レキササイズ:歴史散策でダイエット

2014年4月から重い荷物を軽くしました。

1.お寺巡り

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朝、小雨が降っているためなのか
涼しい朝です。

週の中日です。


篠原八幡神社を今度は下りです。
それもチョウ急な下りです。
だいたい下りきったところに長福寺に続くわき道がありました。
本堂が見えたので、すぐ『ココダ!』とわかりました。

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木造の温かみのある本堂です。

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やさしい顔した六地蔵様です。

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境内に結構仏像があるようですが
なかなか見つけられませんでした。
横浜巡礼384寺目となりました。

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お寺を後にして菊名駅に向かいました。
途中、道祖神を見つけました。
平成20年12月16日と書かれていました。
もしかしたら、日本で一番新しい道祖神かもしれません。

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2009年5月3日訪問
おはようございます。
週休2日にすっかり馴染んでいるので
日曜だけの休日は休んだ気分になれず
今朝は少しだけ寝坊しました。

横浜は蒸し暑い朝となっています。


観音寺を更に上ったところに篠原八幡神社はありました。

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案内板
由緒 篠原八幡神社
御社号及変遷
篠原八幡神社は後鳥羽院の建久三年(西暦一一九二年)に武蔵国太知波奈郡(橘樹郡)鈴木村の鎮守として鎌倉鶴岡八幡宮より勧請され鶴崎八幡と奉称し同村会下谷に始めて鎮斉された。
寛永八年(西暦一六三一年)社地を現在地の表谷に遷座された。
寛文七年(西暦一六六六年)更に社殿の再建されるに及び若宮八幡と奉称した。
当時鈴木村代官は伊奈半十郎との記録がある。
後に鈴木村は篠原村と改称され、社名も八幡大神と奉称された。
天保六年(西暦一八三五年)社殿の再建の為十年の年月を要したと謂れ現在の社殿構造は当時のものである。
大正十二年九月一日関東大震災の為被害を受け拝殿に傾きを生じ、昭和三年は遺伝の再建が行われ、此のとき往右の草葺屋根を拝殿のみが始めて銅板葺と改められた。
昭和四十八年篠原地区(十町会)住民篤志者の浄財により本殿弊殿の修復工事実施に伴い、屋根は全部銅板葺となり、郷土唯一の文化財として其の尊厳と美観を維持するを得たのは地区住民の喜びである。
御祭神 誉田別命(応神天皇)
御事蹟は古事記や日本書紀に詳述されています。命は極めて慈愛深く、武勇の方であられたと謂れて居ります。
神話によれば生れながらにして歩き、御成長に従い、いよいよ逞しく身の丈七尺余り、衆に秀れた偉丈夫となり、一生涯一度の病気もなされず、お歳も百十歳迄長生きされたとの伝説があります。このような御祭神でありますので昔から子育て八幡と謂れ、村人は子供が丈夫に育つように祈り、又戦いに望む者は武運長久を祈って出征する者が多く永い間世人の信仰を得たのであります。

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普通は神社名が書かれている拝殿の上の部分には
馬の彫られたものがありました。
このパターンは初めての経験です。

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おはようございます。
早起きしてしまいました。
ワタシのリズムは21時半頃に寝て4時半頃に起床となっています。
GW中もほぼそのリズムで生活してきたので
朝だけは強いほうです。
ただ、夜は弱く、21時過ぎると眠くてしょうがありません。

GWの影響で、明日も出勤です。
ということで今日は花金ではないのが残念。


綺麗というより美しいという印象のお寺でした。
何がというと、景色です。
坂道にプリンスホテルと弘法大師が並んで見える景色に
思わず感動しました。
横浜巡礼383寺目となりました。
ワタシのヘボ腕の写真では表現に限界がありますが、
今まで上った坂道の中で一番の景色だと思いました。

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ワタシとしてはこの景色を見ただけでここに来た甲斐がありました。

ということです。

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2009年5月3日訪問
おはようございます。
今日も横浜は冷たい雨の朝です。

今週は土曜日も出勤なので
まだ普通のリズムには戻れません。


鳥山町から三会寺を経由して環状二号線にでました。

三会寺(『さんねじ』と読みます)に立ち寄ったのですが
新しい堂が建っていました。
3年振りにきたのですが
2007年12月に完成した観音堂とのことです。
2008年3月30日に開眼法要、落慶法要がおこなわれたそうです。

鐘楼が移動したようにも見えましたが、記憶なのでさだかではありません。

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鳥山川沿いにある乞食松のお地蔵さんをお参りしました。

何のお地蔵様か知りませんでしたが
この日、パンフレットの最後の1枚が残っていました。
手に入れましたので、長文になりますが、写しを以下に書きます。

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乞食松
 昭和三十三年五月から三十九年十二月にかけて行われた建設省施工の鳥山河川改修(又口橋下流)がなされる以前は、小机より横浜線で東神奈川方面へ向う途中の鳥山川堤の右手に一本の老松が茂っていた。人呼んで乞食松といい、松の下には小さな祠があり中地蔵尊が安置されていた。この松は天保の大飢饉のおりに多くの乞食が餓死したため、ここた埋め、その墓標として植えたものといわれ、初め死人松と呼んだという。
 餓死した乞食の遺骸を埋めてからそれほど時を経ずして、何処からともなく一人の乞食僧が鳥山村を訪れ、川沿い土手に小屋掛けをして住み、村の家々を回って仏法や功徳を説いていた。ところがある日、ふとした病気がもとで死んでしまった。また、別な伝えによると乞食僧は空腹と虫歯に苦しみながら死んで行き、いまわのきわに「我れ虫歯に悩むこと積年である。後世同じ病を患う者、我を祈らば正に利益を与えるてあろう。」という言葉を遺したという。乞食僧は生前に、自分は諸国を遍歴しあらゆる修行をつんでいるためどんな人の悩みも解決できるし、願いごともたちどころに聞き届けることが出来ると言っていた。事実その霊験もあらたかであったため、村人は乞食僧を名僧の世を忍ぶ姿ではないかとか、地蔵菩薩の化身ではないかと言うようになった。そこで、村人の手により死人松の所へ死骸を埋め、地蔵尊を安置して手厚く葬った。
 その後、誰言うともなくお地蔵様にはご利益があるという話が広がったため、色々な願いごとをこめてお参りする人があとを絶たなくなった。特に虫歯に悩む人には良く効くといわれ、域の人々は歯痛で苦しむと、ここにお参りし願をかけるとともに、地蔵様に上っている小石を借りて来て痛む歯のところをさすると、たちまち治ってしまうとのことである。治るとお礼としておにぎりや花、線香を手向けると同時に、先に借りて来た小石を倍にして返した。なお、この地蔵尊は天保十三年(一八四二)十二月に鳥山村、岸根村の有志が世話人となって建てたものであるという。
 乞食松のあった鳥山川ほ現在静かな流れを湛えているが、昔はよく氾濫をし大雨になると東側に岸根・篠原、西側に鳥山・小机の農民がかけつけ堤防の警戒に当った。いずれかの堤防が決潰すると、切れない方の農民は万才を叫んで喜んだ。ところが洪水の時期は稔の秋が多いため、稲の大半を苅り上げて田の畦に並べて置いたもめが水に押し流されて一ヶ所に寄ってしまい、後の分配に大分苦労することとなった。こういったことを防ぐため鳥山川の改修が行われ、由緒ある老松も切り倒されてしまったわけである。地蔵尊も横浜上麻生線道路近くの新しい堤の下に移され、新築された新しいお堂に安置された。傍には二代目乞食松も植えられすくすくと育っており、毎年春には信者によって供養が営まれ、過ぎし昔の面影が残るよう管理されている。
    (港北百話−古老の話より)

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寄り道を二ヶ所しましたが、横浜巡礼382寺目の正覚寺に着きました。
駐車場の羅漢様の写真を撮っていたら住職さんがそばに来ていました。

挨拶をして、巡礼の話をしたら
『ゆっくり見て行きなさい』
『裏のツツジが見ごろだ、見て行ってくれよ』
『鐘付き堂も上にあるよ』
『本堂も見るかい、あがっていきな』
やさしい方でした。
本堂は次の機会にということで、ゆっくり境内を散策させていただきました。

お正月は港北七福神巡り(ここは大黒様)で大勢訪問者がくるそうです。
御朱印も正月だけということで、お正月に来させていただくことにしました。

創建は天正元年(1573年)。
北条氏政(弟は上杉景虎)が上杉、武田と戦っているころの創建です。

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2009年5月3日訪問
今日から出勤です。
連休中とは一気に天候が変わりました。
冷たい雨の振る朝ですが
半袖で出勤しました。
ちょっと、イヤ結構寒い!


横浜は小山が多いので、町から町への移動は山越えが多いです。
羽沢神明社から次の鳥山八幡宮へは地図を見て最短距離で向かったのですが
やはり小山をひとつ越えることになりました。

小山の頂上の道は、小学生の頃の裏山を彷彿させる場所でした。
車ではぜったいにこない道なので、こういうところを通ると
チャリで走って得をしたという気持ちになります。

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景色だけではありません。
漂ってくる野山の香りや、花の名前がよくわからないのですが
甘いいいにおいがしてきます。
山道の横では、農家の方が野良仕事に精を出しています。

住宅が見えてきたところで、小山の反対側に下ります。
下る途中に鳥山町八幡神社がありました。

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案内板はなかったので、ネットで歴史を垣間見ると

鎌倉時代に鳥山地区を所領していた佐々木高綱の鎮守として祀られていたそうです。

頼朝の最初の戦いの、山木兼隆襲撃に遅刻して参上したのが佐々木兄弟ということになっています。
木曽義仲追討軍に加わり、梶原景季と宇治川で先陣を争っています。
ちなみに軍人、乃木希典陸軍大将は高綱の子孫であるそうです。
近くに佐々木高綱の愛馬の馬頭観音や彼の守り本尊である将軍地蔵もあるそうですが
気がつきませんでした。


石段を上り、境内に向かいました。
三個目の鳥居は木でできていて、艶ややかに輝いています。
なんて静かな神社なのでしょう。
木々に音が吸い込まれていてシ〜ンと静まりかえっています。

お祭りでにぎやかな神社がなつかしく思いつつも
境内を独り占めして散策しました。

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2009年5月3日訪問

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