◆ 福音とは何か。
神に逆らう反逆者を、その悪の中で憩わせることが、天からの喜ばしいおとずれ
のメッセ−ジだろうか。
それは、遊びほうけている若者に、ただ「信じ」さえすれば将来恐ろしいことなど何
もない、と彼らを安心させる目的で与えられたのだろうか。
ほとんどの「伝道者」の、福音を提示する、いや、歪めている方法からして、そうとしか思えない。
さらに彼らの回心者の生活を見れば一層その感がつよい。
ある程度の霊的識別力をもちあわせている人は、「神が彼らを愛したので、神の御
子息は彼らのために死なれた、彼らの(過去、現在、未来の)すべての罪の完全な
赦しは、ただ“キリストを個人的な救い主として受け入れること”によって得ることが
できる」
などと断言するのは、まさしく豚に真珠をなげやることにほかならないと、確実に悟らなければならない。
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福音は切り離されるものではない。
それは神の律法という、いにしえの啓示から独立しているものではない。
それは、神が、ご自身の義をゆるめたとか、聖さの基準を下げたとかいう告知では
ない。 そういうのとはまったく違う。
福音が聖書的に説かれるときには、なさけ容赦のない神の義と、罪に対する神の
無限の憎悪についての最も鮮明な描写と、その最高潮の状態の証拠が語られる
のである。
しかし、福音の聖書的説き明かしのためには、いくら未熟な若者やビジネスマンな
どが「福音伝道の労苦」に自分の時間をさいて捧げていても、彼らはまったく不適
である。
悲しいかな、肉の高慢は、より知恵のある人が通るのを恐れる場所に、非常にたく
さんの不適当な人が向こう見ずに入っていくにまかせている。
私たちの直面している恐ろしい現象の原因は、その多くが、そういう初心者の増加
にある。
そして、さまざまな「教会」や「集会」には、非常に多くの彼らの「回心者」が満ちているのであるが、
これこそ、彼らがなぜそれほど霊的でなく、世的であるのかを説明しているのである。
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読者よ、そうではない。
福音は、罪を軽くするのではない。そのようなことからは、はるか遠くかけ離れてい
る。
福音は、神が罪をいかに厳格に取り扱うかを示している。
福音は、神の民の背きの罪を贖うために、ご自分の愛する息子を打つという、神
の恐るべき義の剣を啓示している。
福音が律法を廃止するなどということからは、はるかに隔たっている。
それは、救い主が律法の呪いを耐え忍んだということを説明しているからだ。
カルバリ−は、神が罪を憎悪するという最も神聖で、畏れをおこさせる提示を常に
与えているのであり、永遠に、それ以外の何ものでもない。
もしそうであるなら、世的な人々のところに行って、彼らは自分たちの偶像に執着
し、その心は今だ罪を愛しているというのに、
「キリストを自分の個人的な救い主として、単純に受け入れることによって、その瞬
間、救われることでしょう。」 などと告げることで、あなたは福音は尊ばれ、神が
崇められるとでも想像するのだろうか。
もし、私がそのようなことをするなら、私は彼らに嘘を教えることになり、福音を歪
め、キリストを侮辱し、神の恵みを好色に変えることになるのである。
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このような、私たちの「厳しい」、「皮肉な」意見に対して、おそらくある読者はもう
反対しようとしているに違いない。 そして、こう尋ねるであろう。
「使徒の働き16の31で『救われるためには、何をしなければなりませんか』との質
問が出たとき、霊感された使徒は、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも
救われます。』とはっきり言ったのではなかっただろうか。」と。
それでは、今日、私たちが同じことを罪人たちに告げたからといって、間違いを犯
すなどということがあるのだろうか。
私たちは、そうするための神聖な証拠をもっていないだろうか。
たしかに、それらの言葉は聖書の中に見られる。
そして、多くの浅い訓練しか受けていない人々は、そういう言葉があるため、だれ
に対してでも、これを繰り返すことが正しいのだと結論している。
しかし、次のことを指摘させていただきたい。
すなわち、使徒16の31は、群衆に相手かまわず宣言されたのではなく、特定の個
人に対して語られたのであって、
同時にそれが暗示しているのは、このメッセージは区別もなく、へたに配られるべ
きメッセージではなく、 かえってその語られた時の、あの看守と同じような霊的状
態の人に語られるべき特別なことばだ、ということである。
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聖書の章句は、その背景から切り離されるべきではない。
文脈に沿って吟味され、解釈され、適用されなければならない。
そして、このことは祈り深い考察と注意深い瞑想と継続的な学びを要求している。
この急ぐ時代の、見かけだおしで価値のない「メッセ−ジ」はこの点で失敗している
ことをものがたっている。
使徒16の31の文脈を見ていただきたい 何を見出だすだろうか。
使徒とその同行者は、どんな時に、誰に向って『主イエス・キリストを信じなさい。』
と言ったのだろうか。
ここには七つの答えが提供されている。
そして、この真に福音的なことばを与えてよいという、その人々の特徴が著しく描
き出されている。
では、これら七つの細目を手短に指摘するので、あなたは注意深く熟考してください。
(1)この言葉を告げられた人は、ちょうど神の力強い奇跡の御業を目撃したばかりだった。
『ところが突然、大地震が起こり、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった』(使徒 16:26)
(2)その結果、その人は非常に動揺し、絶望するに至るほどであった。
『目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした』(27節)
(3)彼は照明の必要を感じた。『看守はあかりを求め』(29節)
(4)彼の自己満足はまったく打ち砕かれた。彼は『震え』たからである。
(5)彼は --- ちりの中で --- 神の前にふさわしい立場をとった。
彼は『パウロとシラスとの前にひれ伏した』(29節)からである。
(6)彼は神のしもべたちへの敬意と心づかいを示した。
彼は『ふたりを外に連れ出し』たからである。
(7)そうして、彼は自分のたましいのことを非常に心配して、
『救われるためには、何をしなければなりませんか』と尋ねたのである。
そういうわけで、ここに、(もしあなたが喜んで導かれようと思うならば)あなたを
導く何か確かなものがある、ということである。
「ただ」信じるようにとの勧告を受けた人は、上調子な人でも、不注意な人でも、無頓着な人でもない。
そうではなく、むしろ、神の力強い働きがすでに自分の内に働いたことの、はっきりとした証拠を示した人だったのである。
彼は、覚醒されたたましいであった(27節)。
彼の場合、その滅ぶべき状態を強調される必要はなかった。
なぜなら、彼はそのことをはっきりと感じていたからである。
また、使徒は彼に対して悔い改めの義務を迫る必要もなかった。
なぜなら、彼の態度はすべて自分の悔恨の念をうったえていたからである。
しかし、彼に語られた言葉を、彼自身の堕落した状態にまったく盲目であり、神に
対して完全に死んでいる人々に適用するなどということは、水中から引き上げら
れ、意識のない人の鼻に気付け薬を近づけること以上に愚かである。
何なら、このメッセージを批判する者に使徒行伝を読み通してもらいたい。
また、使徒が、群衆と偶像をおがむ異教徒に向かって無差別に、「ただ」キリストを
信じなさい、 と告げている例が一つでもあるか、あなたが見付けることができるか
どうか試していただきたい。