ひらひら言の葉

風のように吹き去る『大切なことば』をこの胸に止めよう

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君たちはなぜ、怒らないのか
                     …大島渚の言葉
2017年12月24日5時0分

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上からの理不尽 許さない
 父が世を去った時、2人の息子は父の言葉を本にして残そうと思った。話し合って、50の言葉を選んだ。題名は一番父らしい言葉にした。
 「君たちはなぜ、怒らないのか」
 父は、「愛のコリーダ」「戦場のメリークリスマス」など数々の傑作で世界的に有名な映画監督・大島渚。2人の息子は、長男で大学教授の武さん(54)と、次男でドキュメンタリー作家の 新 あらた さん(48)である。
 この言葉を、兄弟は父から直接聞いたわけではない。メディアで近いニュアンスのことを言ったという記憶はあるが、著書でも確認出来なかった。「でも今、父が生きていたら絶対にこう言うと思います。若者たちは物わかりがよくなった。昔は議論したり闘ったりしたものですが」。新さんが言う。子供の頃、突然怒り出す父を見るのは嫌だった。今はそれが父の生き方だったと思う。「立場が上の人が理不尽なことを言うのを絶対に許さなかった。そこは自分も似ているところがあると思います」
                
 怒りは故郷へも向けられた。大島渚は幼年期を瀬戸内で過ごすが、6歳の時、父が急死。一家は母の実家を頼って京都市下京区の町家へ移った。1991年、大島は監督・脚本・ナレーションを務め、自ら出演してドキュメンタリー「キョート・マイ・マザーズ・プレイス」を作る。「権力者にはそむかず……隣近所に気を使い……(中略)、何事にも耐え忍ぶ……こうして美しい京都は完成した。若い私にはそれが我慢ならなかった」。作中で大島は母への思いと同時に、京都への憎しみを告白する。ついには「京都なんか燃えてなくなればいいんだ」とまで。その一方で、こうも語るのだ。「私の中の多くのものが京都によって形成されたと思う。私の生活、私の仕事(中略)、私の美学、私の着物……」
                
 「父はアンビバレントな人でした。常識人で、同時に前衛的。変わった人だった」。新さんがしみじみと語った。アンビバレントとは、同じ物事に対し相反する感情を抱くことだ。激しい怒りと、同時に激しい愛。それは大島の作品全てを貫き、輝かせる源泉ではなかったか。
 文・小梶勝男
 写真・佐々木紀明

  ◎大島渚  1932年生まれ。54年、京大法学部卒業、松竹入社。59年、「愛と希望の街」で監督デビュー。60年、「青春残酷物語」で松竹ヌーベルバーグの旗手として注目される。61年、松竹退社。独立プロを設立、「儀式」など数々の傑作を発表。76年の「愛のコリーダ」で世界的評価を得る。83年の「戦場のメリークリスマス」は国内外で大ヒットした。2013年、肺炎で死去。テレビ出演、著書多数。妻は女優の小山明子さん。大島武、大島新さんの共著「君たちはなぜ、怒らないのか」は日本経済新聞出版社から。

憎んだ故郷 穏やかな顔・・・京都市下京区(京都府)
 「怒りっぽいのは営業用と違いますかな」。討論番組「朝まで生テレビ!」で「バカヤロー」と怒っていた大島渚監督。そんなイメージを、幼なじみの 百々 どど 孝司さん(85)はあっさりと否定した。「怒りっぽいどころか、むしろ付き合いがよくて優しい人やった」。「偉い人だから」と百々さんは「大島監督」と呼ぼうとするが、すぐ「ナギちゃん」に戻ってしまう。
 大島が京都市下京区に移ってきたのは6歳の時。家が近く、小学校も同じクラスで、気が合った。中、高も同じ学校。2人とも野球が好きで、近所の公園でよくキャッチボールをした。「ナギちゃんは頭は抜群に良かったけど、スポーツは全然ダメ。野球も下手だった。なのに体育の成績は5だったのが不思議です」
 大島が松竹に入社してすぐ、「いっぺん見に来いよ」と誘われ、友人と神奈川・大船にあった松竹の撮影所を訪ねたこともあった。百々さんたちは一般の見学時間に間に合わなかった。「僕らが遅れたから、ナギちゃんが警備員から散々怒られた。そんなことはあったけど、ナギちゃんが怒ったのをほとんど見たことがない」。百々さんは言う。
 フリーディレクターの伊藤聡さん(61)がこの世界に入ったのは、大学生の頃、映画評論の同人誌で大島にインタビューをしたのがきっかけだった。取材が終わると飲みに行こうと誘われた。和気あいあいと飲んでいると、なぜか突然、大島の機嫌が悪くなり、怒り出した。「映画評論家なんてバカなものになるな。映画なんてのは作っている方が面白いんだ。一緒にやろう」
 そう言われて大島組に入ったが、映画の企画は何度も頓挫。やっと実現したのが「戦場のメリークリスマス」だった。ロケ地はニュージーランド自治領。海外のスタッフを優先して使う取り決めで、助監督として働いたが、クレジットは「日本人兵」、つまり端役の俳優だった。
 「大島組は全く打ち合わせがない。助監督が『ここはどうします』なんて聞いたら、大島さんは激怒します。『それはお前が勝手に考えろ!』と。とにかく緊張させるのが大島さんのやり方だった」。ゲリラ的な演出。脚本やコンテも守らない。本番は基本的に1回だけ。多少失敗しても最初のテイクを採用した。「 画 え のつながりもほぼ無視。それなのに、出来上がってみると、大島さんにしか撮れないすごい映像になっていた」
 「キョート・マイ・マザーズ・プレイス」の時は、ごく内輪でやりたいと言われ、10人ほどで京都に入った。「他の現場ではあんなにピリピリしていた大島さんが、とても穏やかだった。毎日、みんなで酒を飲みまくった。楽しかったなあ」

日常息づく駅前のシンボル
 大島渚が過ごした京都市下京区は、ほとんどが京都駅の北側だ。この地域のシンボルといえば、京都タワーだろう。開業は1964年末。大島が「キョート・マイ・マザーズ・プレイス」で、「憎みぬいて京都を離れ」たと語った上京から、10年後だ。高さ131メートル。骨格がなく、特殊鋼板の円筒をつなぎあわせた、珍しいモノコック構造。現在、年間で60万人前後がタワーの展望室を訪れる。
 地下3階、地上9階のビルの上にタワーが載る構造。今月初旬、展望室に上ると、盆地を囲む山々が赤や黄色に色づき、虹も出て見事だった。ここも紅葉の名所に数えていいだろう。京都タワーホテル企画課の上野環奈さんによると、桜の時期も素晴らしいという。地下3階には大浴場と理髪店がある。「開業当初からあったようです。大浴場は開店すぐの朝7時ごろが、夜行バスで来られるお客さんで混み合います。町の銭湯として使う地元の方も多いです」と上野さん。午後4時ごろ大浴場に入ると、なるほど、いかにも地元らしき人々が次々とやって来る。「観光」という非日常のイメージがあるタワーに、日常が息づいているのが不思議だった。
 風呂上がりに地下1階へ行けば、今年4月オープンの京都タワーサンドがある。様々な飲食店が入ったフロアで店をはしご。ビールを飲み、日本酒を飲み、シメにラーメン。大観光地・京都にいるのに、タワーから出ないまま、一日が幸せに過ぎていった。

[旅のアラカルト]
  ■アクセス  東京駅から新幹線のぞみで約2時間10分で京都。
  ■スカイラウンジ「空」  タワーの根元部分にあり京都の大パノラマを見ながらお酒が飲めるラウンジ。夜景がお薦め。
  ■京都タワーサンド  地下1階は飲食フロア、1階は京都の逸品を集めたマーケット。2階では和の文化が体験できる。2階のおたべ体験道場では、京都の定番みやげの一つ・生八つ橋「おたべ」=写真=を、下ごしらえから完成まで体験できる。自分で作って、抹茶をたてて食べるまで約1時間の講習。前日の午後3時までに要予約。1回1200円。0120・539・489。
  ■京都鉄道博物館  昨年4月オープン。蒸気機関車から新幹線まで、各時代で活躍した53両を展示。運転シミュレーターの操作体験も出来る。大人1200円。
  ■問い合わせ  京都観光Navi=https://kanko.city.kyoto.lg.jp/


町ができる 美しい町が 
   あふれる旗 叫び そして唄…
  河邨(かわむら)文一郎「虹と雪のバラード」(1971年)
2017年12月17日5時0分

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まぶしく切ない青春歌
 「1972年の札幌五輪のための曲を」とNHKが、札幌在住の詩人で医学者の河邨文一郎(1917〜2004年)に作詞を依頼した。その際、「式典調ではなくギターを爪弾きながら歌え、大編成の合唱にも堪えうる。そして長く歌い継がれる曲を」と要望したという。
 妻の宣子さん(74)は、「河邨は詩人ですが、歌詞は書き慣れていないので、苦労したようです。NHKのプロデューサーも厳しい方で、何度も書き直したといいます」と語る。
 一方、曲はすんなりと出来た。NHKからの依頼を受け、売れっ子作曲家の村井邦彦さん(72)が、NHK札幌放送局を訪れると、スタジオにピアノと歌詞を書いた紙が用意されていた。「サビの『ぼくらは呼ぶ あふれる夢に』の詞に導かれるように、旋律がすぐに浮かんだ。昼ごろ始め、夕食時までには完成したなあ」と振り返る。多忙だった村井さんは、河邨と会うことなく帰京。河邨が亡くなるまで、顔を合わせることはなかったのが心残りだ。
 曲は、フォークデュオのトワ・エ・モワが歌い、71年2〜3月のNHK「みんなのうた」で流された。レコード化され大ヒット。その後も長く親しまれ続けている。
 メンバーの芥川澄夫さん(69)は「『影たちが飛び去るナイフのように』など、言葉が鋭利。それまで出合った歌詞とは違う、まさに詩人の作品という印象でした」と話す。
 71〜72年、トワ・エ・モワは、この曲とともに五輪のPRのため何度も札幌を訪れた。この曲をスピーカーで流し宣伝車の上から手を振りながら町を走ったこともあった。訪れるたびに変わる町の姿に驚かされた。新しいビルが建ち、道路が延び、地下鉄が開通し、地下街が誕生……。歌詞にある「町ができる」を、実感した。芥川さんはこう語る。
 「この曲は究極の青春ソング。五輪に集う若者の青春、札幌という町の青春、高度成長という日本の青春が込められているように思えます」
 まぶしく、どこか切ない青春への郷愁。この曲が時代を超えて愛される理由なのかもしれない。
 文・西田浩
 写真・吉岡毅
 ◎虹と雪のバラード 1971年にトワ・エ・モワのほか、ジャッキー吉川とブルー・コメッツなどが競作の形でレコード化。五輪関連番組や関連イベントで流されたほか、五輪選手村の開村式などでも演奏され、札幌五輪に合わせて広く親しまれた。2003年に作詞者の河邨文一郎を囲む会合で、トワ・エ・モワの白鳥英美子さん(67)が「詩碑はどこにあるのですか?」と言ったことがきっかけになり、詩碑設置運動が始まり、河邨が他界した後の05年、大倉山ジャンプ競技場に完成した。

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歓声の先 飛躍した町・・・札幌市・中央区(北海道)

 急傾斜のアプローチはまるで奈落の底に落ちるよう。その向こうに札幌の町が広がる。大倉山ジャンプ競技場を見下ろす位置にある展望台に上ると、足がすくむ。ジャンパーたちは、札幌の町に飛び立つ気持ちなのだろう。
 展望台からは、金メダルの笠谷幸生さんら日本勢が表彰台を独占した70メートル級ジャンプの会場となった宮の森ジャンプ競技場も見える。一方、大倉山で行われた90メートル級ジャンプでは、1回目に2位につけた笠谷さんが、2回目は失敗し7位に沈んだ。歓喜と無念。対照的なドラマの交錯を思い出した。
 大倉山競技場内にある札幌オリンピックミュージアムでは、札幌五輪の模様、オリンピックの歴史、五輪選手が使った競技用具などが展示される。大型スクリーンを使いジャンプを疑似体験できる装置など、様々な競技を体感できるコーナーもあり、家族連れで楽しめる。
 白取史之学芸員は「実際に使われた表彰台、選手のウェア、大会グッズなど、膨大な札幌五輪絡みの資料があり、とても一度には展示できない。企画展などを通し、うまく見せていきたい」と語る。
 五輪に合わせて開通した地下鉄や地下道など、札幌市中心部には、五輪がもたらした施設が随所で見られる。札幌市役所正面には、アテネで採火された聖火の中継場所となった聖火台が残されている。

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  狸 たぬき 小路商店街は、五輪期間中に外国人選手や海外の観戦客の人気スポットとなった。「日本の下町的な風情を保っていたので、異国情緒を感じたのでしょう」と語るのは、商店街の島口義弘理事長(54)。外国人客に対応するため、カタカナ書きの英会話集も作ったという。「自国から持ってきたバッジを土産物店の小物と交換してくれと言われ、店主が戸惑ったという逸話も残っています」と続けた。
 1丁目から7丁目まで、全長900メートルの商店街も、大規模商業施設に押され、苦戦を強いられた時期があった。しかし、若者向けの飲食店が並ぶ6、7丁目、ディスカウントショップが集まる2、3丁目など、ゾーンごとの特徴を出すことで、地元客、観光客ともに人気のスポットとしてよみがえったという。
 大通公園に立つさっぽろテレビ塔の地上90メートルの展望台に上ると、碁盤の目状に美しく整えられた札幌の市街地が広がる。その町づくりに五輪が果たした役割は大きい。今、札幌は、2026年冬季五輪の招致に動いている。五輪に連動して、72年大会前後で整備された都市基盤のリニューアル、町のバリアフリー化を進める計画だ。もし2度目の札幌五輪が実現したら、今度は町がどう変わるのか。ふとそう思った。

「長野」で再び 不思議な縁
 「虹と雪のバラード」をヒットさせたトワ・エ・モワは、1973年に解散。芥川澄夫さんはレコード会社の制作者に転身、白鳥英美子さんはシンガー・ソングライターとなり、それぞれの道を歩む。
 白鳥さんは、98年の長野五輪にも深くかかわることになる。招致に向け、歌詞を公募した長野五輪賛歌「花束そえて」の作曲を手がけ、関連イベント出演のため、たびたび現地入りした。「これも『虹と雪』の印象が鮮烈だったからなのでしょう」と笑う。
 長野五輪が近づき、「虹と雪」に再度光が当たる。97年、NHKからトワ・エ・モワとしてこの曲を番組で歌ってほしいという依頼があった。
 「もしかしたら、これが最後のチャンスかもしれない。20年以上人前で歌っていないので、不安だったが、放送まで、半年の期間があり、十分に練習できる。1回だけならと受けることにしました」と芥川さん。無事に終え、周囲の評判も良かったが、「実はずっと手が震えていた」と振り返る。
 ただ、久しぶりに歌って、気分は良かった。芥川は“現役復帰”を決意し、トワ・エ・モワは再結成した。2人は五輪会期中、スノーボード競技の会場となった山ノ内町でのコンサートに出演した。もちろん、「虹と雪」も披露。歌詞の「サッポロの地」を「長野の地」に替えて歌った。
 白鳥さんは「冬のオリンピックとトワ・エ・モワは不思議な縁で結ばれているみたいですね」と語った。

[旅のアラカルト]
 ■アクセス 羽田空港から新千歳空港まで1時間30〜40分ほど。新千歳空港から札幌駅まで快速エアポートで約40分。
 ■時計台 札幌市のシンボルと言える2階建ての洋風建築。1878年、北海道大学の前身の札幌農学校の演武場として建てられ、時計塔はその3年後に付設された。国の重要文化財。
 ■北海道庁旧本庁舎 塔屋のあるレンガ造りの建築物で、1888年に完成。赤れんがの愛称で親しまれる。国の重要文化財。
 ■中島公園 ボート遊びのできる菖蒲池、コンサートホールをはじめ文化施設、日本庭園などがあり、市民の憩いの場となっている。

 ■ジンギスカン 羊肉などを鉄鍋で焼く北海道の郷土料理=写真=。風味の強いマトン、淡泊なラムを食べ比べられる店も。
 ■問い合わせ 札幌市経済観光局観光・MICE推進部=(電)011・211・2376。




からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
              …北原白秋「落葉松」(1921年)
2017年11月26日5時0分

  安寧得て気づいた美しさ

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 ふと口をついて出る詩がある。「落葉松」もその一つだろう。
 からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き。
 からまつはさびしかりけり。
 たびゆくはさびしかりけり。

 北原白秋が信州・中軽井沢の星野温泉を訪れたのは1921年(大正10年)の夏。旅から帰り「十月、突然に感興が湧いて」詩が成ったと記す。再び「詩へ 還 かえ つて来た」とも。
 五七調の4行詩が8連続く。平仮名の繰り返しが美しい響きを生み、視覚的にも、どこまでも続くまっすぐなカラマツ林を思わせる。今でこそ軽井沢を象徴する風景だが、歴史は新しい。
 浅間山の噴火で長く樹木のない荒野だった一帯で、官民が植林事業を始めたのは明治になってから。「針葉樹なのに落葉するカラマツは中部以北の固有種。まだ若い林が、九州出身の白秋には美しく見えたのでしょう」。地元で森づくりの活動を続ける星野裕一さん(72)は考える。
 詩人は独り林の中へ、さらに奥の細い道へと進む。霧雨、けぶりたつ浅間 嶺 ね 。内省的なこの詩を収めた「水墨集」の後書きには「悲惨な複雑な曲折を経てやうやうに 辿 たど りついた」とある。それまでの詩集「邪宗門」「思ひ出」の異国的な色彩は消え、静かな枯淡の境地を感じる。
 白秋36歳。その年の春、終生の妻となる菊子をめとった。童謡や新民謡の創作も忙しくなっていた。生まれ育った福岡県の水郷・柳川の商家は没落、人妻との激しい恋で罪に問われ、2度の結婚と破局を経た後の、初めての安寧だった。
 「寂しい詩ですが、最後が大事です」と、柳川にある北原白秋生家・記念館の大橋鉄雄館長(65)は言う。
 世の中よ、あはれなりけり。
 常なけどうれしかりけり。
 山川に山がはの音、
 からまつにからまつのかぜ。

 「世は無常だけれど、人生には喜びがある、と」。波乱の青春は終わり、詩人は移ろいゆく自然の中にも形のない永遠があることに気づく。常緑ではない「落葉松」に詩心を動かされたゆえんだろう。

                          文 松本由佳
                          写真 吉岡毅
          ◇
  北原白秋  詩人・歌人。1885〜1942年。
実家は福岡・柳川にあった酒蔵「油屋」。19歳で上京し、早稲田大学英文科予科に入学。与謝野鉄幹・晶子夫妻の門下で、雑誌「明星」に作品を寄せた。09年第1詩集「邪宗門」を刊行。鈴木三重吉が創刊した雑誌「赤い鳥」に数多くの童謡も発表した。旅を重ね、引っ越しも多かった。東京各地や神奈川・三崎、小笠原父島などを転々とした。「落葉松」は21年、「明星」に全7連で発表し、23年、途中に1連が加えられ詩集「水墨集」に収められた。岩波文庫「北原白秋詩集」などで読める。

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  木立の向こうに浅間山…中軽井沢 長野県軽井沢町

日を受けてカラマツ林は金色に輝き、針のような葉がはらはらと散る。軽井沢の晩秋は美しい。
北原白秋が 沓掛 くつかけ 駅(現中軽井沢駅)を降り、星野温泉を訪れたのは、妹の夫で、欧州帰りの画家、山本 鼎 かなえ の主宰する芸術教育夏季講習会に講師として参加するためだった。童心を重んじ、子供の自由な表現の大切さを説く1週間の講習会には作家の 巌谷小波 いわやさざなみ や島崎藤村も講師陣に名を連ね、全国から100人以上の若い教師を集めた。大正デモクラシーの熱気が、ひなびた山の湯にも及んでいた。
 「ワッショイワッショイ、子供の祭りだ――」。白秋は陽気に講座を始め、すっかり人気者になる。「夜には講師陣も参加者も一緒に踊ったり、芸を披露したりと、どんちゃん騒ぎだったようです」と、軽井沢高原文庫の 大藤 おおとう 敏行副館長(54)が笑う。「他分野の人との交流に白秋も刺激を受けたのでしょう。当時書いた詩論は気合が入っています」
にぎやかな中に、ふと訪れる静寂もあった。白秋は到着の翌朝、浅間山が煙を上げているのに驚き、「向こうの柔らかな 落葉 から 松 まつ 山に涼しい霧が流れて行く景色も珍しかった」と書いている。
地元の自然や歴史に詳しい星野裕一さんが、「この家です」と案内してくれたのは白秋が滞在した鼎のアトリエ。 瀟洒 しょうしゃ な洋館は今も別荘として使われている。講習会の会場は、今は「星のや 軽井沢」となっている旧星野温泉旅館敷地内にあった材木小屋。にわか仕立ての会場は、講師の一人だった思想家の内村鑑三によって「星野遊学堂」と名付けられ、後に軽井沢高原教会のある場所に移された。
星野さんの祖父は、星野リゾート(旧星野温泉)の創業者。自身も同社に長く勤めた。大正初期に開かれた温泉は文化人に愛され、2代目経営者の伯父は歌人の中西悟堂と自然保護活動に乗り出した。星野さんも現役時代から森づくりに携わる。白秋の歌ったカラマツの大木が台風で軒並み倒れるのを目にして、「本来の植生と違う森はもろい」と痛感した。伐採地を広葉樹の森に戻す「どんぐり返し」運動を始めて30年以上。「カラマツが憎いわけではありませんが」と苦笑する。
「白秋が歩いた林に行きましょう」。近くの旧草津街道沿いに広がる国有林へ。郷土史家の本に、偶然会った詩人と歩いたとあるのを見つけ、ここだと推測したという。
高さ20〜30メートルはあるカラマツ林には「明治44年植林」と書いた看板があった。「白秋が訪れた当時は10メートルもなかったはず。浅間山もよく見えたと思います」と星野さん。
今は木立を透かしてやっと見える浅間山は、うっすらと白い雪を頂いていた。

  実業家が残した「木の貯蓄」
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緑の木立に包まれる避暑地・軽井沢。白秋も愛した美しい風景が生まれた背景に、後の中央線となる甲武鉄道を走らせた鉄道王・雨宮敬次郎(1846〜1911年)の存在があることは意外と知られていない。今や市街地として別荘地やホテルが立つ一帯を、私財を投じて開拓、カラマツを植えた実業家だ。
軽井沢と沓掛はかつて中山道の宿場町として栄えるが、明治期には廃れる。荒涼とした草原を好んで外国人宣教師らが別荘を建て始めた1883年(明治16年)、雨宮は肺を患い、療養のために軽井沢を訪れる。
 「雨宮様はここに骨をうずめるつもりでした」と、軽井沢町歴史民俗資料館(来年3月末まで冬季休館中)の学芸員、瀬原史織さん(28)が言う。資料館が立つ離山公園は、かつて人々から「雨宮御殿」と慕われた雨宮邸の敷地で、今も母屋や蔵が残っている。
甲州生まれで相場師とも呼ばれ、 毀誉褒貶 きよほうへん の激しかった雨宮だが、死を意識し、自らの墓地をつくろうと不毛の地の開墾に臨んだ。県から払い下げも受け、1100ヘクタールもの土地所有者になる。だが、ブドウや麦の栽培、牧畜と試みるがうまくいかない。最後に思いついたのが、良材で早く育つカラマツだった。700万本もの木を植えた。
「金もうけではない、死後にも残る『木の貯蓄』なのだと言っていたそうです」と瀬原さん。軽井沢町内には、雨宮新田、雨宮池などの地名が今も残る。

  [旅のアラカルト]
■アクセス  東京から軽井沢まで新幹線で1時間。しなの鉄道で中軽井沢駅まで4分。

■ピッキオ  国設「軽井沢野鳥の森」で自然観察ツアーなどを行う団体。「日本野鳥の会」創立者の中西悟堂の精神をくむ。野生のクマとの共生にも力を入れ、ベアドッグ=写真=による追い払いで効果を上げる。ベアドッグの繁殖を目指し、インターネットで資金を募っている。(電)0267・45・7777。
■軽井沢町立中軽井沢図書館  中軽井沢駅に併設され、町外の人も利用できる。2013年開館以来人気を集め、来年には来館者が100万人を超える見込みという。(電)0267・41・0850。
■軽井沢高原文庫  「軽井沢ゆかりの文学を訪ねて」展を30日まで開催している。12月1日から来年2月末までは冬季休館。(電)0267・45・1175。
■問い合わせ  軽井沢観光会館=(電)0267・42・5538。



手塚治虫「ガラスの地球を救え」(1989年) 
自然がぼくにマンガを描かせた
2017年11月19日5時0分
マンガの神様 生命見つめ
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手塚少年が昆虫採集に明け暮れた『千吉稲荷神社』

 「ブラック・ジャック」や「火の鳥」などのマンガを大ヒットさせただけでなく、代表作の「鉄腕アトム」をテレビアニメとしても成功させた手塚治虫。「マンガの神様」が後進に与えた影響は大きい。
 中学時代に手塚作品を読んで衝撃を受けた藤子不二雄(A)さん(83)は2008年に東京都内で開かれた「手塚治虫アカデミー」でパネリストとして登場し、「日本のマンガが世界一となったのも、手塚先生の出現があったから」と言い切ったほどだ。
 数多い作品に共通するテーマは何か。自著では、5歳頃から戦争をはさんで24歳頃まで過ごした兵庫県宝塚時代の体験に触れ、「自然に根ざした“生命の尊厳”」と書いている。
 当時の宝塚は自然にあふれ、手塚少年は山や川、野原を駆け回り、人間も自然の一部だと学ぶ。
 「自然がぼくにマンガを描かせた」。そう思うようになった。宝塚市立手塚治虫記念館係長の矢野 喬士 たかし さん(36)は「命や自然の大切さを誰でも分かるマンガで表現したのが先生の偉業です」と話す。
 手塚は終戦の年、学徒動員先の大阪で空襲に遭う。 焼夷 しょうい 弾が体のわきをかすめ、死を覚悟したが、九死に一生を得た。命の大切さを学んだ反面、死と隣り合わせになった「悪夢のような記憶」が、後に名作の数々を描かせた。
 永遠の命を望む人間の愚かさを描いた「火の鳥」や、単に10万馬力の少年ロボットが活躍するのではなく、暴走する科学技術が人類を危機に陥れる世界を描いた「鉄腕アトム」などがそうだろう。
 著書には「生命のないところに未来はない」という言葉もある。手塚少年が昆虫採集をした宝塚市の 千吉 せんきち 稲荷神社を訪ねてみた。開発が進んだ住宅街の中、そこにだけクヌギなどの雑木林が残っていた。かつてこの辺りはクワガタや珍しいチョウの宝庫だったという。
 地面に倒れ、朽ちた木をそっとどけると、「治虫」の名前の元になったオサムシなど、多くの甲虫がひっそりと 棲 す んでいた。開発から逃れた小さな里山の中に、今も手塚の原点が見えるようだった。
                          文・西條耕一
                          写真・岩佐譲
 ◎手塚治虫 1928〜89年。大阪府豊中町(現・豊中市)生まれ。本名は「治」。33年に現在の兵庫県宝塚市に転居。小学3年頃からマンガを描き始め、46年、「マアチャンの日記帳」でデビュー。52年に上京。生涯で15万ページ以上を描き、子供の娯楽だったマンガを世界に通用する日本の文化に押し上げた。自身も医師免許を持ち、異色の天才外科医が主人公の「ブラック・ジャック」で医療マンガの先駆者に。今回の名言は、手塚の文章や講演を集めた「ガラスの地球を救え」(光文社知恵の森文庫)から引用した。

スミレの街 作品育む 宝塚市(兵庫県)

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 「マンガの神様」手塚 治虫 おさむ が幼い頃から、東京に拠点を移す24歳頃までを過ごした兵庫県宝塚市。その作品の魅力をPRする同市立手塚治虫記念館は、阪急宝塚駅近くから宝塚大劇場に続く「花のみち」の先にある。
 途中、すれ違った若い女性たちはいずれも長身で、さっそうとした歩き方から宝塚音楽学校の生徒のようだ。まさに“スミレの街”だ。
 ヨーロッパの古城をイメージした記念館は1994年オープン。手塚の原画や愛用品など約300点を展示するほか、マンガの単行本など約2000冊、アニメ約760話を楽しむことができる。
 開館初年度は入館者が約54万人もあったが、ここ数年は年10万人前後で伸び悩む。リピーターを増やすため、手塚にちなんだ企画展を年3回行うなど工夫を凝らしている。
 ただ、外国人の比率は高く、同館の矢野 喬士 たかし さんは「来館者の1割を占めます」と話す。関西を周遊する台湾からのツアーでは、コースの一つになることもあるという。
 確かに、館内のアトムのキャラクターや館外の火の鳥像と一緒に記念写真を撮る外国人は多い。海外での手塚の評価の高さを改めて感じた。

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 記念館から御殿山地区方面に歩くと、閑静な住宅街の中に樹齢100年以上といわれる大きなクスノキが見えてくる。今は別の人の住宅になっているが、かつては手塚の旧居のシンボルだった。
 近くに住む八尾幸次郎さん(77)は昔から手塚家と親交があった。八尾家は元々、阪急宝塚駅前で薬局を開業していた。「戦後間もない頃、近くに本屋がなかった。祖父が薬局の一角に『マンガ雑誌ぐらい置いとこか』と言って雑誌の販売を始めると、まだ20歳ぐらいの手塚先生がよく買いに来ていました」
 手塚はそのマンガ誌から作品のヒントを得ることもあっただろう。「手塚先生の偉大な作品の一端を、うちの薬局が担ったはず。それが我が家の誇りです」と笑う。
 自身が小学校高学年の頃は手塚家に薬を配達するのが日課だった。手塚の母に毎回「ぼっちゃま、ご苦労さま」と駄賃をもらったことが忘れられない。
 その母親に手塚少年は連れられて宝塚大劇場に通い、女性だけが演じるきらびやかなショーに魅了された。旧居辺りの一角は、かつて「歌劇長屋」と呼ばれ、越路吹雪ら歌劇団のスターも住んでいた。
 そんな少年が後に、王位を狙う悪人と戦うため、王子として振る舞う王女サファイアを主人公にした「リボンの騎士」を思いついたのも自然なことだ。矢野さんが「手塚先生が宝塚出身だということが最も分かる作品です」と胸を張ったのを思い出した。
手塚治忠?手塚泣虫?
 手塚治虫が死去してから30年近くたつが、今もマンガの復刻版だけでなく、往年の手塚について書かれた著書が数多く出版されている。
 今年4月に出版された「親友が語る手塚治虫の少年時代」(和泉書院)は、宝塚など手塚ゆかりの地を研究する田浦紀子、高坂 史章 ふみあき さんの2人が編著者。手塚の弟・妹や、宝塚時代の同級生の講演などから手塚の若い頃のエピソードを数多く集めた労作だ。
 中でも、手塚の同級生の話として、本名の「治」からペンネームを「治虫」にした詳細な経緯が面白い。
 小学4年の時、昆虫図鑑に載っていた、目玉が大きくてひょろ長いオサムシを見た級友が手塚の顔つきや体形に似ていたと思ったのか、「手塚オサムシや」と冗談を言い、手塚が意気揚々と「命名 手塚治虫」と黒板に書いた、という話が披露されている。

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盗聴は、・・・

メルケル独首相の携帯電話の通話が米情報機関に盗聴されていた疑いが浮上するなか、同首相は、米国の行為は信頼関係の裏切りで容認できないとした上で、米政府との情報共有のあり方を見直す必要もあり得るとの考えを示した。

首相は記者団に対し、オバマ大統領との前日の電話会談では、同盟国間の信頼が重要であり、そのような信頼を再構築する必要があると伝えたとした上で、「友人同士の間では、たとえそれが誰であっても監視するような行為はまったく受け入れられない」と語った。

2017/12/24(日) 午前 10:55 [ さんふらわあ南港乗船券販売所・関汽交通社 ]


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