唐津城唐津を訪れたのは仕事の関係で、天候不良一日予定が延びた日ですね。休憩時間にちょっくら城攻めおば。
そうそう、二_トマンの不発に、シェパード親父こと物乞親父さんか怒りの反撃をしてきたアホwでしたね。
>あ_怖い怖い (^□^)
文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となり、慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成しました。
築城に際は、豊臣秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城したといわれ、柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されといわれます。さらに東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更。防風林として松原の保護育成を行い今日の虹の松原(日本三大松原)となりました。
ほうほう、6万石程度の城にしては大きいね。 築城当初は12万石で以後も実高20〜25万石といわれ、長崎警護の一翼を担っていたとか。
天守は模擬です。建てたらこんな感じだったんじゃね?ちゅうことです。
天守台こそあれ、天守の存在をうかがわせる資料はないようです。資料館や展望台として活用されています。
あのとき、展望台で海があれていたのを確認しましたね。
http://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/412023/P1000717.JPG http://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/412023/P1000719.JPG
唐津藩主家は比較的替わっています。寺沢-天領→大久保→松平→土井→水野→小笠原と。
歴代藩主の中には、天保の改革でしられる水野忠邦もいました。
翌日、壱岐にいけるのかフェリー乗り場に行く途中・・・みつけました!存在は頭の隅にあったのですが。
三の丸辰巳櫓http://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/412023/P1000726.JPG トイレもある公園となってます。駐車に難ありかも。
この櫓は三ノ丸の東南隅に位置し、町田川下流に面する場所にありました。
明治期に解体されましたが、平成3年度に石垣を修復し、翌年度新築復元されました。 |
九州の城
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九州地方の私メの攻城記。(ただし、旧豊後国の領域を除く)
佐土原城photo by kazuwanco from OCNフォトフレンド
14世紀半ばごろに伊東氏の一族田島休助によって田島城が築城されたのがはじめとされます。時は流れ伊東氏は島津氏敗れ、天正12年(1584年)島津家久が4000石知行を持ってを佐土原城に据えられ日向国の差配を任されました。
慶長8年(1603年)、島津義久・義弘・家久の甥である島津以久(島津貴久の弟・忠将の子)が、日向国那珂郡・児湯郡内に3万石を与えられ、佐土原城を居館としました。 慶長16年〜17年(1611〜1612年)にかけて、二代藩主:島津忠興によって城が増強されたとも されますが、寛永2年(1625年)には山の上の建物を壊して、麓にある二の丸御殿に居館を移したそうです。 明治3年(1870年)に広瀬(現・宮崎市佐土原町広瀬)に藩庁が移転したため、建造物は全て破却された。 平成5年(1993年)、発掘調査の成果をもとに二の丸御殿の一部が復元された。 近世の佐土原城は鶴松山と弁天山麓に二ノ丸御殿を西には代官所、その北に御普請所跡があり、二ノ丸御殿の北側には中屋敷が、東には堀をはさんで三の丸があったようです
閉館まじかで、雨降りしきる中管理人の方が親切だった気がします。紅葉の苗が無料でおいてありましたが、今回はいただきませんでした。
復元された二の丸御殿は奥(北西)から数奇屋-書院-大広間とあり、大広間の玄関・車寄の屋根が唐破風となっています。また数奇屋-書院-大広間は展示スペースとなっています。
二の丸御殿の庭については、発掘等で様子が確認できなかったので時代考証と景観を配慮して作庭されたようです。
山城散策楽しそうだけど・・・。しょうがないなと思いました。
本邦最南端の天守が聳えていたとされる城です。機会を見つけて行きたいですね。
攻城紀・佐土原城余談w4月に行った佐土原城を今頃うp
山城部分にも行かんと思いつつ、行く暇ないですね〜。
家にWINXP一台まだあるし、ネット環境も勧誘と安さにつられ変えることになりそうだし、イロイロ物入りでお金の余裕もないしw <<心の余裕もない_君がよろこびそうやな♪>>
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久留米城photo by kazuwanco from OCNフォトフレンド
先日、翌日から歯が痛いと悶絶するとは、つゆしらず久留米城にやってきました。
久留米城の創建は室町末期に笹原城という砦とされます。
天正15年(1587年)豊臣秀吉が九州を平定すると、筑前・名島37万(筑前・筑後・肥前1郡)を、小早川隆景(毛利元就の三男)が封じられ、その一環で小早川秀包(が久留米には3万5千石で封じられました。これを切欠に久留米城は近世城郭への改築が始まりました.
慶長5年(1600年)の関が原の合戦後、筑後国には三河国岡崎から田中吉政が32万5千石で封じられ柳川城を本城とし、久留米城は支城とし五男(次男とも)の田中吉信(則政)を3万石の城主としました。城下町の整備などに力を尽くしたとも言われますが田中吉信は家臣を手打ちすることが多く、慶長11年(1606年)返り討ちにあい死去。以後、久留米城には城代が置かれたようです。 元和7年(1621年)丹波国福知山より有馬豊氏が筑後中部・北部21万石で封じられました。 幕府の了承のもと久留米城の拡張がなされました。 寛永8年(1631年)筑前国福岡:黒田長政の指導により筑前堀を完成させ、慶安2年(1649年)から4年掛かりで外郭部を構築し城下町を整備しました。 明治7年(1874年)廃城令によって城の建造物は解体されました。明治10年(1877年)本丸御殿跡地に篠山神社が建造されました。
現在そのほかに、有馬記念館や東郷平八郎記念館が本丸にあります。 蜜柑丸という珍しい腰郭の跡に駐車場があります。一寸案経路の内不足のような・・・。
蜜柑木はなく、オレンジジュースの販売もありません。駐車場は無料です。ただ月見櫓台の北側の空間は契約駐車場のようです。
結局、車から降りて、南の方・・・。正門に当たる冠木御門跡から本丸に入ります。
http://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/402036/P6230021a.jpg結構石垣と個々の石、立派ではないかな〜。さすが20万石超。大身国持大名の居城だっただけのことは。 しかも入り口二階かよー。小額の入館料で、早速3本のビデオ上映がありました。ありふれた感じの音楽が階段を昇りながら・・・。内容は結構良かったかも。
競馬の有馬記念って久留米藩主の末裔関連だったり、とかく城地だけの説明でこの手のビデオ終わりだけど、東京の上屋敷が寛永寺に近いところから大名火消しの白眉で、火よけの水天宮についてもお話がありました。
許可をもらって、http://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/402036/P6230038.JPGパチりと、で加工
かつて、天守の代用櫓とみなされていた巽櫓の復元計画があったらしいけど・・・。
御殿を除きほぼ丸ごと復元した方がよくね?と思いました。
展示物は、大熊、小熊と呼ばれる甲冑。衛府の太刀など、まぁ入れ替えるらしいですけどね。あえていうならこの記念館の建物、西下櫓と坤櫓と多聞櫓を復元して活用してもらいたかったですね。二階ベランダから筑後川やブリッジストン久留米工場が見えます。
格安の大熊、小熊と呼ばれる甲冑関連の本を買い記念館を後にしていると先ほど受付されていた年配の男性が、「どちらから・・・。」「大分です!」と挨拶してしばらくすると、他の見学者だった老夫婦の方と東郷平八郎記念館に案内してくれました。
うw−ぁ本丸の北側竹笹だらけじゃん。復元するには石垣の積み直し半端じゃないはw
お城の建物復元しても倉庫ぐらいしか活用方法がなかろうというぐらい小規模や使い勝手の悪い場合が多いけど・・・。久留米城本丸は違うと思う。あれだけの要塞化した本丸を復元したらかなりの観光名所になるような気がします。一部ではもったいないな〜
ぷぉおおおお。デジカメの液晶が・・・こわりちった。神社に賽銭入れたのに・・・。のろいか・・・。なぜか久留米出身とか学生時代久留米にいたとかいう、今まであった残念な数人を思い浮かべてしまい、久留米の方すいません
そういえば1ヶ月ぐらい前から、液晶の下に白い線がでてたな・・・
スマフォで撮るしかないな・・・。とhttp://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/402036/DSC_0026.jpg
http://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/402036/P6230103.JPGたまに見当つけてデジカメで撮っていました。
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延岡城 天正15年(1587年)の、秀吉による九州攻めに協力した功績で日向国縣5万3千石を与えられた高橋元種が慶長8年(1603年)に新たに造られた城です。
高橋元種は慶長18年(1613年)にかつて罪人を匿ったとして改易されました。
縣藩は慶長18〜19年(1613年〜1614年)幕府預かりとなりました。
慶長19年(1614年)、肥前国日野江藩(島原藩の前進)より外様大名の有馬直純が5万3000石で入封しました。
第2代藩主:有馬康純は縣(延岡)城を修築し、城下町を整備し、地名を延岡と改め城も延岡城と改めたとされます。
第3代藩主:有馬清純は山陰・坪谷村一揆が起り、元禄4年(1691年)一揆首謀者の処刑と同時に、改易されました。
元禄5年(1692年)、譜代大名の三浦明敬が下野国壬生藩より2万3000石で入封した。 山陰・坪谷村一揆の後処理、有馬氏時代より続いていた高鍋藩などとの国境紛争の解決に尽力しました。 ただ正徳2年(1712年)には三河国刈谷藩に転封となりました。
代わって三河国吉田藩より牧野成央が8万石で入封しました。その際、豊後国大分郡・国東郡・速見郡に飛地を領有しました。
第2代藩主:牧野貞通は、寛保2年(1742年)に京都所司代となりました。その際、日向国内の3万石分を河内・近江・丹波・美濃の領地に移されたといいます。延享4年(1747年)常陸国笠間藩に転封となりました。
代わって陸奥国磐城平藩より内藤政樹が7万石で入封しました。
以後内藤氏が在封し124年間この地を治めました。
幕末維新期は譜代大名として佐幕の立場を採り倒幕派の南九州諸藩の中にあって苦況に立たされたようです。
明治3年(1870年)に城を薬園として活用することを新政府から許され、廃城となり
ました。 なお城主の居館であった西ノ丸には、現在、延岡藩の資料や能面、書、絵画が
展示しする内藤記念館があります。 また御馬屋跡には、平成9年(1997年)複合文化施設「カルチャープラザのべおか」
が建てられています。 二の丸の北大手門は発掘調査や絵図を基に平成5年(1993年)に復元されました。
その奥に、千人殺しの異名をもつ本丸高石垣が聳えています。 城山の北側に駐車場があり早速石垣がみれますね〜 http://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/452033/P4160004.JPG http://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/452033/P4160002.JPG
ゲートのない第2駐車場に車をとめて・・・。そのあと若者ご一行が車を止め花見の道具を出していました。市民の憩いの場なんですね〜。仕事はどうしたのかと、自問自答に近い疑問がわきましたけどね 北大手門北大手門かつては、その北にも郭があったようです。右手前の門は、最後の藩主家の内藤家墓地です。
墓地と石垣の間をするする進むと・・・。http://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/452033/P4160022.JPGかなりずんぐりむっくりとされど力強さを感じる石垣にであいました。後でしらべたのですが、二階櫓台のようです。
「千人殺し」高石垣北大手門にもどって、登っていくとhttp://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/452033/P4160126.JPG世に名高い「千人殺し」
近づくとかなり、石垣が盛り上がったり・
へこんだり、なんと仕掛けがあって、「外すと攻めの登ってきた敵千人を殺せるのじゃ〜」
とのことです。
仕掛けとは、どっか外すと石垣が崩壊するとのこと。よくよく考えたら・・・。この高石垣本丸の石垣ですよね〜。
本丸も壊れるやん。悪く言えば、石垣に起伏が多いと、登り易いきがする・・・。施工ミス?かな?
おそらく、見るからに凹凸の激しい石垣は、崩れそうなイメージがあり城にふさわしい伝説が付けられたのか?
あんまりネガティブなこと考えてもしょうがないのでお城の探索をつづけました。
本丸T字路を東に上ると二階櫓門跡・本丸正門へhttp://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/452033/P4160053.JPG
渡門?楼門?どちらだろう。門を含めて2階なのだろうか?本丸には庭園跡や記念碑があります。
なんか散策路もあるので南側から・・・事実上の帯郭やな。
三階櫓跡往時は城のシンボルだったんでしょうね。
周りめぐって、本丸へ天守台?へ
天守台勝手に、断りをいれても、ついてはいけない城山の鐘。ちゃんと御守される方がいるそうです。
ここ天守台といっても実際、郭ですね。詰丸やないかな?
北側に虎口が発掘で確認され、復元したいらしい旨の看板と石垣・土嚢がありますね。
一説には五層天守があったとか?日田の日隈城にもそんな話があったけど・・・。
三の丸草ぼうぼうのところと庭園跡があります。 庭園の奥にはなにやら記念碑がある高台と石御門跡がhttp://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/452033/isigomon.jpg
石御門の南側は崖で、三階櫓の直下付近。南からの登城口の守りだったそうです。
南大手門があったそうなので・・・。搦め手とは違うような・・。
けど・・・石御門跡から今は降りられません・・・。枯れ葉積んだり、竹筒置いたり、ロープ張ったり、
城の南側模擬南大手門と駐車場があります。
駐車場を西に進むと遊具と思い進むと、物干し竿で民家でしたorz
三ノ丸・二ノ丸経由散策北大手門の東にも記念碑や石垣がで二ノ丸の西隅に階段があり進むと
何かゲートで門限まである。時計止まってるw
その一角から出ようとすると、おじさんが入れ替わりに入っていき会釈しました。
散策中挨拶を交わしたのはあった人の4.5割かな。
西の丸へ内藤記念館が西の丸あとにはあるんですよね〜延岡城とともに小学生の時行った。
このブログの落ちネタにいったような感じですねwまた今度は開いてるときによりたいですけど。うろうろしてると、施設には人が入っていたので、思わずダダこねようかと
無事にかえりたいので辞めましたorz
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佐賀城別名:沈城、栄城、亀甲城、佐嘉城
中世の龍造寺氏が居城として いた村中城を改修・拡張したものだといわれます。
慶長13年(1608年)より佐賀城の総普請が開始されたとされ、龍造寺氏の重臣:鍋島直茂の計画に則り、嫡男:鍋島勝茂が慶長16年(1611年)に完成させました。
その間、慶長12年(1607年)、名目上の藩主であった龍造寺高房が急死(錯乱とも病死とも)、その父:龍造寺政家もほどなくなくなり、天正12年(1584年)沖田畷の戦いで北西九州に覇を唱えた龍造寺隆信が負死して以来、実質的に家臣団を掌握していた鍋島直茂が後見役となり。 鍋島勝茂が佐賀・鍋島(初代)藩主と成っています。
そもそも、鍋島直茂の母は竜造寺氏、妻も竜造寺氏であり、竜造寺氏の一門ともいえる重臣でしたが、御家乗っ取りともみえる藩主交代劇は、鍋島の・・・
ちなみに、佐賀藩の重臣のなかには龍造寺氏の分家も多く含まれており、龍造寺高房の子:龍造寺季明(伯庵)などが、寛永11年(1634年)か8年間幕府に御家再興を願い出たものの認められず、会津藩などに預かりという比較的軽い処分だったのは、幕府に鍋島勝茂がとりなした結果とも言われています。 小城羊羹を売っている出店がありましたが・・・。残念
本丸の北側には広々とした駐車場がありますね〜。車での案内が途中省かれていていらっときたけど。中学以来の佐賀城。昔蛇が石垣の横道にいたな〜。おぉ〜やだ!
鯱の門しかしま〜鯱の門http://photofriend.jp/u/54383/de140692c67d11f1b0cc26e5a1cea3de40000000000001806024.jpg
photo by kazuwanco from OCNフォトフレンド 北側から見ると天守台と対峙する感じになるんですよね〜。
いやいや。国宝でもおかしくないモンだ。決めるのは自分ではないけどね〜。
本当に城郭の遺構って文化財的価値を低くみられるんですね〜。
鯱の門さすがに立派だわ。
http://book.geocities.jp/himeka752002/img/P2230019.JPG 鯱コレ 個人的には、尾っぽがもう少し・・・リアル感じがあったら良かったかも・・・。と写真を見て思いました。
しばらくは、鯱の門と佐賀県立佐賀城本丸歴史館をひたすら写真を撮りました。
佐賀県立佐賀城本丸歴史館天保年間の御殿の復元です。御座間等一棟は現存建物で改変箇所の修正などにとでめているそうです。
まさに本丸御殿の顔が御玄関。
受付の女性から「写真をよくとられてましてたね!」と一言言われて案内されました。
ちなみに車椅子の方でも大丈夫なように御玄関の奥、御式台の南口には、スロープがあります。
本格的な伝等工法による再建御殿は足を進めるだけでもそれなりの趣向がありますね〜。展示品もレプリカが多いけど整ってるかな〜。入場料は無料ですが、満足度に応じて寄付を募っています。今回は懐具合に応じて寄付させていただきましたorz
ちょっと気になったのは雨戸の変色ですね〜。経年劣化なのはわかるのですが・・・。
http://park.geocities.jp/himenowan442011/4x/412015/P2230052.JPG奥の建物が、現存御殿建物の御座間、前の区画は今回復元されなかった部分だそうです。
天守台・本丸帰って調べたら、北側本丸のそとからあがるそうですorz
本丸には北東と南西に隅櫓台があるのですがいずれも櫓自体は建たなかったようです。
南西隅櫓は、本丸御殿復元にさいして、西側の石垣・土塁とともに修復されました。
ちなみに寛保年間に亀甲積で修復されてたので今回の復元も亀甲積で行われました。
佐賀城の本丸は大まかに言うと、北・西は石垣但し西側の内側は土塁。南・東は土塁ということのようです。
西側には天守台・連結櫓台に寄り添うように西口がありますが、緊急通路と確保のため往時より広く復元されたそうです。ただなぜか門は発掘の結果検出されなかったそうです。
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