に描くしかない。予断を挟まず、自分の目が捉えたものだけを素直に吐き出す。そうすることで伝えるべき輪郭を鮮明にしていく。行間を読ませようという小賢しさやひねくった表現など、陶酔の要因になりそうなものは排除して、正確にデッサンを切って、確実なコンテを練り上げる。
それはやがて丁寧な写実画として読者の前に差し出されるが、不思議と無味乾燥なものにはならない。時機を得ているからなのか、最大公約数としての生活者の姿に感情移入がしやすいからなのか、はたまた実は気づかぬうちに読者も高度に酔っているからなのか、喉の奥から胸の辺りにストンと軽やかに納まるような、爽快な読後感が残る。
ああ、人生ってこういうものだ――
たかが30年しか生きていない人間が語るには不遜に過ぎる言葉が、思わず頭に浮かぶ。そして同時にその言葉によってしまいそうな自分を戒めるため、正確に言い直すのだ。
ああ、僕たちの世代が生きて感じる《人生》というのは、こういうことを言うのだ――
人生、という言葉は、今の僕にはまだカギカッコをつけなければ語ることができないほど、重たい。その重たさも傍目から見て知っているだけで、実感としては分かっていないに等しいのだが。何しろ、上から見えているだけだから。
だが、生きていかなくてはならない。ならないが、このままでいいのかという疑念や闇の中でもがき続けるような焦燥感がまとわりついて離れない。いっそ全てを投げ出してしまおうかと思う心に、この作品は緩やかに「待った」をかけてくれたような気がする。
――まあ、とりあえずそのまま生きてみれば。
あくまで気軽に――あるいはそう見えるように――夕陽のように背中を押すわけではなく、空から降る雨のように肩を弾いてくれるように。その軽さが、僕にはとてもしっくりと来た。
テーブルの上にはマルゲリータピザの残り6片と、ペプシコーラ。
うなづけるものや鼻に付くものが並んだ選評と、お気に入りの俳優、堺雅人の柔和な顔立ちそのものな衒いのない素直な文章に頬を緩めて、本を閉じる。
23時。ファミレスの外を眺めてようとして、ガラスに映りこんだ自分と目が合う。思わず目をそらして両手で顔を覆う。ため息を1つ。店内に漂う様々なベクトルがざわめきとなって滞っている。そこかしこに《人生》があり、日常がある。
体の表面をざわめきが滑る。内側にほのかなぬくもりがある。読後の充足感。それも久々に読みたかったタイプの小説に出会えたことの喜びだ。今、このタイミングで読めたことを嬉しく思った。ノルマ万歳。それは違うか。
思ってから、これは陶酔ではないかと思わず辺りを見回してしまう。
その文章を書いている今もまた、かすかに不安になるが、何しろ25時を回っている。それもやむを得ないではないか。美味しい酒には素直に酔うのだ。
ところで、読みたかった、はすなわち書きたかった、となる。おかげで埃をかぶった自作のことを思い出してしまった。勢いついでにお目にかけたいと思う。よろしければご賞味の上、どうぞ忌憚なき意見を聞かせてください。某都知事のように。
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この作家さんは芥川賞の前から知り合いブロガーさんの絶賛をみて気にはなっていたのです。ただ、受賞作は写実的な小説らしいと聞いて、読むなら違うものからかなと漠然と思っていました。himaさんの解説はいつも的確なので、この記事でその思いがちょっと強まってしまったのは否めません^^;
2009/2/17(火) 午後 3:00
>冴さん 僕の記事が的確かどうかはともかく、僕の感じ方は間違いなく写実的でした(笑)それでも手触りはとても柔らかく、読みやすい印象が強く残ったので、もっともっと他の作品を読みたいと思わせてくれましたよ。
2009/2/19(木) 午後 9:56
いろんな方のブログで『ポトスライムの舟』の書評感想を読みました。himaさんの感想はなかなか切り口も鮮やかで、夏目漱石や村上春樹と比べているところなど、興味深く読みました。
現代の蟹工船、なのかなぁ。やはり鍵は、時間を切り売りする人生、かどうか、かと思っています。
といいつつ私はこの作品未読なのです。あらすじや皆さんの感想が頭から消えた頃、図書館で借りるつもり。その頃も津村さん、人気作家でい続けているかしらね。
2009/3/3(火) 午後 2:38 [ booklover ]
>bookloverさん ご訪問、コメントありがとうございます。僕がこの作品に共感できたのは、現状とナガセの境遇に似通った部分があることはもちろん、やはり仕事を時間の切り売りだと捕らえている部分があるからだと思います。その中でどう生きていくのか、どのような日常を送るのか、そういうことが自然と考えられたので没頭することができたのだと思います。
既刊もたくさんあるようですし、今後も安定した活躍をしていく作家さんだと思います。
2009/3/5(木) 午後 9:34
芥川賞という賞に興味を失ってからけっこうな月日がたってしまったようです。この作品もまったくノーチェック^^;;himaさんの記事でかなり掻き立てられました。
独身貴族という言葉が私語になって久しい現状。163万円という数字の背後にある孤独や切実な生活。それを俯瞰という切り口でどのようにとらえていくのか。少し間をおいてから挑戦したいと思います。
あ、言うまでもなく本日も酔いに浸っておりました^^;
2009/3/13(金) 午後 7:45
>しろねこ学長 僕も文章中のことがなければ手に取ることはなかったかと。こういう点、書店員でよかったと思います。
僕がここまで入れた理由は本当に自分の境遇と重なるところが多かったため、同じ視点に立つことができたためなので、違う立場の方が読まれたらどのように映るのか、非常に興味があります。読まれたら感想を聞かせてくださいね。
僕はもっぱら『陶酔しない』という行為に酔いまくりです^^;
2009/3/13(金) 午後 9:56