司書室−その他

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 缶コーヒーを机に置いて、時計に目をやる。すでにミーティング開始予定時刻の10時を回っている。吉岡はため息をつきながらボックスに備え付けの電話を見つめた。
 遅刻するならするで連絡の1つもして来たらええのに……
 サークルのボックスには同学年の仲間たち――吉岡を含めて――8人が揃っている。ここまできちんとそろうのは珍しいのに、いつも中心になって進めてくれる真田がいないと話にならない。そもそも一昨日のミーティングの時に、人数が少ないから今日仕切り直しをしようと言い出したのはあいつだ。学園祭を目前に控えたこの時期、先輩達に催促されている当日のタイムテーブル作成を筆頭に、話し合うことは山ほどある。今日だって、このミーティングの後には模擬店の場所決めの抽選会があるのだ。そこには真田と吉岡が行くことになっている。
「吉岡ぁ、真田どうかしたんか?」
 西村の能天気な声が癇に障る。それでなくても数日前から1つ下の彼女とケンカ中で、あまり機嫌がよくないというのに。こういうときに、一番イヤなタイミング、絶妙な――もちろん、悪い方に――声のトーンで神経を逆なでしてくれるのが西村だ。悪い奴ではないのだが、テンションの低い時にはあまり近くにいたい相手ではない。
 とはいえ、とりあえず手のつけられるところからでもやってしまわないと時間が惜しい。吉岡は缶の中にあるコーヒーの残量を確かめてから、軽く喉を湿らす程度に口に含む。そして「ま、始めるか」とみんなに声をかけた。
 そこで電話が鳴った。真田からだ。思うより早く受話器を取り上げる。

「お前、何やってんねん? とっくに10時過ぎてるぞ」
 不機嫌そうな真田の一言で、世界は逆転した。

 吉岡は全身に寒気が走るのを感じ、そこでようやく自分がベッドの中にいることを知った。
 ――夢? どっちが?
「おい、聞いてんのか? まさか寝てたんちゃうやろな?」
 着ている服の感じは、ジーンズにシャツではなく部屋着にしているスエット。手にした受話器はサークルのものではなく、自分の携帯。どうやら、布団の中に転がっている自分が現実の姿らしい。
「……悪い、その、まさか、や」
 言い訳をしても仕方がない。そう言った声は隠しようがないほどいがらっぽく、寝起きであることをこの上なく伝えているだろう。汗をかいた手で握った受話器の向こうに沈黙が広がる。通話口の小さな穴から、不愉快そうな雰囲気が漂ってきた。
「――まあええわ、まだ来てへん奴もいるから……10時半には来れるな?」

 結局、着いたのは10時45分。すでに全員が揃っていた。
「時間厳守で頼むで」
 入るなり、西村がイヤミったらしく笑った。こんな所が夢の通りである必要はないのだが。
「悪かったよ」
 当然、腹は立ったが、反論できるほど図々しくもない。それだけ言うのが精一杯だった。夢の中では手元にあった、お気に入りの缶コーヒーを買う余裕もなかった。
 電話が切られた瞬間、洗面台へと走ろうとした。計算では、洗顔に5分。着替えに2分。自転車を飛ばして大学まで10分。間違いなく10時半にはボックスのドアを開くことができるはずだった。ベッドから下りたその一歩目で、転がっていた携帯電話を踏みつけるまでは。
 派手な音を残してベッドの下へと滑っていったバッテリーパックを拾い上げてタイムロス。本体に付けてみてもなかなか電源が入らずタイムロス。めったに連絡などないゼミの友人からの誘いを断るためにタイムロス。焦ってテーブルの脚に小指をぶつけてタイムロス。タイムロスにイライラしている内にさらにタイムロス。家を出るときには、すでに到着予定時間を過ぎてしまっていた。
 サークルに入って2年半。初めて遅刻をしたミーティングは、それでも普段どおりに無難に終わった。できあがったタイムテーブルは、全員の担当や時間配分が均等に決められ、誰の目から見ても平等なかたちになった。去年、まともなタイムテーブルを作ることが出来ずに最後まで右往左往していた先輩たちとは大きな違いだ。その他、いくつか上がっていた案件についても、結論を出すにしろ、保留にするにしろ、要領よくさばくことができた。吉岡たちの学年のいつもの姿だ。
「ま、こんなとこやろな。じゃあ午後から俺と吉岡で場所の抽選行ってくるから、宣伝の巡回ルートはまた今度、決めることにしようか」
 真田がミーティングを締めくくり、次の日程が決まった。2日後。時間は10時。吉岡は手帳にしっかりとメモをとり、8時に最大音量でアラームを鳴らすように携帯のスケジュールに登録した。

 軽い昼食の後、抽選会場へ向かう。荷物を取りにボックスに寄ると、1つ下の学年がミーティングを始めようとしていた。
「お疲れさん」
「お疲れ様です。これから抽選ですか?」
「そうやで。真田先輩がステキな場所を引き当ててくれるから楽しみにしといてな」
「俺だけのせいにする気か」
 軽口を叩きながら荷物を手にしたとき、ケンカ中の彼女と目が合った。笑いかけようとした瞬間、視線をそらされる。
「吉岡さん、俺たちこの後カラオケに行くつもりなんですけど、一緒にどうですか? あ、真田さんも」
 後輩の1人が誘ってくれたが、そんな気分にはなれなかった。

「きっかけはなんやった?」
「……忘れた」
 抽選は真田が1番人気の区画にあるブースを引き当てた。しかも一番最初に。正門を入ってすぐのイベント広場の前、日当たりも人の集まりも最高の区画。その中の1つが早々に埋まってしまったため、真田が抽選箱から離れる時には会場中がどよめいていた。
「今の俺には、引き当てるのは無理やろなあ……」
 そんなことを思いながら、ブースの番号を書き写した。
 もはやきっかけすら忘れてしまった彼女とのケンカや、今日の遅刻もそうだが、とにかく最近、毎日がうまく回ってくれないような気がする。学園祭でのサークルの運命を決める大事な抽選など、もっての外だ。
「きっかけを忘れてしまうと、仲直りもなかなか難しいな」
 鉄板の余熱でジュウジュウと旨そうな音を立てるお好み焼きを、鉄ベラで器用に切りながら真田は言う。ピザのように扇に切り分けるのではなく、縦横に切っていくのが関西風――らしい。
「こんなとこで豚玉ソバ入り食べてるより、デートでもしたら?」
「誘っても来てくれるかどうか微妙やな」
「深刻やなあ」
 目の前のお好み焼きからはみ出たソバをいたずらに箸でつつきながら、吉岡は首を大きく左右に曲げる。肩が重いような気がするのだ。
「なんか、あかんな……」
「バイオリズムが低下してる?」
「そんな感じかな。いいことが全然ない」
「いいことねえ……」
 呟いて、真田は小さく切った一切れをヘラに乗せたまま口に運ぶ。じっくりと咀嚼して口の中を空にしてから、今度はそのヘラを吉岡に向けた。
「『いいこと』ってなに?」
「……分からへん。なんやろ、でも分からへんから起こってほしいと思うんじゃないの?」
「それやったら、焦っても仕方がない」
「それは、そうかも知れんけど……」
「そんなに悪い毎日か?」
「どう思う?」
 そこで吉岡はようやくお好み焼きに手をつけた。箸で強引にちぎり、豚肉や焼きソバをまとめてほお張る。冷め始めたそれは、すんなりと喉を通っていったが、あまりおいしくはない。真田の方は、すでに3分の2を食べ終えている。
 店の奥にあるテレビから楽しそうな笑い声が聞こえる。続いて、それを見ていた二人連れの中年女性も笑い始め、どこがおもしろかったかを互いに説明し合っている。さらにそれを見た真田が口の端で少しだけ笑った。
「最近、笑ってないような気もするし……」
「考えすぎやな」
 即答されると、そうなのかとも思う。反面で自分の感覚にこだわりたくもなる。ましてお好み焼きを口にほお張りながら言われるとなおさらだ。
「そうかなあ……」
「あいつらとカラオケ行ったら良かったな」
「そんな気分やないって。あの子も来るやろうし」
 その言葉を聞いた真田の語気が少しだけ荒くなる。
「あのなあ、お前どうしたいねん?」
 吉岡は驚いて豚肉を拾おうとしていた箸を止めた。
「………?」
「いいことが起こってほしいけど、楽しそうなとこには背を向ける。笑いたいけど、彼女とは会いたくない。結局どうしたいねん?」
「別に背を向けたりは……」
「なら、なんで行かんかってん」
「やからそういう気分やないから……」
「せっかく楽しそうなことに誘ってくれてんのに、気分やないも何もあるか。お前なんか誘ってもらえるだけええやんか。俺なんか『あ、真田さんも一緒に』やぞ。『あ』ってなんや。俺はおまけかっちゅうねん」
 勢いよく残りのお好み焼きをかき込みながら言い募る。ミックスに入っていたゲソが、口に入りきらずに鉄板に落ちて転がった。
「それに、ケンカできる彼女だっておる。今日のミーティングやって、司会は俺やったかも知れんけど、進行はお前や。みんな賢いから回すのもおもろいやん。ゼミの連中に聞いても、あれだけスパスパ話がまとまるのも珍しいぞ」
「まあ、確かに……」
「せやろ?」
 転がったゲソをなぜかヘラでスパッと両断して、真田は言う。
「何が、不満や? 俺は、お前と一緒で、楽しいぞ」
 面と向かって、しかもこれほど一言一言丁寧に言われると、照れる。しかし、それは吉岡にしても同感だった。真田のおかげでこの2年半、充実した毎日が送れている。
「楽しすぎてマヒしてるんやったら、ぜいたくやぞ。波はあるかも知れん。でも、ちょっとの引き潮で諦めたら、そこで終わりやで」

 帰り道は少し肌寒かったが、アイスが食べたくなってコンビニに寄った。徒歩の真田に付き合ってお好み焼きを食べに行っていたら、学校の駐輪場が閉まっていたので、ダラダラと歩きながら袋を開ける。真田に言われたことと一緒に、キンと頭まで届く冷たさをかみしめた。
 今朝の悶着からどうにか生還した携帯電話を取り出して、電話帳を検索する。彼女の番号を表示させてみるが、とりあえずメールで様子をうかがうことにした。多分今頃は同級生たちとカラオケで盛り上がっているはずだ。だとすると、自宅生の彼女は家に帰ることが出来なくなるかもしれない。ひとまずは、今夜どうするのかを確認してみる。いつも通り、当たり前のことを、当たり前になぞってみることにした。
 メールを打ちながら食べていたアイスの棒が姿を見せ始めた。食べ終えたばかりの辺りに『あ』の文字。少し急いで食べると、想像したとおりに『あたり』と書いてある。
 しばらくその棒を眺めた後、打ちかけのメールを一旦保存して、真田に電話した。
「どした? 仲直りできたか」
 さっきとは打って変わって平和そうな声がする。
「あ〜……」
 何となく電話をしてしまったが、するほどのことでもなかったことに気付く。
「なんやねん?」
「いや、アイスが当たった」
 しばし沈黙。真田の呆れ顔が目に浮かんだ。
「……そっか、よかったな」
「ああ、よかった」
「彼女さんにも教えてやりや」
「ああ、そうする」
 電話を切るとすぐ、さっき保存した作りかけのメールを消して、彼女にかけた。

 ――要するに、こういうことか。

 納得したら、あくびが出た。
 涙を拭いていたら、彼女のすねたような声が聞こえてきた。

                  (タイトル/BUMP OF CHIKEN『ギルド』より)

 2008年が終わり、年が改まる夜――とはいえ、元日は7時から仕事なのでゆったりとはしていられない。
 平和な深夜番組でも観て、ぼんやりと時間を浪費するという贅沢は、今年は授けられなかった。

 大晦日は寒い一日になった。思い出したような冬。
 昨日、一昨日の年末へと向かう人たちを包む空気は、この時期にしてはとても曖昧で、冷めてしまったお風呂に熱いお湯を注ぎ込んだときのような、寒いとも暖かいとも言えないふんわりとしたものだった。あれは年末気分で浮き立つ人たちの息吹のぬくもりだったのだろうか、だとしたら今日も浮かれていてくれればよかったのに。

 スーパーには慌しく買い物をする人が多く、電気屋では消耗品を買い込む人が行き交い、レンタルビデオ屋にも年末の共を吟味する人があふれ、それでも一歩大通りを離れて住宅街に入ると、妙に静かな冬の夜で吐く息だけが白く揺れていて。

 紅白ではミスチルが『gift』を歌い、某新聞社ではダウンタウンが笑いを堪え、さまぁ〜ずの与えるプレッシャーに芸能人が一喜一憂し、僕はテレビの前でコーヒーを飲む。

 早く寝なければいけない。
 だけどもう少し、このゆるやかな夜にしがみついていたい。一年の最後の日という特別な日。単なる365分の1であることには薄々気づいていて、ただ特別だと思いたいだけだということも分かっていて。
 今年を振り返るわけでもなく、とりとめのないメールをしたり、明日の準備をしたりする。
 ただこうして、久しぶりにブログを更新している。それによって特別な夜であることを確認する。

 それなりに色々なことがあった一年だったと思う。取りとめもなく脳裏をよぎる断片はまとまることもなく、加湿器の吐き出す蒸気の中に溶けていく。

 コーヒーの味は今夜も変わらない。
 来年もどうか、穏やかな一年でありますように。
 そしてお世話になった皆様の迎える新たな一年が、思い描くイメージに近い素敵な毎日でありますように。
 心からの願いを込めて――



 ――年越しそばのためのお湯を沸かそう。

 醒めきらない意識の中に小気味いい音が滑り込んでくる。不規則なリズムの破裂音だ。いつかどこかで聞いた気がして、まどろみながら記憶を探る。
 膨らむ銀紙。
 弱火のコンロ。
 小刻みに揺れる右手。
 断片的な記憶を並べ替えながら、僕は再び眠っていた。

 夢の中で食べたポップコーンは、微かに湿っていた。

 休日の朝寝は、僕に二つのことをもたらしてくれた。
 一つは、夢に見るほどポップコーンが好きだっただろうか、という大きな疑問。
 もう一つは、起床時間十一時という絶望感。
 休日は早起きをして少しでも一日を長く感じていたいと思う人間にとって、昼近くまで寝てしまうことほど恐ろしいことはない。学生時代ならば、こんな日はなかったことにして一日中何もしないで過ごしてしまったものだけど、そんな素晴らしき日々も今は昔のことだ。
「さて、どうするかな」
 ひとまずはコーヒーを飲んで手元に残った半日のプログラムを考える。深層心理におけるポップコーンの存在について考えてみるのも一興のように思えたが、現実的に考えた結果、普段は後回しにしていた細々とした買い物をすませてしまうことにした。冬物衣類を入れるカラーボックス、自転車の空気入れ、洗濯カゴなどなど、思いつくままに頭の中に羅列しながら朝の用意と着替えをすませ、帽子を頭に乗せて玄関を開けた。
 空の表情は晴れ、所により曇り。陽射しは強め。部屋から眺めていた限りだと、ジリジリと暑いものだと思っていた外の空気は、思いのほか冷んやりとしていた。辺りにはたくさんの水たまりができていて、どうやら寝ている間に随分と雨が降ったらしい。
 駐車場の車にかけてあるカバーにたまった雨水が陽光を反射させ、通り過ぎようとした僕の目を射した。
 その光の向こうに僕の部屋がある――これは特に何かの比喩ではなく、部屋が一階にあるというだけだ。
 今は光を放っているこのカバー、激しい雨の時には盛大な音色を聞かせてくれる。夢を見ていたくらいだから、それほど熟睡していたわけでもなかったと思うのだが、今回は気が付かなかった。
 まぶしさに細めていた目を開き、雨で洗われて輪郭を取り戻した風景を眺める。大きく深呼吸して、強し日差しに飲み込まれそうになっている最後の冷涼な空気を吸い込んだ。かすかに雨の香りが残っている。
 そして予定変更。こんな気持ちのいい日に、いつになってもかまわない買い物をするのはもったいない。
 こんな澄んだ気分の時には、やはりあそこに行きたくなる。

 それは、いつからか僕の生活に欠かすことのできなくなった、あるお店。
 そこは、お酒とクラシックの似合う店で、カティブックセンターという書店――本を売る店――だ。
 日本語で書かれた文章に精通している人たちに断っておくと、この文脈に狂いはない。先述した一文の中にあったはずのいくつかの文言を誤ってデリートしてしまったという、文明の利器の落とし穴的ミスは発生していない。
 同時に、ミステリに精通した人たちに断っておくと、だからといってこの不可解な文章が何かの伏線になっているということもない。
 結論。僕がこれから向かうのはそういう書店だということだ。



 雨上がりの道を歩く。
 太陽が雲に隠れるときに吹く冷たい風を楽しんだり、雨どいから垂れる雫が奏でる不規則なリズムに聴き入ったり、アイスが食べたいと思いついたりしながら、速くなったり遅くなったりする足に身を委ねる。時折見上げる空には、徐々に雲が多くなってきている。どうやら晴れ間はほんの気まぐれだったらしい。
 ほんのわずかに残っていた陽光まで薄い雲の向こうに隠れてしまった頃に差し掛かった、線路沿いの小道。無垢の扉を懐に抱いて、その店は建っている。ガラス越しにうかがう店内に先客はいないらしい。
 細く高くきしみ声を上げる扉を開いて店内に入る。
「いらっしゃいませ」
 よく通る落ち着いた声がカウンターの向こうから届けられた。声の主は柔らかな笑みをたたえた女性。今日も黒を基調とした服に身を包んでいる。彼女こそが、店主のカティさんだ。乱丁・落丁の多い僕の頭の中の辞書だが、《シック》という言葉に挿絵として彼女のイラストが載っていることは数少ない自慢の一つだ。
 静かに流れるピアノの旋律。他のどの書店でも、インターネットでさえ見つけることのできない本が並ぶ書架。かすかに漂うインクの香りの中で、ほっと一息をつく。初めて来たときは独特の雰囲気に緊張したものだが、今となっては自分の部屋の次に落ち着きを感じる場所になった。そもそも、どうしてこの店に入ろうと思ったのか、今となってはまったく思い出せない。ただ、ふと見かけたあの瞬間に、吸い寄せられるように扉を開けていたのだ。
 きしみを上げてすんなりとは開かない扉に、最初は入店を拒まれているのかと思った。どうやら本当に本を愛する人以外には、あの扉は決して開くことはできないらしい。きしむのはまだまだ愛が足りていないからで、するりと開く人はもちろん、中には素晴らしい調べを残して入店する人までいるらしい。
 ――嘘だ。どんな扉だ。
 いや、扉がきしむことは本当だが、誰にでも平等に扉は開かれる。辛辣に「本」という存在について語る人、笑顔で大学を経営する人、古書と下ネタに人生を賭ける人、猫と暮らしミステリを愛でる人、お酒を愛する人、音楽を愛する人……どんな人でもだ。そして開いたが最後、きっとこの店の虜になる。これは揺らぐことのない真実だ。
 取り留めのないことを考えながら、背表紙を眺めて歩く。
 気になるタイトルに立ち止まりページをめくっていると、流れるメロディの中に紙の上に砂をまくようなノイズを感じた。ガラスの向こうの歩行者が、頭の上に手をかざして足早に駆けている。どうやら、再び雨が降り出したらしい。
 空と地面をつなぐ糸を見つめていると、声がかけられた。
「雨はお好きですか?」
 何となく照れくさくなり、伏し目がちにカウンターに視線を送って答える。
「ええ、変ですか?」
「正直に言うと、私はあまり好きではないですから」
 苦笑するカティさんにつられて、僕は笑う。
「例えば、砂場に……」
 照れくささから、特に考えもなく話し始めてしまった。思わず早口になってしまったので、一度咳払いをして立て直す。そんな僕の様子をカティさんはゆったりと見ている。
「起伏をつけた砂場に水をかけたら、砂山は流されて窪みを埋めますよね。高いところも低いところもなくなって、フラットになる」
「そうですね」
 僕が妙に慌てていたからだろうか、カティさんは困惑する様子もなく応じてくれた。自他の焦りは反比例する――世界の真理だ。
「雨が降ると、僕の中でも同じようなことが起こっているらしくて、気分が落ち着くような気がするんです」
「それで、優しい目をしておられたんですね」
 優しく言われ、さらに照れくさくなる。慌てて外した視線を声が追いかけてきた。
「雨は好きではありませんが、雨音はいいと思います」
「音、ですか」
「小雨だと無音よりも静かに聞こえるし、落ちかかるものによって色々な音色を奏でる大雨の豪華さはフルオーケストラにも負けないと思いません?」
「なるほど、そうかも知れません」
「そういえば今朝の雨も、気の早い夕立のようですごかったですね」
「そうだったんですか」
「あら、気付かれませんでした? 短い時間でしたけど、盛大な演奏でしたよ」
「多分、寝ていたんだと……」
 瞬間、家を出る前後のことが頭を駆け巡った。
 ――そうか。
「どうか、されましたか?」
 急に動きを止めた僕を、カティさんが心配そうに見ている。僕は帽子をかぶり直して言う。
「いえ。そのときはポップコーンをコンロにかけていたんですよ」
「ポップコーン……ですか? コンロに? 銀紙に入っているあれですか?」
 カティさんから矢継ぎ早に疑問がこぼれる。僕はそれを余裕を持って受け止める。自他の焦りは、以下省略。
「ええ。もっとも、銀は銀だけど少し違うんですけどね」
「はあ……?」
 ポカンとしていたカティさんだったが、やがて笑いをこらえている僕を上目遣いににらみ、
「ひょっとして私、意地悪をされていますか?」
 と、むくれて見せた。僕は笑いを押し込み、素直に謝る。
「ごめんなさい、そういうわけではないです。ただ、寝ぼけて間抜けな夢を見たんですよ」
「ポップコーンの、ですか?」
「ええ。僕の部屋は一階にあるんですけど、窓のすぐ下が駐車場なんです。そこにはいつも銀色のカバーのかかった車が停めてあるんです」
 たったこれだけの説明だったが彼女には十分だったらしく、寄せられていた眉根が明るく開いた。
「あ、分かりました。そこに、雨、ですね」
「そうです。カバーが雨を弾く音が不規則な破裂音に聞こえたんでしょうね。目覚めかけた僕は、その音に夢の中で説明を付けたんだと思います」
「言われてみれば、似ている気はしますが」
「あまり洗練された夢とは思えませんね。ちなみにそのポップコーンは……」
「ひょっとして、湿っていたんですか?」
 再び笑顔が交わされ、先ほどよりも大きくなった雨の調べが沈黙を埋める。まだポップコーンができあがるほどの勢いではないようだ。
 僕は、手に持っていた本を棚に戻した。
「今日は、帰りますね」
「よろしいのですか?」
「歩いて来ているので、本をこの雨の中に連れ出すのはかわいそうで」
「あら、では私は雨の日にはお店を閉めなければいけませんね」
「え?」
「雨なのに本たちを外に追い出そうとする私は、ひどい女ですね」
 寂しそうにうつむいてしまった。僕は早口に謝る。
「いや、そんなつもりはなかったんです。すみません」
 くすり。弁解しようとする僕の様子を見て、カティさんは楽しそうに笑った。
「さっきのお返しです」
「なるほど。甘んじて頂戴します」
 僕は帽子を取って頭を下げた。さすがに胸元に捧げもって腰を折ることまではしなかったが、気分的にはそれくらいの最敬礼だ。
 扉に向かう僕をカティさんは引き留め、わざわざ傘を貸してくれた。
「本当に今日はお店を閉めて、散歩について行こうかしら」
 外の雨を眺めながら、カティさんがつぶやく。しかし、あることに気付いた僕は言う。
「今日は駄目ですよ」
「あら、ご迷惑ですか?」
「いいえ」僕は首を横に振って、「だって、ほら」外を指差した。
 カティさんは目を凝らし、続いて雨音の中から別の響きを拾うように耳を澄ませた。そして何かに思い当たったような顔をして、今日何度目かの笑顔を僕に見せた。
「本当だ。外出できませんね」
 きしむ扉の音と共に、新たな客が入ってきた。その人は、まずカティさんに笑顔を見せ、続いて僕にも会釈をしてくれた。何度かここで会ったことのある人だ。
 カティさんはたおやかに微笑む。
「いらっしゃいませ」
 店内を包む声の余韻が消える前に、僕は店を後にした。

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 日曜日、青空の下で友人たちとお花見をしてきました。
 特に何をしたわけでもなく、ゆったりとお酒を飲んで談笑して、思い出したように桜を眺めて、あくびをして。
 それは信じられないくらいにのんびりとした時間で、きっとこういうのを幸せって言うんじゃないだろうか……



 ……などと、寝転がってつぶやいてたら、横に座っていた友達(♀・27歳・彼氏なし)が一言。

「こんなことで満足しとっちゃおえん」(こんなことで満足していてはダメだ)

 以下、友人とhimaの優雅な会話を岡山弁にてお届け。

「いいんじゃねえの? あったかくて桜がきれいでみんながおって……」

「みんなじゃなくて、誰かがええ」

「じゃあこうしとんのは幸せじゃねえんかよ〜」

「幸せじゃけどさ、もっと上を目指そうという気持ちが大事じゃろお?」

「(やや芝居がかった感じで)桜をごらん。少しでもたくさんの人にみてもらおうと、一生懸命に横に広く広く枝を張っているじゃないか」

「じゃから〜、みんなじゃなくて、誰か一人に見てもらえばええんじゃって。幸せになりたいんじゃ〜」

「(さらに芝居がかって)いいんだよ、松や杉みたいに上に向かうばかりが能じゃないよ。こうしてたくさんの人を包む生き方も悪くないんじゃないかな」

「またそういう上手いこと言ってるように聞こえることを言う」

「いつものことですな」

「そういう人間になっていくんか」

「誰かな、みんなの2番って言った人は」

「あははははは〜」



 そんな、平和な平和な日曜の午後。

 この会話を取り上げたのは、我ながら杉と松の例えが気に入ったから。即興ながらよくできているかな、と。

対岸の桜

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 仕事終わりで暖かかったので、ふらりふらりと自転車を駆って桜見物。

 金曜の夜のこと。
 花見客でいっぱい。
 楽しげな空気と、おいしそうな香りと、柔らかなぼんぼりの灯りと、桜の木々。

 ゆったりと眺めて、心の洗濯。



 明後日の花見も、雨の予報が徐々に翌日にずれ込んでくれて、どうやら天気になりそうで。

 次は明るい空の下の、さくら。

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