発つ犬、足跡がわかる・・・

あっはっは〉┌(┌´,_ゝ`)┐〈もっほっ!ふぉ_!キモヲタニ_トホモ_クレイジ_よ、臭い息を吐くのはそれぐらいにしておけ♪

東日本の城

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水戸城攻

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水戸城行ってきました!
三の丸の弘道館

水戸城は中世に築かれ、近世では徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城でした。
藩主は江戸定府でしかも表高を高めに35万石としたため常に財政難でした。
幕末は尊皇攘夷を推し進めてましたね。
最後の将軍徳川慶喜は水戸藩出身ですが、一橋家の当主を経てます。
儒教と神道の藩で光圀の時と斉昭のときに仏教寺院に制裁を加えています。
今年の秋には大手門などが復元される予定で工事が進んでました。二の丸にあった天守代用の御三階櫓は戦災で消失。今は学校の敷地だから、復元は難しそうでした。

上田城・攻

上田城は1583年(天正11年)徳川家康の命で上杉氏に対する徳川氏の最前線の平城として築城が開始されましたが、2年後には逆に上杉氏により徳川氏に対する基地として増築普請が行われました。第一次上田合戦の結果真田氏が徳川氏の軍を撃退しました。その後大規模な改修が行われ天守も建てられて可能性もあります。1600年(慶長5年)には関ケ原の合戦の直前に第二次上田合戦があり真田昌幸が徳川秀忠率いる東軍を撃退しました。しかし、真田昌幸が属した西軍が関ヶ原の戦いで敗れ、真田昌幸が九度山に配流れ、1601年に上田城は徳川軍に破却されてしまいました。

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江戸時代には上田藩の藩庁が置かれたものの三の丸跡地に屋敷がおかれ。領主となった真田信之は、元々の居城である上野国沼田城を本城とし藩の運営を行いました。上田城の再整備・拡張を申請は却下されてしましました。元和8年(1622年)真田氏は信濃国松代へ転封。仙石忠政が入封し上田城の再建を申請し、寛永3年(1626年)から現在の上田城が普請されることとなりました。
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本丸には櫓7棟、櫓門2棟、それらを繋ぐ塀が普請された。二の丸にも櫓や櫓門を再建するため、櫓台なども構築されたが、寛永5年(1628年)4月20日仙石忠政の死により工事は中断され、これ以上の増築は行われないまま、仙石氏の転封および松平氏(藤井松平家)に藩主家が交代しました。 明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓(西櫓)が1棟残るのみでしたが、昭和期に、移築されていた本丸の南・北櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されてました。
現在は旧二の丸内が上田城跡公園や堀の後に競技場など、三の丸には上田市役所や学校が建てられ、三の丸の居館には正門が残っています。
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早朝思い付きで出かけ疲れました。
ワンコを散歩させている方も多かったです。市立博物館にもよりました。気分転換になりました。

松本城・攻

あいたたたぁ。
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松本城いってきました。新宿から高速バス・・・首都高と中央道が大渋滞で2時間遅れの到着。参った。
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松本城は深志城と呼ばれた時代からすると戦国時代の永正年間(1504-1520年)、信濃守護家小笠原氏により築かれ500年経つといわれます。後に武田氏の信濃の拠点となり、秀吉の時代には関東への睨みとして徳川家康のから出奔した石川数正が入城しました。石川氏が改易となり、小笠原氏(譜代)が再び入城。大坂の陣以後は、戸田松平氏(譜代)、結城松平氏(親藩)、再び水野(譜代)戸田松平氏(譜代)と城主が変わりました。

最大の特徴は、現存天守12城の一つで国宝天守5城の一つである下見板張り壁の漆黒の天守閣です。
乾小天守(3層4階)と渡櫓(2層2階)と大天守(5層6階-29.4m)、辰巳附櫓(2層2階)、月見櫓(1層1階地下1階)により天守閣が構成されています。別名 烏城とよばれ、下見板張り壁は実際に黒漆を毎年塗りなおしているようです。乾小天守と辰巳附櫓の最上階には華頭窓が穿たれ、月見櫓は北・東・南面が開放され朱塗りの回縁がめぐらされています。

今回・・・月見櫓がシートに覆われ残念。

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二の丸跡には御金蔵現存、二の丸御殿は本丸御殿焼失後、藩の政庁と機能し、明治初期には筑摩県庁として使用されていましたが焼失しました。

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復元された太鼓門


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復元された黒門

「クラフトビールフェスティバルin松本」開催してました。9/14〜17まで開催中17日は11時から17時までのようですよ♪
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三杯いただきお肉もいただきました。飲酒後は天守に登れないので上った後、安全のための入場制限で五〇分またされ天守に登ったあとに参加しました。

帰りには
蕎麦処 やまとう にて信州そばをいただきました。
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しかしまぁつかれました。心はともかく、体と財布w

川越城・攻

この前ちょっくら川越に行ってきました。
イメージ 1川越城は室町時代より河越城として関東での勢力争いで要の城として推移してきました。
徳川家康が関東に封ぜられたのに伴い酒井重忠が1万石で川越に封ぜられました。以後、八年ほど番城おかれたものの、大老・老中などの要職についた譜代大名、はたまた親藩が封じられ江戸の北の守りとして重きをなしました。
川越の城下町は今日でも「小江戸」と呼ばれ、知恵伊豆と呼ばれた松平信綱(伊豆守)が城郭と城下町を整備したとされます。
今日では本丸御殿の一部が残り威容を誇っていますが、当初の本丸御殿は将軍の御成御殿で城主の御殿は二の丸にあったとされます。
近世から残る御殿自体の現存例は珍しく、関東唯一です。19世紀に二の丸御殿は焼失し、既に御成御殿が消失し空き地になっていた本丸に今日の御殿が造営されました。御殿としての役目を終えてからは、規模が縮小されながらも、川越県庁舎や入間郡公会所、煙草工場や武道館、中学校として利用されました。昭和42年と平成20年に大修理があり今日にいたっています。
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明治時代には藩主自ら堀を埋めさせ政府への恭順をしまし、川越藩が老朽化のため城の建物の取り壊しを願い出て、部分的な取り壊しが行われ、廃城令により本格的に城の破壊がなされました。
ちなみに富士見櫓は天守の代用櫓として城内の高所に三階櫓として建てられていました。今日では現地では説明板や石碑でしか確認できません。法面が崩落気味でところどころ立ち入り禁止になっています。なお櫓の詳細な図面も残っいるようです。
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江戸城・攻

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建国記念の日にいってきました。
さすが本邦最大の城です。天守台といい、
イメージ 5城内の側からの富士見櫓

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富士見多門櫓

堪能しました。無料なんですよね。手荷物検査はありますけど、あと入園票もらって帰るとき戻す。
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大手門

イメージ 3平川門
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北桔橋門
の三カ所の出入口いずれから入って特段同じ出入口に戻る必要もないです。

江戸城は鎌倉時代には江戸氏の館の記述があるとされ起源とされます。後に太田道灌により江戸城が築かれ、徳川家康が関東に入り今日の江戸城を居城にしました。当初は軟弱地盤のこともあり整備が進まなかったものの、関ケ原の合戦に徳川家康が勝利し全国の大名に普請を命じ原形ができました。往時は江戸湾に接し、「見附」の地名があるところまで江戸城の総構えであり、その周辺も江戸として拡大していきました。天守は明暦の大火で寛永度のものが焼失し天守台のみ復興され、三層三階の富士見櫓が代用とされました。本丸御殿の表、大奥などもたびたび復興されたものの、時代が下り西の丸御殿が利用されるようになりました。維新後西の丸が皇居となり今日では本丸、二の丸は皇居東御苑、北の丸は武道館などがあります。

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