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週末なのでスーパー銭湯の体重計に乗りに行く予定です。 23日、鎌倉チャリ巡りをしたのですが、昼食にカツサンド 25日、東京外出のときの昼食はマック。 このときはチーズバーガーとポークの揚げ系でないのを選びましたが・・・ そして、昨日、今日と便秘 条件はよくないのですが、上記以外はがんばりました。 毎日納豆、魚で、獣系の肉は控えました。 卵も24日に一個だけ 揚げ物系もゼロで、九時以降の帰宅は晩御飯抜きにしました。 楽しみです。 下記ネタは16日本牧巡礼の続きです。 多聞院、たぶん、たぶんいんと読むのでしょう。
ちがうかもしれませんが、ワタシはそう読みました。 観世音と彫られた石柱に、『市内三十三所第十九番』と彫られています。
弘法大師と彫られた石柱に『○○(読めない)十八番』と彫られています。 霊場の肩書きが二つあるように思えます。 どうもここもワタシが探している『市内弘法大師二十一ヶ所』のひとつと思われます。 幼稚園の園庭に本堂があるので
怪しげなワタシは柵の外からのお参りになります。 ここにも墓地があるのですが、 少し離れたところに墓地があります。 そちらにも寄ってきました。 2009年5月16日訪問
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1.お寺巡り
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冷たい雨が朝から降っていますが 半袖で出勤しました。 体重計が寝る前に計った数値より 朝食後の数値のほうが低くなっています。 うれしい誤算なのですが なんででしょう? ネタは16日の本牧巡礼の都筑です。 三渓園に向かう道にはいりました。
吾妻神社は公園の前にありました。 手水鉢には大きな赤い字で『魚がし』と書かれていました。 やはり、昔は漁業の町だったことがわかります。 (ワタシが知らないだけで今も漁業が残っているのかもしれません) 案内板に丁寧に神社の歴史が書かれていました。
新田義貞が鎌倉を滅ぼしたのが一三三三年ですから 彼の部下が一二五四年に勧請したと書かれていると この間八十年の差は長すぎます。 何か矛盾を感じます。 なにぶん八百年もの昔のできごとなので 想像するだけでも楽しいものがあるので 多少のおかしなことは気にしないで行きます。 案内板
吾妻神社由緒 一、鎮座地 横浜市中区本牧原二十九−十八 一、御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 一、創 立 文和甲午 (西暦一二五四年) 一、例祭日 正月十七日 七月十七日 當社は文和甲牛三年正月十七日新田義貞の臣篠塚伊賀守平重廣の勧請せしものにして旧御神躰に文和甲午三年正月十七日祠基新謹平重廣ご?(金へんにし召)記す 一説に曰く 當社は元南總木更津吾妻村の吾妻社の御神躰にして甲胄を穿ち剣を持ちたる御神躰なり浪に漂ひ給ひしを此地の漁師吉太夫といふ者近海に網を投じて當社の御神躰を持たり依って天和三年神社を営建し吉太夫を神官とせし、然れ共旧神主橋本家所蔵の神柢官領の書類を見るに吉太夫は天和年間の人にあらず寛政年間の人にして百五十年の相違あるを以て南總吾妻神社を調査せるも木詳なり。 旧御神躰(延喜年間の鉈彫作)は甲胄を若は給はず古代服にたつき形の袴を着用し給ひ披創立躰なり。 背後に文和甲午三年正月十七日云々(畧文)平重廣とあるによって漂着説よりも篠塚伊賀守の勧請説が正しきといふべし、ただし右記の御神躰はおしくも先の戦災で消失してしまい現存しない。 霊感傳説 一、當社は古来より小児の虫の病並に癪病を煩ふ者祈れば霊験あり全快の後は粟餅を献すと風土記稿にも載せたり此の起源は元禄年間以前本牧に投宅のありと時代献殻の虫?(ネに友)ひ祈願の験ありしょり何時か虫癪の病に煩ふもの信仰するに至れりと云う 一、武蔵久良岐本牧本郷 吾妻神社 明治六年十二月 被列村社候事 神奈川縣 散策していて気がついたのは
砲弾を抱えた狛犬です。 南区の日枝神社でも見たことがあります。 戦災で焼けたにしては、戦勝祈願でも期待できたのでしょうか? 手水鉢のそばに、猿と蛙の置物と、生きたネコがいました。 ネコはともかく、猿と蛙は何か謂れがあるのでしょうか? 帰ってからの宿題がまたできました。 2009年5月16日訪問
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本牧もずいぶん変わりました。
現在との比較は、私が少年のころですから 40年くらい前です。 市電が通り、国道16号線からは海が見えました。 京浜東北線(このあたりでは根岸線)が開通し 海が見えなくなりました。 マギーミネンコ(もう知っている人はいないかも)がこの16号の歌を歌ってたし、 山口百恵の横須賀ストーリーもこの16号のつながりだと思います。 ちょっとグレた感じの歌が似合う町という印象です。 ワタシの高校のエリアでもあります。 そして、首都高が上を走るようになり、 本牧の町も整備され、にぎやかになってきました。 歌のついでですが、横浜の代表的なご当地ソングのブルーライトヨコハマや 横浜たそがれが流行ったころは、まだ市電が通り、海も少しは近くにあったような記憶です。 公園にチャリを置いて天徳寺と琴平神社の参道に入りました。
もともと琴平神社は天徳寺の持神社で、神仏分離政策で分かれたものだそうです。 市内弘法大師二十一ケ所という霊場巡りがあるようです。 『あるようです』というのは本屋やネットで調べたのですが 関連する情報が手に入りませんでした。 天徳寺のなかにある石柱に『市内○○○・・二十番』と書かれていました。 ○は読めませんでしたが、たぶん市内弘法大師二十一ヶ所と書かれているのでしょう。 ひとつひとつ見つけて、自分で二十一ヶ所を探し出そうと思っている霊場コースです。 とにかく真言宗のお寺にきたら、目を凝らして案内板を探しています。 それがこのお寺で見つけただけでも満足です。 いろいろな花が咲いていて、花の香りが漂っている境内です。 天徳寺の門のそばに琴平神社があります。
境内と呼べる広場はなく、ちょっとしたスペースに収まった かわいらしい神社です。 『海上安全』、『大漁満足』、『渡航安全』と書かれていますが 『大漁満足』の言葉は、大漁祈願を超えたご利益のようにも思えます。 いずれにしても、今は工業地帯となった、漁業の町の本牧だったことのなごりです。 琴平神社由緒
御祭神 金山彦命、大物主命 由緒 当神社は、小田原北條家に属せし、橋本伊賀守がその守護神として奉斎し、正親天皇の御代天正4年(室町時代)に創建された神社と言われている。天徳寺の持神社であった琴平神社が、明治政府の神仏分離政策に基ずき、お寺より離れて、神社として祭祀を行う事と成った。大正12年9月の関東大震災で総欅権現造りの社殿を始め、社務所・石鳥居・六十九段の石段等が倒壊したが、昭和3年の昭和天皇御大典を記念して、社殿・社務所を再建し、更に昭和6年に木造鋼板張の鳥居及び堅石造りの石段をも復活させて、旧来の神社の姿に蘇がえった。その御神徳は顕著にして、本牧・根岸の地元は基より、遠く房総方面からも参拝者が有り、特に漁業関係者の信仰が厚かった。しかし乍ら、昭和20年5月29日の横浜大空襲に依り、社殿を含む一切の建物、工作物が消失し、更には終戦後、進駐軍が境内地を含む附近一帯を接収した為に、神社の再建が出来ず、仮に中区西之谷に鎮座する北方皇太神宮に、奉斎して祭祀を行っていた。平成元年に接収解除に伴なう、横浜市の区画整理事業も終了し、戦前の鎮座地(中区本牧字天徳寺708番地)が山頂公園計画地の内に含まれる為、その近くの現在地に換地され、平成3年5月に45年振りに、社殿・社務所等を再建して、仮鎮座地の北方皇太神宮より遷座し現在に至っている。 例祭日 春の大祭:五月十日、 秋の大祭:十月十日 鎮座地 横浜市中区和田山一番地の五 2009年5月16日訪問
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蒸し暑い事務所です。 23日の巡礼で焼けた鼻の頭の皮がめくれてきました。 ちょっとはずかしい。 記事は、16日に巡った本牧周辺の後半です。 観音院が387寺目、西教寺が388寺目となります。
ペースは落ちましたがもう少しで目標の八割まできました。 バス停に観音院前とありました。
見渡してもお寺のようなものは見えません。 見つけたのは普通の家のような観音院でした。 観音院の前に小さな神社もありました。 案内板 縁起 當山は、明治三年、本牧台山に奥州藤原氏家系の尼僧であった天佳法瑞尼によって、観音信仰の寺として開創されました。 聖観音菩薩(元禄14年)が本尊として安置されています。また回廊に鎮座されている石ほとけ(寛永7年1667)は「三王さま」と呼ばれ、約530年の昔、寛正(室町中期応仁の乱)の頃から 篤い庶民信仰を集めた佛様です。 見ざる聞かざる言わざるの三猿に化身された観音様が、私達の日常生活の醜さを論して、悔い改める心を取り戻す導きの為に世に現れた御姿を写しています。 この三王さまについては、地域の古老のお話に、先の大戦出征にお詣りした者は皆無事帰郷ができたと聞きます。本牧地域の生活・信仰に結びついた佛さまであったと想いいたし、本堂の再建に当り地域に開くものです。 平成九年四月 本郷山 観音院 本牧通りに戻り西教寺を探します。
交差点に幼稚園とならんだ看板を見つけました。 どうやら、幼稚園の園庭にあるようなので 外観だけ確認して終了です。 2009年5月16日訪問
そろそろお腹のムシがざわついてきたので
お昼ご飯も気になってきました。 本牧サティによることにしました。 |
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23日はだいぶ日に焼けてしまいました。 妻は紫外線でガンになるから日焼け止めを塗って走れといいますが 一汗かいたらクリームも落ちそうなので あえてスッピンで走りました。 2日たってだいぶ日焼けも消えてきました。 また一週間がはじまります。 週末どこに行こうかと考えつつすごす日々となります。 ひさしぶりに小田原あたりまで走ってみようかと・・・・ 下のネタは先々週の本牧巡りの後半です。 本牧に入る寸前のところ、本郷町にこの神社はありました。
案内板
皇大神宮由緒書 御祭神 天照皇大御神 由来 創建由来不詳なれど天永年間(一一一〇〜一一一ニ)勧請 新編武蔵風土記稿(一八ニ八)に「北方村字泉谷に太神宮あり」があり、本郷村の北に位置した北方村の皇太神宮は、横浜山手の高台に元は鎮座し、慶応年間、外国人居留地となり、明治三年(一八七〇)現在地に鎮座した。 北は横浜港を眺め、南は根岸森林公園を望み、東西に本牧、元町に通ずる山手地域と周辺の鎮守です。 御利益 除災招福・願事成就 他・広大無辺 1110年頃に勧請されたということで、歴史は相当古いです。
今あるところは、昔はきっと海だったのでしょうから そんなに古い神社とは思わなかったので、うれしい誤算でした。 1870年に現在の場所に鎮座したそうです。 賽銭箱も古そう。
家紋は花菱、甲斐武田の家紋にそっくりです。 街中系の神社ということですが
歴史的、場所的には海系なのだと思います。 2009年5月16日訪問
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