百姓一揆

江戸時代は武士階級が働かずに農民に養われていました。

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  天保元年(1830)9月23日に難破船があった。この積荷を波切(なきり)・志島(しじま)・畔名(あぜな)・名田(なた)・船越・片田(かただ)各村の村民が盗み、船は米を積んだまま沈没と報告した。しかし波切村を追放された又右衛門、或いは信楽(しがらき)代官所領の某が訴人した。2年1月5日夜、村木為八郎ら10人ほどの代官所役人が、波切村与太郎宅を訪れた。これを強盗と思った波切村村民500人余は、彼らを襲撃し、1人を殺害、7人を縛り上げた。同日、鳥羽藩でも積荷押領の事実をつかみ、役人を派遣した。6日早朝に波切村に着いた彼らは、前日の乱闘の事実を知り、為八郎らを解放した。大勢の捕手が派遣され、500人が逮捕され、鳥羽藩による厳しい拷問を伴う吟味が行われた。ここで、庄屋久右衛門と乙四郎は牢死した。多数が江戸へ送られ、6月13日、江戸10里四方追放、志摩国構13人、同波切村構12人、居村払5人の処罰がなされたが、重罪人は入牢させられたままで多数が牢死した。3年春、吉郎兵衛、喜之右衛門、太郎兵衛、亀吉、新蔵が国元から呼び寄せられ、江戸にて断罪された。なお、処罰は、死罪7人・獄門6人・遠島2人などとするものである。
 思案地蔵(三重県志摩市大王町波切)がある。文献:「波切騒動始末」(岡賢(まさる)著)、「朱の丸御用船」(吉村昭著)がある。
三重県志摩市大王町波切堂の山薬師堂
思案地蔵
  由来:「波切騒動の顛末−‥景欷鞠(1830)に大王島沖で幕府の御城米を積んだ船が難破。 ⇒眛、村の漁民が船を発見し積荷の米を持ち帰る。 しばらくして幕府の役人が夜更けに覆面をして村に捜査に潜入した。 ぢ漆佑燭舛鰐鮨佑燭舛鯏霏韻隼廚せΔ靴拭(役人の一人を殺したとも)に詆椶肋渦旭焚14人を捕らえ処刑し、村人475名を罰した。 イ曚箸椶蠅冷めた頃、村の和尚がこの地蔵を彫り、犠牲者を弔った。」 なぜ、村の和尚は思案する地蔵像にしたのか? そもそもこの像は思案している姿なのか? 村人は積荷の米を猫糞(ねこばば)し、役人を役人と知っていて殺したというのが本当のところでは。
このお地蔵様、変わったしぐさをしていますが、実は悲劇が秘められた地蔵菩薩なのです。それは天保元年(1830)に起こった波切騒動と呼ばれるもので、大王島の沖で幕府の御城米を積んだ、千石船が難破した事から端を発しました。翌日、漁に出た村人が沈んだ船を発見し積み荷の米を持ち帰りました。しばらくしてその事件を捜査に来た幕府の役人たちは夜更けに覆面をして村に潜入したため、村人達は盗賊と間違えて役人たちを退治してしまいました。そうしたことで幕府は庄屋や村人達14人を処刑してしまいました。事を哀れんだ村の和尚がほとぼりの冷めた頃、地蔵尊を彫り、この騒動の犠牲者を弔ったと伝えられています。
江戸時代の支配機構

 四日市陣屋
 滋賀県信楽代官所の管理下にあり、代官多羅尾氏純の任命した手代が常駐し、天領である四日市一帯の支配をつかさどった。
(注) 手代 江戸時代、郡代・代官・奉行などに雇用され収税その他の雑務をつかさどった小吏(広辞苑より)
瀬取りに加わったものは6ヶ村、処分の終了は天保3年(1832)3月末。
四日市陣屋手代村木為策 解任 信楽に帰った。
270名、米は596俵、波切村、名田村13名、畦名村33名、志島村25名、船越村10名、片田村45名。
 棟札の内容(平成21年4月9日、大慈寺住職 秀森一陽より 提供を受けた)
 「天保元年9月23日夜大王沖にて幕府の御城米を積んだ1,000石船天神丸が難船した。翌24日昼4ツ(10時)頃出漁中の住民が漂流せる無人の沈船を発見して、積荷の濡米を取得に及んだ(47艘596俵という)。
  年明けて同2年1月5日捜査の幕府役人6名が夜ふけに覆面をし村に潜入するという適切でない行動をとった事もあって村民は盗賊と思い込み加撃したので相方興奮して傷害事件に発展した。
  結果は悲しくも時の庄屋以下14人が罪科を負って命を落とし、軽きも合わせると475名にのぼる村民が罪を受けた(当寺の戸数640戸とも又西澤文書に嘉永7年の戸数524戸ともある) ほとぼりがさめた頃、時の住持葦川和尚の発意にてこの地蔵尊を彫り14名の法名を刻し菩提を弔ったと言う。
この像を思案地蔵と申し上げた。葦川和尚はこの尊に何を思案せしめたのであろうか。」以下省略
  以下犠牲者の法名等なので省略。冒頭の天保元年9月云々と有るが、天保は12月改元なので実際は、文政13年9月23日。波切騒動犠牲者14名は江戸送りになり、拙寺の犠牲者は、庄屋以下6名ですが、庄屋は途中四日市にて天保2年5月28日死亡、他5名は、天保3年1月9日1名、同2月15日1名、同6月13日3名、江戸にて刑死している。
  村内他2ヶ寺8名の犠牲者についても、同様であると思われる。
  以前は、かなり伝承言い伝えもあったよだが、今はそれも忘れられ、文書は波切には何も残っていないようだ。岡賢(まさる)氏の「波切騒動始末」も歴史書としてより物語として読む方が良いかも知れない。
山田奉行史跡地
 徳川幕府は、直轄地の支配のために、全国の要衝地に11の遠国奉行を置いた。当山田奉行は、その内の1である。創地は早く、佐渡・長崎奉行と同時期で、慶長8年(1603)11月であった。初代長野内蔵允友長は、近江山中に在って、下代留守居役を派遣し、有滝村に陣屋役邸を設け、施政を布いた。寛永12年(1635)に7代花房志摩守奉行が有滝から当地へ奉行役邸を移築整備した。爾来、幕末慶応4年(1868)7月の廃絶まで、歴代42員の幕臣旗本が江戸表より着任した。幕閣老中の支配化に属し、神宮警護造営に関与し、宇治・山田両郷の庶政監督、公事訴訟、伊勢湾海防等の役務に就任した。奉行・支配組頭・与力・同心・水主等の役人衆90〜70員が、立ち働き、人々の出入り激しく政経文化の交流地とし賑わった。役屋敷惣廓は、13,970坪土塀環濠をめぐらし、役邸敷地約2000坪内に10数棟の建物が立ち並んでいた。それらは、明治2年(1869)に解体され、同6年に始まった地租改正に伴う官有地払い下げで奉行所敷地は民有地になり今日に至った。                   伊勢市教育委員会
 山田奉行所跡
  所在 伊勢市御園町小林 上条奉行所のあらまし 徳川幕府は、慶長8年(1603)に初代山田奉行として、長野内蔵允を任じ、有滝村に奉行所が開かれました。奉行所は、寛永12年(1625)奉行花房志摩守のとき、この地に移され、慶応4年(1868)徳川幕府が滅びるまで、この地にありました。そして、神宮の警衛とご遷宮のときの造営奉行、伊勢志摩の支配と公事裁判、鳥羽港周辺の海上安全管理をその仕事としました。御屋敷の聡坪数は13,970坪、東西110間、南北127間と広いものでした。このうち堀で囲まれた御役所敷地は1,932坪、東西40間、南北48間あり、ここに、677坪(享和2年 1802)の建物がありました。この記念館は、聡郭内の北西部分にあたり、山田奉行所建物平面図(弘化3年 1846)にしたがって、その主要部分を復元したものです。

出典:日野菜物語:http://hino.anime.coocan.jp/

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