開架図書−一般

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 佐藤奈加子は大阪のデザイン会社に勤める傍ら、副業としてライターもこなす31歳。朝起きるのがつらく、贅沢が苦手。
 佐藤重信は建設会社に勤める31歳。東京から大阪への転勤にも特にこだわりなく首を縦に触れる31歳。あれこれ考えるのが億劫で、片づけが苦手。
 年齢も苗字も同じで、誕生日も同じ1月4日、色々な偶然が重なった2人は偶然出会う。お互いの存在を少しだけ意識しながらも、32歳までの1年間を別々に過ごす2人のそれぞれの毎日。
 
 
 
 物語を読むというのが、非日常をに没入することを目的としている娯楽なのだとしたら、この作品を読むことは完全にその目的に添わない。上に書いたのは粗筋というか物語の導入のようなものだが、正直に言ってあれが全てだ。2人の前に死体が現れるわけでもなく、激的な恋愛が展開されるわけでもなく、出会いからして、そういや仕事で共通点の多い人と会ったなあという程度の日常の一部だ。あれこれと自分の考えや思いを抱えながら、それを横に措いてやるべき仕事をこなす。以前に読んだ『ポトスライムの舟』の中にもあったが、仕事はあくまで金銭を得る手段という割り切りと言うか諦めが感じられ、輝かしいサクセスストーリーにはなり得ない。
 上の一文にこう付け加えるとより鮮明になる――ただ、それだけの物語。
 いっそ、それ“だけ”の物語とくくってしまってもいい。そういう話だ。
 
 ただ、その“だけ”をこれほど読ませてくれるのが津村記久子という作家だ。
 
 僕の中で、津村記久子をどの位置に置くかが難しい。
 登美彦氏のように「ああ、もう大好きだ」とありがた迷惑(1:9)な叫びを放つことはないし、北村薫のように思わず「先生」と呼んでしまうほど敬愛することもない。そのほか、名前を見れば飛びついてしまう作家陣の中で、この人の位置付けは難しい、ただ決して、何となく読んでいる人ではなく、間違いなく読みたいと思っている。
 奈加子と重信のように、共通点を探すと分かりやすく2つある。生年が一緒、そして大学時代に過ごした場所が一緒。大学はお東さんとお西さんというお隣同士。カップル等間隔の法則とか牛若丸とかで有名なあの界隈ですれ違っていてもおかしくない。
 その程度のことなのだが、独り勝手に猛烈な親近感を抱いている。無理矢理に結び付けようと思えば、偶然にも僕が書店に勤め始めた頃に、偶然にも氏が芥川賞を取り、偶然にも僕がノルマとして掲載された『文芸春秋』を買い、偶然氏の作品を好ましく思ったという運命的な偶然の作用もあった。おそらく書店員になっていなければ、出会うことはできなかった人なのだ。
 
 出会ったこともない作家に個人的な親近感を抱いてばかりだと色々と心配な気分になってくるので、そろそろ作品のことを。
 同じ年齢ということもあるのだろうけど、いちいち身近な表現や題材や感じ方が多い。普通なら簡単に「共感できる」と言えば終わりなんだろうけど、それだと少し遠い感じがしてしまう。これが本当に無関係だったり自分からはるか遠い登場人物だったら、逆にそのキャラクターに感情移入したり、その言動に共感したりできるのかもしれないが、そういうのとは種類が違う。
 端的に言葉にすると――あ、こいつ知ってる――という感じか。
 奈加子にしても重信にしても、どこかにいる他人として認識できるのだ。平面から浮き上がるリアリティ……なんてものじゃなく、自分と同じ時間を生き、自分と似たような視界を持つ人として存在を確信できる。作中の重信の言葉を借りれば「生まれてからほとんど同じだけの古さになってる人」ということか。もちろん、津村記久子も含め。
 
 例えば。
 「ああでも『野菜摂れるしね』なんて、二十代では言わんかったんやけどなあ」という重信の言葉。このあと、奈加子もカフェインで目が覚めるとかほうれん草で貧血が防げる、などの事例を挙げて「常識を体が感受するようになってくるのがわかる」と応じる。
 この会話からは30代という年齢に慣れてなくて、20代の頃のように老け込みたがることも気恥ずかしく、かといって中年に踏み込むこともできない中途半端な座りの悪さがにじみ出ている。決して若くはないのは分かっているが、その頃の記憶は鮮明に残っていて、老いを感じるほどでもないにしても、確実に積みあがった経験で人生の波には乗れていて、ある程度の先行きは見通すことができる。立っているのはそれなりに見晴らしのよい交差点。その見晴らしのよさが落ち着かないのだ。錯覚かもしれないという恐怖からも逃れられないし。
 
 例えば。
 友人から誘われた奈加子の心の動き――あんまり会うのもどうかと奈加子は思ったのだが、その「どうか」っていうのも人とやっていく上でけっこうわがままなんじゃないの、自分の中での反駁があったので、また飲み会に行くことに決めた。
 このめんどくささ(笑)
 行きたくなければ行かなければいいし、行きたいなら行けばいい……んだけど、本当にどっちでもないのだ。だったら次善の策としての選択をする。打算と言うほど汚れてはいないけど、理性と言うほど清潔でもない。それに対して納得して行動するために『自分からの反駁』という手続きを必要とする。
 
 例えば。
 それでいい、と思う。
 何の根拠もないけれど、自分は自由だと感じた。
 それの何が悪いのだろう。
 ――という言葉。
 合間合間に挟まれる、自分のための言葉。こぼれるつぶやきは、どれも覚えがあるものばかり。生活は安定していて、一時の乱れもそのうち正常に戻ることも知っている。先々の収入も把握できていて、生活に困ることはない。「〜たい!」と強く思うことはなく、「〜たらなあ」程度の願望にとどまることばかりだけど、それで大した不満もない。周囲と自分を比べたときに、若干足下に揺らぎを感じることはあるけど、あれこれ考えているうちに立つべくして立った場所だということが分かって、そこから見える景色に安心できる。大体のことは――物理的にも精神的にも――1人何とかなってしまえて、他人の手を煩わせる方がよほど後を引いてしまうことを知っている。
 それでも。
 後ろ暗いことはない。何も悪いことはしていない。白状することは何もない。それでどうしてこんなに立っているのがやっとなんだ。
 ――そんな風に膝から下の力が抜けていくのを感じる。
 
 漠然と日々を送っていることは知っているし、ある視点から見れば恵まれた立場で贅沢を言っているといことだって分かっている。周囲のことも、周囲の中で立つ自分の姿も、大体は正しく把握できているつもりで、その物分りのよさのせいで身動きが取れなくなるのだ。日々湧き上がる感情はたくさんあるけど、それに身を任せてしまえるほど度胸もなければ自分を信用もできていない。何もいらないと思えるほど何もない毎日でもないし、身を任せてしまった後にどうなるかの見通しだって立ってしまう。この辺りにも中途半端な年齢が祟っている。
 智に働けば角が立つし、感情に掉させば流される。それを知っているから、レールの上を惰性で走る感情を行方は言葉でポイント変更をして決める。留めることはできなくとも、端っこを走っていてほしいときがあり、ど真ん中を爆走することを許したくなるときもある。完全に制御はできないと分かっているから、せめてそれくらいの融通を利かせてほしくて、言葉で自分の状態を規定する。
 
 これでいいんだ、と。
 いつかそのうち心に身を委ねる瞬間の準備だけはしながら、今はこの場所で生きていくと決めている。
 そして、それでいい、と思う。
 
 以前に『ポトスライムの舟』の感想を書いたときに僕は作品からこんな言葉をもらったと書いている――まあ、とりあえずそのまま生きてみれば。
 今回、同じようにもらった言葉は――多分、あんただけじゃないよ。そんなもんだよ。
 読み終わってもれたのは、安堵のため息だった。こんな作品、他にあるだろうか。
 
 
 
 思いつくままに羅列した言葉は、気を抜くと自分の現状を書き連ねただけに思えてくる。でも確実にこれは作品の感想であるとも言える。
 津村記久子は、自身と同じ年代の人物を軸に作品を描いている。それはつまり、いつだって同世代の姿を描いているということだ。その時にしか描けないことを美化も陶酔も特別視もせず、フラットに見つめ続けていくのだろう。
 だとしたら、これからも同じように古くなっていく僕にとって、津村作品を読むということはその時その時の自分の姿を鏡に映すのと同じことになるの。これから先、どのような姿がそこに写るのかは知らない。だけどおそらくずっとずっと読み続けていく作家なのだろうと思う。
 
 こういう感想を与えてくれる作家を、単純に「好き」という分類でくくっていいのか、結論はまだまだ出そうにない。

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 登美彦氏による初めての書簡体小説である。
 京都の大学生として青春らしきものを謳歌していた守田一郎は、力強い愛情によって千尋の谷よりも厳しい能登の実験所へと修行に出される。上手くいかない実験と学業、そして襲い来る将来への不安を和らげるため、守田青年は文通修行を志す。いずれは自由自在に乙女を篭絡する恋文の技術を得ることを夢見て……
 
 
 
 拝啓、みなさま。
 大変ご無沙汰しております。もうお忘れでしょうか。himaです。覚えていてくださった方、記憶の深みの隙間から掬い(救い)上げてくださった方、本当に本当にご無沙汰しておりました。忘れてしまっている方、もしくはそもそも知らないよという方、初めましてhimaです。
 しばらくなりを潜めていましたが、ちょっと寂しくなってきた……もとい、再び文章を書くという高尚な欲求がグツグツと沸き起こってきて、迸る才能が抑えきれなくなってきて……もう一度みなさんにかまってもらいたくなったので頑張って読んだ本の感想を書こうと思います。
 
 というわけで、復帰第一弾は敬愛する登美彦氏です。
 携帯電話やメールが全盛のこの時代に、あえて手紙を書くという時代への逆行ぶりがいかにも氏らしいこの作品。読み始める前は往復書簡形式になっているかと思いきや、並べられるのはヘタレ大学院生、守田一郎からの手紙のみ。彼が能登へとぶっ飛ばされた春から京都への期間が許される秋までの間、文通相手に送り続けた手紙から、読者は彼の身の上に何が起こったのかを知ることになる。
 文通相手は京都にいる友人、頭の上がらない女性の先輩、家庭教師として教えていた小学生、知り合いの小説家・森見登美彦氏、しっかりものの実の妹と多岐に渡る。劇中の出来事についてはこの文通相手の書簡に一郎が返事をすることによって読者に知らされる。当事者には当事者なりの、たまたま居合わせてしまった人にはそれなりの、まったく知らない人には大幅な脚色を加えた形で、多角的かつ尊大に描かれるプリズム感にモリミ節がモリモリ躍動している。
 そして何より僕の好きな登美彦氏だなあと思ったのは“出せない手紙”の章があるということ。秘めて偲んであたためた思いが向かう先を求めて迷走するのはいつものことだが、今回はそれがどうしても書けない、出せない手紙と言うかたちで登場する。
 その失敗書簡集の何が切ないか。出せないままに積み重なっていく月日と、時候の挨拶の移り変わりだ。モラトリアムを求めて大学院へと進学した一郎と違い、就職して社会に羽ばたいた彼女に向けた「就職して〜ヶ月が経ちましたね」という言葉。春から秋へと巡っていく季節と変わり行く景色。
 これらを描くときの一郎の気持ちは想像するに難くない。この前はこんな風に書いたなあ、あれからこれだけ時間が過ぎたのか、どうして未だに出せずにいるんだろう、一体いつになったら募る思いを正しく書き綴ることができるのだろう。
 いつまでも書けない不安、書き上げたときの高揚、遠く思う切なさ、などなどがただそこにあるだけの手紙に凝縮しているのだ。この感覚は“出せなかった手紙”からでなければ醸し出されなかったに違いない。
 
 想いを文字に託して相手に届けるというのは、フォローもできないし細かなニュアンスが伝わり切らないから、直接伝えるよりも難しいだろう。それでも、精一杯の誠意は伝わるものではないだろうか。一字一句に想いを込めて、届け届けと祈りを込めて、ひたすらにペンを進めて行く。ただし、気持ちばかりが先走っても怖くなってしまうし、恋心を秘めすぎても伝わらない。
 そんな中で一郎が得た恋文の技術。それはなるほど、確かに一理あるものだった。
 
 恋は、思いは、しのぶれど文字に出にけり……というものなのだろう。
 当たり前にしていれば、ただ好きでいることをしていれば、自ずと気持ちはふわふわと空を舞って伝わってしまうものなのかもしれない。
 ……ふむ、気をつけなきゃ……ではなくて、その思いに胸を張って受け入れて生きること、それが一番大切なことなのだろう。
 
 登美彦氏は言う。教訓を求めるな、と。
 ならばhimaは言おうと思う。共感するのは勝手であろう、と。いいこと言った!
図書部。それはあまりにも働かない図書委員に業を煮やした本好きたちが、自分たちが図書館を活用するために設立された。高校三年生の望美は偉大なる先輩たちに感謝しながら、時々そんなことも忘れながら、のんびりとした高校生活を送っている。

ドラマもない。
事件ももちろん起こらない。
ただ、図書館とベニヤ板で区切られただけの狭い部室に集まって、笑ったり泣いたり怒られたりするだけの毎日。
活き活きと、というには少しのんびりふわふわ……というかダラダラと覇気のない高校生活。それだけに、やたらとリアルに浮き上がっている。物語は望美に視点をおいた3人称で描かれるが、まるで誰かの日記を覗き見しているような感覚すらある。

小さな世界での流行り文句や、ちょっとしたトピックや、彼らの中でしか通じない手柄などなど、その時計に沿う時間の中だからこそ輝くものがたくさん散りばめられている。
自分にも確かにこういう時間はあった。だけどその記憶を喚起するものは、本当に些細なことだったりする。

その“些細”の加減が実にいいのだ。

もちろん、小説である以上、作り物である(作者の経験もある程度は入ってだろうけど、当世の高校生を描く以上、時代性も盛り込む必要がある)。
だけど、あまりにもつまらないこと過ぎて(いい意味で)、ほとんど作為を感じない。どうせ小説なら、もっと大げさなことにして、そこからどんどん話を広げていけばいいのに、と思うほど。
それくらいに語られることは小さなことばかりで、それらは登場人物たちにほんの少し思い出を残しながら、ほとんど使い捨てのように忘れられていく。当たり前に明日が来れば、場面はもう次のことに移っている。目玉になりそうな文化祭なんて「3日前に終わった」とあっさりと切り捨てられる。

でも、日常はそういうものなんだと思う。
移り気で落ち着きがなくて、だけど変なことにこだわって。
高校生だった僕も、多分そうやって生きていた。
そうではなかったかも知れないけど、この小説のおかげでそうだったことになってしまった。
ぼんやりとした小説ではあるけど、それくらいに力のある物語。

『ジャージの二人』の時にも思ったけど、本当にこの人はグダグダした話を書くのが上手いなあ。



ちなみにこれ、僕にしては珍しくハードカバーである。
タイトルとか装丁とか作者とか、諸々で気になっていたので文庫待ちの姿勢だったのだけど、ある日の仕事中、届いた本の中のあと1冊がどうしても棚に入らない、ということがあった(よくある)。普段ならそこで何かを返品してしまうのだけど、この日は一念発起。えいやと買ってしまったという次第。
書店員になって、それまで付き合っていた本の新しい顔や違った距離感に遭遇することが毎日のようにあるけど、仕事が進まないから買ってしまえということまであるとは思わなかった。
それが約1年半くらい前。それ以降、時々そういうことをしている。買おうかどうしような迷ったときの最後の一押し。レジに差し出すときは複雑です(楽しいけど)。
 デュークが死んだ。私のデュークが死んでしまった――という、絶望的なつぶやきから始まる『デューク』。居残りの教室で見た女子中学生の白昼夢の行方を描いた『夏の少し前』。卒業を間近に控えた小学生男子の複雑な心境を切り取った『僕はジャングルに住みたい』などなど……
老若男女問わず登場するたくさんの登場人物たちの、当たり前の日常の中にぽっかりと浮かんだ、少しだけ昨日と明日から切り離された瞬間が集められ
た21編の短編集。



職場の本読みの同僚から借り受けた、初めての江國香織作品。
もちろん有名な作家さんだし、作品のタイトルくらいは知っていたけど、どんな色のものを書くのかは全然知らなかった。漠然と恋愛小説っぽいのを書く人なのかなあと思っていたくらい。

読後の印象。とても綺麗で、不思議な手触りのする作品だなと感じた。

並べられた21の物語は、通りに出て辺りを見渡せば近くに立っていそうな人たちの時間を切り取ったもの。それらはとてもありふれた毎日のように見える。
この、ありふれて見えるところが、とても不思議なのだ。
物語の中には、平凡な誰かにとっての特別な時間もあるし、いつか忘れてしまいそうな何でもない瞬間もある。しかしその中にいくつか、そんな日常から逸脱したものが混ざっているのだ。幽霊あり、未来への飛翔あり、遠い遠い過去との邂逅あり、怪談ともSFとも言えない話が入っている。
しかしそれすらも、ありふれたもののように感じられる。
ありふれた、という言葉だと語弊があるかもしれない。誰かの特別な瞬間のように、自分の身に起こってもおかしくはないと思えてしまうのだ。
右を見ればクリスマスをくさしながらバイトをする学生がいる。左を見れば飼い主の彼氏に嫉妬する猫がいる。前を見る、後ろを見る、色々な人がいる。視線をめぐらせていると、いつの間にか扉が現れている。何の気なしにノブを回す。そこに広がっているのは、少しだけそれまでと違う風景。だけど、決して受け入れられないものではない。
それらのことにスポットライトが当たっているわけでもなければ、BGMの転調があるわけでも、回り舞台で背景に劇的な変化が訪れるわけでもない。これみよがしの傍点もなく、フィニッシングストロークのような演出があるわけでもない。作中の人物も、取り乱したり驚いたりもしない。
ただ、物語として自分ではない誰かの日常を見せてくれる。それ以上の何かを語ることはしない。
そのなんでもない語り口が、すべての出来事を自分の立つ地面と地続きであると知らせてくれていた。当たり前のように受け入れてしまったのは、そのためだと思う。

つまり、不思議だと感じたのは、幽霊が出たり前世の記憶を宿していたりする話そのものにではない。それらの不思議を、不思議だと思わなかった印象についてだ。

そうかと言って、すべてが単調で無味かと言えば、もちろんそうではない。
描写は鮮やかだし、登場人物の誰もが優しく温かい。そして自分の周りの世界をこの上なく愛している。自分の中に在った祖母の記憶も、理想とは少し違う家族も、自分の中にしかない孤独すらも。
その愛情があるからこそ、この短編集は美しい。
大きな起伏があるわけでなく、深い充実感を味わえたわけではなかったが、ゆっくりと感情を動かされたような気分。時にはこういう読書も悪くない。



ちなみに、僕にとっての21分の1は、不意に現れた孤独に立ち向かう『ねぎを刻む』。この唐突な違和感にはこの上ない親近感を覚える。それでも結局明日は来ることを知っている。深くて暗い感情もやがて薄くなることも知っている。それでも押し寄せる感情には抗えない。いつものことだと感じながらも、涙が止まらない様子が生々しく描かれている。
親近感を覚えるとは言っても、さすがに涙を流したりはしない。ただ、『私の孤独は私だけのものだ』と宣言した彼女に大いに共感。この一文を大きく取り上げず、さらりと流した辺りも、この短編集のカラーだと思う。ここを掘り下げてしまうと、話の方向性が変わる。ただ孤独で、過ぎ去ることが分かっていて受け入れる。そういう姿勢を描いているからこそ、この短編集の中に並んでいるのだから。
 数学の世界において、これまでに幾人もの数学者を跳ね除けてきた、そしてこれからも大きな壁となることを約束された、しかし強く解決を望まれた七つの問題――クレイ研究所の定めたこれらの問題を称して「ミレニアム問題」と呼ぶ。
 そのうちの一つ《ポアンカレ予想》が2003年、一人の、そして独りの数学者によって証明された。その名を、グレゴリ・ペレルマン。彼がいかにして数学世界を生き、ポアンカレ予想を解き明かしたのか、そしてその後、数学界だけでなく世界の全てに背を向けてしまったのはなぜなのか。孤高の天才の軌跡を描いたノンフィクション。
 
 
 
 書店員になった当初は、コミックとか文庫とか文芸とか、自分が興味を持てる分野の担当になれればいいと思っていた。でも最初に担当したのは雑誌のコーナー。それからPC書が加わり、さらに理工書の面倒も見ることになった。
 雑誌も読まなければ、どこまでも文系である。どうなることやらと思っていたけれど、興味と世界がグンと広がったことには感謝したい。特に、数学という世界を知ることができたことが何よりの収穫だと思う。
 理系ブーム、数学ブームというどこに来てるのか分からない言葉のおかげで、物理や数学分野には一般向けの読み物が増えた。担当していなければ、コーナーに立ち寄ることがなければ目にすることがなかったはずの本を、手に取る機会を得ることができた。
 それが読み物であれば、ミステリでも青春小説でもないものであっても、自分は楽しむことができると知った。なかなかに大きな喜びだった。
 
 そこで本書である。
 ポアンカレ予想については、NHKスペシャルでも放送されたし、関連する書籍もいくつか出版された。それらと本書の決定的な違いは、ポアンカレ予想についての解説ではないというところに尽きる。難解な数式は一つも出て来ない。数学用語についての詳細な解説もない。この作品は、あくまでグレゴリ・ペレルマンという数学者についての記述であり、ポアンカレ予想は彼の数学人生において通るべくして通った通過点なのだ。
 何かを研究する人にとって、ただひたすらに自らに課した問題に没頭できることは、何よりの望みであるだろう。しかし世の中はそうはいかない。生活をしなければならない、生活を維持するには外の世界とも折り合わなければならない。だから、そうはいかないとどこかで諦めている。
 しかしペレルマンは違う。数学の問題を解く以外に大切なことなど何もないと思っているし、そのために必要なことについては黙々とこなしていく。ただし、不要だと判断したことには一切関わらない。彼にとってそれは当然のことであり、誰もが共有すべき認識であったのだ。
 彼にとっての世界は数学と共にあるものであった。彼は数学のために全てを費やし、数学は彼の行いに報いてくれると信じていた。1970〜80年代のソ連にあって、ユダヤ人でありながら学問を究めていくことがどれだけ困難であろうとも、ペレルマンには問題ではなかった。彼には解くべき問題があり、その力を持っていたからだ。彼は才能を活かし続け、さらに磨き上げる努力も怠らなかった。数学のためにできることは何でもやった。そんな彼に、世界が環境を整えるのは当然のことだったのだ。
 実際、状況は彼の思うとおりになる。それは彼の才能を見出した数々の協力者あってのものだ。時代、境遇、出会う人々、全てが彼に味方した。天の配剤――才能と言うのは決して個として独立しているのではなく、進むべき道を舗装してもらうことも含めたものなのだろう。
 
 ペレルマンは、天才であり続け、とにかく真摯であり続けた。しかしその真摯さは、数学と自ら定めたルールにのみ向けられた。
 数学界のパワーバランスも、数学者としての野心やプライドも、彼には何の興味もなかった。数学者は誰であれ、数学に貢献するべきであり、問題が解かれたという事実以上の副産物などありはしないと考えていたのだ。
 彼は数々の難問を解決した。しかし、それに対しての副賞を受け取ろうとはしなかった。数学界のノーベル賞であるフィールズ賞も、ミレニアム問題解明の賞金も、地位も名誉も何もかも、彼は受け取ることを拒否したのだ。
 
 なぜ彼がそうした行動に出たのか。本書はそれについて推理するわけでも、結論を出すわけでもなく、ただ周辺の人々の声を集めて、それを整理することに終始している。その客観性に満ちた手法によって、ペレルマンという人物の輪郭が見えてくる。
 印象的なインタビューから引いてみる――「彼の一番奇妙なところは、道徳的に正しい振る舞いをすることなのさ。彼の従う理想は、科学が暗黙のうちに受け入れている理想だよ」
 理想は目指すべきものであって、決して現実にはなり得ないし、体現することもできない。それゆえに理想なのだ。それを真に示そうとするならば、どこかで現実世界との間に不和が生じてしまう。
 ただ問題を解くために存在する。そのためにすべきことを、すべきことだけをする。
 学究者であれば誰もが抱く理想だろう。しかしそれは外から要求される雑事や、内から沸き起こる煩悩によって阻害される。全てを削ぎ落とすことなどできない。
 ただ独り、ペレルマンを除いて。
 しかしその真摯さ、そして純粋さゆえに、彼は絶望したのだ――と思う。断ずることはできない。あくまでも僕の所感だ。数学は、そして世界は、あるべき姿でいる人間に報いてはくれないのだ――彼はそう悟ってしまったのではないだろうか。
 それは、通常の世界に生きる人間にとっては自明のことだ。世の中、うまくいかないことばかり――自嘲気味につぶやくことで、僕たちはどうにか生きている。諦めは世界との折り合いだ。そうしなければ生きてはいけない。だが、ペレルマンにとって、そうまでして生きる意味がこの世界にあったとは思えない。
 数学と純粋な世界にこそ、彼の呼吸すべき酸素は存在していたのだから。
 
 
 
 ペレルマンについても、ポアンカレ予想についても全て理解はしていない。
 それでも、その存在を知ることができたことに感謝する。読んだ、知った。そのことに何よりの価値を感じることができた。

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