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■麻原分析 第1部
1955年3月2日、松本智津夫は熊本県八代市高植本町(旧八代郡金剛村)畳職人の家庭の4男(6男3女の9人兄弟の第7子)として生まれた。
先天性緑内障のため生来、左目がほとんど見えず、右目は視力1・0程度だった。12歳年上の長兄は全盲、5男も弱視だった。
生家は浄土真宗本願寺派の熱心な門徒であったが、経済的には困窮しており、7人の子を抱え生活は逼迫しており、両親は働きづくめで、智津夫は兄や姉を親代わりに幼少期を送ったようだ。
1961年(昭和36年)4月。八代市立金剛小学校に入学するが、視覚障害者(隻眼)を理由に同年秋(6歳)より当時熊本市出水町今(現在の熊本市中央区水前寺)に所在した熊本県立盲学校に転校、寄宿舎に移住している。しかし、智津夫は全盲の兄とは異なり目が見えたのに、学費も寄宿舎代も食費も不要な盲学校へ入れられたことを「親に捨てられた」と思い不満をぶつけ[、転校の際には泣いて嫌がったという。
20歳で同校を卒業するまでの13年間、両親が訪ねてくることはなく、衣服や食料を送ってくることもなかった。他の子供たちは週末には里帰りしたが、松本3兄弟は寮に残ったという。
盲学校では、強い権力欲を見せ、目が見えるために他の子供たちを子分扱いにし、暴力で支配していた。全盲の子供を外へ連れ出すと食事をおごらせたり窃盗を命じたり、自分の欲しいものを買わせたりし、「外へ連れて行ってやったのだから日当をよこせ」などといってお金を巻き上げていた。
寄宿舎の消灯時間が過ぎたにもかかわらず部屋の明かりを点けたことを寮母がとがめた際には、ふてぶてしい態度で「宿舎ば(を)焼いて明るくするぐらいのこつば(ことを)やってやっぞ」といった。生活指導の教師が注意すると「言うだけなら、なにを言うたって勝手でしょう」とうそぶくこともあった。金への執着も強く、同級生への恐喝によって卒業するまでに300万円を貯金していた。
ただし、高等部での担任教師であった人物は、盲学校時代の報道を聞いて「そういう陰日なたのある人間とは、とても感じられなかった」、「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりしていた
」と述懐している。 成績は中程度であったにもかかわらず、「自分のように病気で困っている人を救う仕事がしたい」と熊本大学医学部を志望するようになり、高等部3年の3月に同医学部を受験するが失敗。高等部専攻科に進学する。
1975年(昭和50年)1月12日には、盲学校の生徒としては異例の柔道二段(講道館)を取得。鍼灸免許も取得した松本は、この頃より「東京大学法学部卒の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就くこと」を志すようになった。
1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業した。
(以上、資料より抜粋)
■以上が「麻原=松本智津夫」の20歳までの簡単な履歴だが、盲学校時代に暴れ者だったというようなエピソード以外に、特に特筆すべきドラマはないように思える。両親への恨み、あるいは確執というようなものは二十歳までの青春時代なら、誰もが経験し得る感情ではないだろうか?また突拍子もない「夢」を語ったりする性質も、この年代特有の「普遍性質」であり、特に彼だけが有していたものではなかろう。
青春、15〜20までの青少年と言えば「女・・・!!=恋愛!!」というのが通常のコースだと認識しているが、おそらく彼には、そのような青春はなかったのではないだろうか?
「盲目の国では、片目を開いているだけで王様になれるんだよ」
これはたしか「筒井康隆」の短編小説の中の台詞だったと記憶するが、少年時代の麻原に、妙にマッチする。
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