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歴史の探究

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歴代天皇の葬送と墓地2〜25代以前・後半

(つづき)
 
 前半では、「日本書紀」「古事記」や「延喜式」治部省諸陵寮(巻21から、1〜25代の天皇陵へ、文献学的に、アプローチしましたが、それらで、史実に接近するのは、限界なので、後半では、考古学的に、アプローチすることにします。
 
○3〜5世紀の奈良盆地・大阪平野の古墳の変遷
 まず、奈良盆地・大阪平野の大型古墳は、考古学的に、次のような順序で、造営されたと推定されています。
 
‐奈良盆地南東部
・箸墓古墳(奈良県桜井市箸中):纏向古墳群、3世紀後半・前方後円墳・全長278
・西殿塚古墳(奈良県天理市中山町):大和古墳群、3世紀後半・前方後円墳・全長230
・桜井茶臼山古墳(桜井市外山):鳥見山古墳群、4世紀初め・前方後円墳・全長207
・メスリ山古墳(桜井市高田):鳥見山古墳群、4世紀初め・前方後円墳・全長224

[10崇神]行燈山古墳(天理市柳本町):柳本古墳群、4世紀前半・前方後円墳・全長242

[12景行]渋谷向山古墳(天理市渋谷町):柳本古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長300

 
‐奈良盆地北部
[14/15神功]五社神古墳(奈良市山陵町):佐紀盾列古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長267

[11垂仁]宝来山古墳(奈良市尼辻西町):佐紀盾列古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長227

・佐紀陵山古墳(奈良市山陵町):佐紀盾列古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長207

[13成務]佐紀石塚山古墳(奈良市山陵町):佐紀盾列古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長218

 
‐大阪平野南部
・仲ツ山古墳(大阪府藤井寺市沢田):古市古墳群、5世紀初め・前方後円墳・全長290

[17履中]上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市西区石津ヶ丘):百舌鳥古墳群、5世紀初め・前方後円墳・全長365

[15応神]誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市誉田):古市古墳群、5世紀初め・前方後円墳・全長425

[16仁徳]大仙陵古墳(堺市堺区大仙町):百舌鳥古墳群、5世紀前半〜半ば・前方後円墳・全長525

[19允恭]市ノ山古墳(藤井寺市国府):古市古墳群、5世紀後半・前方後円墳・全長227
・土師ニサンザイ古墳(堺市北区百舌鳥西之町):百舌鳥古墳群、5世紀後半・前方後円墳・全長290

[21雄略]岡ミサンザイ古墳(藤井寺市藤井寺):古市古墳群、5世紀終り・前方後円墳・全長245

 
[ ]内:天皇陵(数字は代)
 
これらをみると、一部が、天皇陵に指定されていますが、それらすべてを信用すれば、天皇即位の順番と、入れ違いがみられるので、その天皇陵の指定自体がミスだったのか、その天皇が非実在なのに天皇陵に指定したのか、その天皇の古墳の造営が先行されたのかの、いずれかと推測できます。
古墳造営の先行といったのは、有力者の古墳が、生前から造営開始されていたからで、同時に複数造営され、完成にズレができれば、入れ替わる可能性も、否定できません。
 上記から、4世紀前半の、崇神天皇(10代)陵=行燈山古墳以前にも、奈良盆地南東部で、大型古墳が、造営されているので、それらは、1〜9代の天皇陵ではないかとの、疑念が湧き起こりますが、それを検討するためには、次の3項目を、明確にしておく必要があります。
 
○初期天皇の在位年代の推定
記紀神話で、歴代天皇の在位年代と干支表記は、1741代で、ほぼ一致している一方、1〜16代で、食い違っており、1741代の平均在位年数は、(697-400)/25=11.8812年なので、1〜16代+神功皇后が、全員実在したとし、12年でさかのぼれば、神武即位が196年、崇神即位が304年になります。
 崇神天皇(10代)の時代は、4世紀前半に、実在性が有力視されているので、この推定と合致します。
また、神武天皇(初代)の時代が、2世紀終りだとすれば、この時期に、後漢の銅鏡(7期)分布の中心が、九州北部から畿内へと移動し、大型の帆立貝式前方後円墳が、3世紀初めから、奈良盆地で、突然出現するようになったので(後述)、これも、推定に合致したと、いえるのではないでしょうか。
 
○邪馬台(壱)国=九州北部説の確実性
「魏志倭人伝」によると、帯方郡〜邪馬台国間は、1万2000余里、帯方郡〜伊都国間は、1万500余里(=7000100010001000余里+500里)なので、伊都国〜邪馬台国間は、1500余里以内となり、対馬〜壱岐間が、1000余里なので、とても畿内まで到達できず、邪馬台国=九州北部説は、確実です。
 よって、邪馬台国=畿内説は、成り立たないので、大和に、それを持ち込んではならず、大和と卑弥呼・壱与(台与)等も、まったくの無関係ですが、大和は、3世紀初めから、文化の中心だったのは、遺跡や古墳の発掘調査により、事実だと判明しています。
 
○欠史八代の実在性
第1に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間の皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、これらは、兄弟間の皇位継承なので、「日本書紀」一書が史実、本文の父子継承は、捏造と導き出せます。
1〜13代の父子継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子継承に改変するための先例を、事前に国史の中へ、紛れ込ませておいたと推測できます。
 第2に、当時の皇后は、皇族が通例でしたが、5代は、尾張の連、7代は、磯城の県主、8代は、穂積の臣、9代は、物部氏出身が皇后で、物部氏以外、後世に有力豪族でなく、皇后の息子が、皇太子→天皇になっているので、もし、4人が、非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいはずです。
 特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉妹に各2人)もいるのに、非皇族妻が、皇后で、その1人息子が、天皇になっており、最も捏造したい所が、露見しているので、史実が濃厚です。
 ちなみに、藤原不比等の娘・光明子が、非皇族で皇后になったのは、729年で、「日本書紀」の完成と、不比等の死去が、720年なので、光明皇后にするための先例を、事前に国史の中へ、紛れ込ませておいたとみることは、できません。
第3に、物部氏出身のイカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしないでしょう

つまり、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。

 
 こうして、初期天皇の在位年代を推定し、邪馬台国=畿内説が成立せず、欠史八代が実在したと、説明して、はじめて、崇神天皇陵=行燈山古墳と仮定し、1〜9代の天皇陵へと、アプローチできます。
 
○3世紀代の奈良盆地の大型古墳
つぎに、奈良盆地には、3世紀代の大型古墳が、次のように、15基あります(このうち4基が、上記と重複)。
 
‐纏向古墳群:大和国城上郡
・纏向石塚古墳(奈良県桜井市太田):3世紀初めか前半か半ば・帆立貝式前方後円墳・全長96
・纏向勝山古墳(桜井市東田):3世紀前半・帆立貝式前方後円墳・全長115
・纏向矢塚古墳(桜井市東田):3世紀半ば・帆立貝式前方後円墳・全長96
・ホケノ山古墳(桜井市箸中):箸中古墳群、3世紀半ば・帆立貝式前方後円墳・全長80
・箸墓古墳(桜井市箸中):箸中古墳群、3世紀後半・前方後円墳・全長278
・東田(ひがいだ)大塚古墳(桜井市東田):3世紀後半・帆立貝式前方後円墳・全長120
 
‐柳本古墳群:大和国城上郡
・マバカ古墳(天理市成願寺町):3世紀前半・帆立貝式前方後円墳・全長74
・黒塚古墳(天理市柳本町):3世紀終り〜4世紀前半・前方後円墳・全長128
・大和天神山古墳(天理市柳本町):3世紀終り〜4世紀前半・前方後円墳・全長113
 
‐大和古墳群:大和国山辺郡
・西殿塚古墳(奈良県天理市中山町):3世紀後半・前方後円墳・全長234
・中山大塚古墳(天理市中山町):3世紀後半・前方後円墳・全長130
・馬口山古墳(天理市兵庫町):3世紀後半・前方後円墳・全長110
・ヒエ塚古墳(天理市萱生町):3世紀後半〜4世紀前半・前方後円墳・全長130
 
‐鳥見山古墳群:大和国城上郡・十市郡
・桜井茶臼山古墳(桜井市外山):4世紀初め・前方後円墳・全長207
・メスリ山古墳(桜井市高田):4世紀初め・前方後円墳・全長224
 
このように、15基もあるので、もし、文献学的な天皇陵の指定を信用しない場合には、1〜9代の天皇陵は、この中に存在しているとみるのが、自然ですが、天皇は、9人なので、天皇陵以外の古墳も、混在していることになります。
当時の天皇は、豪族の盟主程度の存在で、豪族と、ほぼ対等な関係だったので、大型古墳の被葬者は、天皇か、天皇と同盟した地元豪族と推測でき、天皇家は、地元豪族達と、おそらく婚姻関係で結び付いていたでしょう。
 
○1〜10代の天皇の妻の出身
さらに、記紀神話によると、1〜10代の天皇の妻の出身は、次のように、まとめることができます。
 
‐初代・神武:日向(阿多)、神の子孫*
‐2代・綏靖:磯城(県主・ハエの妹)、春日、神の子孫* → 妻の父か兄2人
‐3代・安寧:磯城(県主・ハエの娘)、春日(大間)、神の子孫* → 妻の父2(1)人
‐4代・懿徳:磯城2(県主・ハエの弟イテの娘)、皇族* → 妻の父3人
‐5代・孝昭:磯城(県主・ハエの娘)、大和、葛城(尾張)* → 妻の父か兄3(2)人
‐6代・孝安:磯城(県主・ハエの娘)、十市、皇族* → 妻の父3(2)人
‐7代・孝霊:磯城*、十市、春日、皇族 → 妻の父5(4)人
‐8代・孝元:河内、穂積(物部)氏2* → 妻の父3人
‐9代・開化:葛城、丹波、穂積(物部)氏*、和珥(丸邇)氏 → 妻の父4(3)人
10代・崇神:紀伊、葛城(尾張)、皇族*
 
*:皇后
※( )内:重複のない実際の人数
※磯城=大和国城上郡(纏向遺跡が立地)+城下郡(唐古・鍵遺跡が立地)
※春日=大和国添上郡(曽布=添=添上郡+添下郡)
※葛城=大和国葛上郡+葛下郡
※倭(やまと)の六県(むつあがた)=曽布(添)県+山辺県+磯城県+十市県+高市県+葛城県
 

以上より、2〜9代の天皇の妻の父か兄は、約20人いますが、磯城(城上郡・城下郡)・十市・春日(添上郡)の地域や、物部氏(山辺郡)・和珥氏(添上郡)の本拠地は、大和〜柳本〜纏向〜鳥見山古墳群(山辺郡〜城上郡〜十市郡)の位置と、おおむね一致します。

したがって、もし、文献学的な天皇陵の指定を信用しない場合には、3世紀代の15基の大型古墳は、天皇陵と、天皇の妻の父か兄の地元豪族の、約20人のうちの何人かの墓とみるのが、有力なのではないでしょうか。
 
なお、記紀神話によると、1〜9代の皇宮の立地は、次のようです。
 
・高市(現・橿原市):4人(1・3・4・8代)
・葛城(現・御所市):3人(2・5・6代)
・城下(現・田原本町):1人(7代)
・春日(添上、現・奈良市):1人(9代)
 
これらを信用し、3世紀代の15基の大型古墳と、照らし合わせると、1〜9代の皇宮は、大和〜柳本〜纏向〜鳥見山古墳群(山辺郡〜城上郡〜十市郡)と、まったく一致しないことがわかり、1〜9代の天皇陵は、皇宮と接近させず、天皇の妻の父か兄の本拠地の付近に造営したと、導き出せます。
そして、10代・崇神天皇の時代に、はじめて、皇宮(磯城の瑞籬/みずかき宮)と天皇陵(行燈山古墳、柳本古墳群、城上郡)が、接近して立地させ、城上郡の纏向遺跡(2世紀終り〜4世紀半ばの、集落ではない都市)は、3世紀終り〜4世紀初めが、最盛期だったようです。
 
 これとは反対に、もし、文献学的な天皇陵の指定を信用する場合には、1〜9代の天皇陵は、高市・葛城・添上(春日)に分布し(前の章)、3世紀代の15基の大型古墳は、すべて天皇の妻の父か兄の地元豪族の墓で、崇神天皇の時代に、はじめて、天皇が、前方後円墳を採用したと、みることもできます。
 纏向遺跡では、東西の軸線上に、大型の掘立柱建物等の4棟直列した祭祀施設が、発見され、それらは、3世紀前半〜半ばの間だけ、存在していたようなので、天皇が、地元豪族と結び付く中で、3世紀後半から、天皇の勢力が、磯城の地元豪族の勢力よりも、優位になっていったとも、読み取れます。
 
私は、弥生期に、地域間で戦争していた時間を、古墳期に、平和の意思表示として、古墳を造営する時間と、鉄器をはじめとする舶来品等を交易する時間に、切り替えたとみています。
当時は、丸木舟か準構造船で、大勢の人々の海上移動が、できなかったので、広域間での戦争が、成り立たず、そのうちに、交易で交流するほうが得策だと、合意形成され、その中で、畿内は、輸入(吉備・丹波)・輸出(東海・北陸)ルートとも、2方向が確保できたので、繁栄したと推測できます。
 輸入の場合は、売り手側が、2者なら、買値の比較ができるため、買い手側が、有利になり、輸出の場合も、買い手側が、2者なら、売値の比較ができるため、売り手側が、有利になるからで、こうして、畿内は、売り買いともに、輸入元の九州北部よりも、優勢になれたとみるのが、自然です。
 
(つづく)

 


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