|
缶コーヒーを机に置いて、時計に目をやる。すでにミーティング開始予定時刻の10時を回っている。吉岡はため息をつきながらボックスに備え付けの電話を見つめた。
遅刻するならするで連絡の1つもして来たらええのに……
サークルのボックスには同学年の仲間たち――吉岡を含めて――8人が揃っている。ここまできちんとそろうのは珍しいのに、いつも中心になって進めてくれる真田がいないと話にならない。そもそも一昨日のミーティングの時に、人数が少ないから今日仕切り直しをしようと言い出したのはあいつだ。学園祭を目前に控えたこの時期、先輩達に催促されている当日のタイムテーブル作成を筆頭に、話し合うことは山ほどある。今日だって、このミーティングの後には模擬店の場所決めの抽選会があるのだ。そこには真田と吉岡が行くことになっている。
「吉岡ぁ、真田どうかしたんか?」
西村の能天気な声が癇に障る。それでなくても数日前から1つ下の彼女とケンカ中で、あまり機嫌がよくないというのに。こういうときに、一番イヤなタイミング、絶妙な――もちろん、悪い方に――声のトーンで神経を逆なでしてくれるのが西村だ。悪い奴ではないのだが、テンションの低い時にはあまり近くにいたい相手ではない。
とはいえ、とりあえず手のつけられるところからでもやってしまわないと時間が惜しい。吉岡は缶の中にあるコーヒーの残量を確かめてから、軽く喉を湿らす程度に口に含む。そして「ま、始めるか」とみんなに声をかけた。
そこで電話が鳴った。真田からだ。思うより早く受話器を取り上げる。
「お前、何やってんねん? とっくに10時過ぎてるぞ」
不機嫌そうな真田の一言で、世界は逆転した。
吉岡は全身に寒気が走るのを感じ、そこでようやく自分がベッドの中にいることを知った。
――夢? どっちが?
「おい、聞いてんのか? まさか寝てたんちゃうやろな?」
着ている服の感じは、ジーンズにシャツではなく部屋着にしているスエット。手にした受話器はサークルのものではなく、自分の携帯。どうやら、布団の中に転がっている自分が現実の姿らしい。
「……悪い、その、まさか、や」
言い訳をしても仕方がない。そう言った声は隠しようがないほどいがらっぽく、寝起きであることをこの上なく伝えているだろう。汗をかいた手で握った受話器の向こうに沈黙が広がる。通話口の小さな穴から、不愉快そうな雰囲気が漂ってきた。
「――まあええわ、まだ来てへん奴もいるから……10時半には来れるな?」
結局、着いたのは10時45分。すでに全員が揃っていた。
「時間厳守で頼むで」
入るなり、西村がイヤミったらしく笑った。こんな所が夢の通りである必要はないのだが。
「悪かったよ」
当然、腹は立ったが、反論できるほど図々しくもない。それだけ言うのが精一杯だった。夢の中では手元にあった、お気に入りの缶コーヒーを買う余裕もなかった。
電話が切られた瞬間、洗面台へと走ろうとした。計算では、洗顔に5分。着替えに2分。自転車を飛ばして大学まで10分。間違いなく10時半にはボックスのドアを開くことができるはずだった。ベッドから下りたその一歩目で、転がっていた携帯電話を踏みつけるまでは。
派手な音を残してベッドの下へと滑っていったバッテリーパックを拾い上げてタイムロス。本体に付けてみてもなかなか電源が入らずタイムロス。めったに連絡などないゼミの友人からの誘いを断るためにタイムロス。焦ってテーブルの脚に小指をぶつけてタイムロス。タイムロスにイライラしている内にさらにタイムロス。家を出るときには、すでに到着予定時間を過ぎてしまっていた。
サークルに入って2年半。初めて遅刻をしたミーティングは、それでも普段どおりに無難に終わった。できあがったタイムテーブルは、全員の担当や時間配分が均等に決められ、誰の目から見ても平等なかたちになった。去年、まともなタイムテーブルを作ることが出来ずに最後まで右往左往していた先輩たちとは大きな違いだ。その他、いくつか上がっていた案件についても、結論を出すにしろ、保留にするにしろ、要領よくさばくことができた。吉岡たちの学年のいつもの姿だ。
「ま、こんなとこやろな。じゃあ午後から俺と吉岡で場所の抽選行ってくるから、宣伝の巡回ルートはまた今度、決めることにしようか」
真田がミーティングを締めくくり、次の日程が決まった。2日後。時間は10時。吉岡は手帳にしっかりとメモをとり、8時に最大音量でアラームを鳴らすように携帯のスケジュールに登録した。
軽い昼食の後、抽選会場へ向かう。荷物を取りにボックスに寄ると、1つ下の学年がミーティングを始めようとしていた。
「お疲れさん」
「お疲れ様です。これから抽選ですか?」
「そうやで。真田先輩がステキな場所を引き当ててくれるから楽しみにしといてな」
「俺だけのせいにする気か」
軽口を叩きながら荷物を手にしたとき、ケンカ中の彼女と目が合った。笑いかけようとした瞬間、視線をそらされる。
「吉岡さん、俺たちこの後カラオケに行くつもりなんですけど、一緒にどうですか? あ、真田さんも」
後輩の1人が誘ってくれたが、そんな気分にはなれなかった。
「きっかけはなんやった?」
「……忘れた」
抽選は真田が1番人気の区画にあるブースを引き当てた。しかも一番最初に。正門を入ってすぐのイベント広場の前、日当たりも人の集まりも最高の区画。その中の1つが早々に埋まってしまったため、真田が抽選箱から離れる時には会場中がどよめいていた。
「今の俺には、引き当てるのは無理やろなあ……」
そんなことを思いながら、ブースの番号を書き写した。
もはやきっかけすら忘れてしまった彼女とのケンカや、今日の遅刻もそうだが、とにかく最近、毎日がうまく回ってくれないような気がする。学園祭でのサークルの運命を決める大事な抽選など、もっての外だ。
「きっかけを忘れてしまうと、仲直りもなかなか難しいな」
鉄板の余熱でジュウジュウと旨そうな音を立てるお好み焼きを、鉄ベラで器用に切りながら真田は言う。ピザのように扇に切り分けるのではなく、縦横に切っていくのが関西風――らしい。
「こんなとこで豚玉ソバ入り食べてるより、デートでもしたら?」
「誘っても来てくれるかどうか微妙やな」
「深刻やなあ」
目の前のお好み焼きからはみ出たソバをいたずらに箸でつつきながら、吉岡は首を大きく左右に曲げる。肩が重いような気がするのだ。
「なんか、あかんな……」
「バイオリズムが低下してる?」
「そんな感じかな。いいことが全然ない」
「いいことねえ……」
呟いて、真田は小さく切った一切れをヘラに乗せたまま口に運ぶ。じっくりと咀嚼して口の中を空にしてから、今度はそのヘラを吉岡に向けた。
「『いいこと』ってなに?」
「……分からへん。なんやろ、でも分からへんから起こってほしいと思うんじゃないの?」
「それやったら、焦っても仕方がない」
「それは、そうかも知れんけど……」
「そんなに悪い毎日か?」
「どう思う?」
そこで吉岡はようやくお好み焼きに手をつけた。箸で強引にちぎり、豚肉や焼きソバをまとめてほお張る。冷め始めたそれは、すんなりと喉を通っていったが、あまりおいしくはない。真田の方は、すでに3分の2を食べ終えている。
店の奥にあるテレビから楽しそうな笑い声が聞こえる。続いて、それを見ていた二人連れの中年女性も笑い始め、どこがおもしろかったかを互いに説明し合っている。さらにそれを見た真田が口の端で少しだけ笑った。
「最近、笑ってないような気もするし……」
「考えすぎやな」
即答されると、そうなのかとも思う。反面で自分の感覚にこだわりたくもなる。ましてお好み焼きを口にほお張りながら言われるとなおさらだ。
「そうかなあ……」
「あいつらとカラオケ行ったら良かったな」
「そんな気分やないって。あの子も来るやろうし」
その言葉を聞いた真田の語気が少しだけ荒くなる。
「あのなあ、お前どうしたいねん?」
吉岡は驚いて豚肉を拾おうとしていた箸を止めた。
「………?」
「いいことが起こってほしいけど、楽しそうなとこには背を向ける。笑いたいけど、彼女とは会いたくない。結局どうしたいねん?」
「別に背を向けたりは……」
「なら、なんで行かんかってん」
「やからそういう気分やないから……」
「せっかく楽しそうなことに誘ってくれてんのに、気分やないも何もあるか。お前なんか誘ってもらえるだけええやんか。俺なんか『あ、真田さんも一緒に』やぞ。『あ』ってなんや。俺はおまけかっちゅうねん」
勢いよく残りのお好み焼きをかき込みながら言い募る。ミックスに入っていたゲソが、口に入りきらずに鉄板に落ちて転がった。
「それに、ケンカできる彼女だっておる。今日のミーティングやって、司会は俺やったかも知れんけど、進行はお前や。みんな賢いから回すのもおもろいやん。ゼミの連中に聞いても、あれだけスパスパ話がまとまるのも珍しいぞ」
「まあ、確かに……」
「せやろ?」
転がったゲソをなぜかヘラでスパッと両断して、真田は言う。
「何が、不満や? 俺は、お前と一緒で、楽しいぞ」
面と向かって、しかもこれほど一言一言丁寧に言われると、照れる。しかし、それは吉岡にしても同感だった。真田のおかげでこの2年半、充実した毎日が送れている。
「楽しすぎてマヒしてるんやったら、ぜいたくやぞ。波はあるかも知れん。でも、ちょっとの引き潮で諦めたら、そこで終わりやで」
帰り道は少し肌寒かったが、アイスが食べたくなってコンビニに寄った。徒歩の真田に付き合ってお好み焼きを食べに行っていたら、学校の駐輪場が閉まっていたので、ダラダラと歩きながら袋を開ける。真田に言われたことと一緒に、キンと頭まで届く冷たさをかみしめた。
今朝の悶着からどうにか生還した携帯電話を取り出して、電話帳を検索する。彼女の番号を表示させてみるが、とりあえずメールで様子をうかがうことにした。多分今頃は同級生たちとカラオケで盛り上がっているはずだ。だとすると、自宅生の彼女は家に帰ることが出来なくなるかもしれない。ひとまずは、今夜どうするのかを確認してみる。いつも通り、当たり前のことを、当たり前になぞってみることにした。
メールを打ちながら食べていたアイスの棒が姿を見せ始めた。食べ終えたばかりの辺りに『あ』の文字。少し急いで食べると、想像したとおりに『あたり』と書いてある。
しばらくその棒を眺めた後、打ちかけのメールを一旦保存して、真田に電話した。
「どした? 仲直りできたか」
さっきとは打って変わって平和そうな声がする。
「あ〜……」
何となく電話をしてしまったが、するほどのことでもなかったことに気付く。
「なんやねん?」
「いや、アイスが当たった」
しばし沈黙。真田の呆れ顔が目に浮かんだ。
「……そっか、よかったな」
「ああ、よかった」
「彼女さんにも教えてやりや」
「ああ、そうする」
電話を切るとすぐ、さっき保存した作りかけのメールを消して、彼女にかけた。
――要するに、こういうことか。
納得したら、あくびが出た。
涙を拭いていたら、彼女のすねたような声が聞こえてきた。
(タイトル/BUMP OF CHIKEN『ギルド』より)
|