レキササイズ:歴史散策でダイエット

2014年4月から重い荷物を軽くしました。

1.お寺巡り

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おはようございます。
ワタシのGWは今日で終わりです。
明日からは普通の生活に戻ります。

サラバGW。また来年・・・。


地図を見ると、環状2号線沿いにお寺マークを発見しました。
山を下り、環状2号線横の道を進み、横浜381寺目の良正寺に着きました。
残念ながら門は閉まっていたので、外からお参りさせていただきました。

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第三京浜羽沢の交差点の手前を左折し、羽沢の神明社に向かいました。
わき道に入ると、目の前に山があり、山に登る石段が見えています。

きっと何かあると思いつつ近づくと、庚申塔がありました。
羽沢小の児童が書いた説明の案内板が建っていました。
ありがたいことをしていただいています。感謝!

それによると寛永年間に建立されたとなっていました。

すぐそばに同じような石段があったので、
そちらにも上ってみました。
左へ右へと上っていくと男女の彫られた道祖神がありました。
誰かの家の庭ともつながっていそうなので、
早々と退散することにしました。
ここも急な坂道の住宅地です。
体の節々が錆付いているので、休み休み上り、
神明神社の裏門にたどり着きました。

境内を通って表の入り口から改めて入りました。
鳥居をくぐったら左側に拝殿と本殿があります。
レイアウトは異型ですが、建物はごく普通の神社です。

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案内板(石碑)
茲ニ武州橘樹郡城郷村羽澤村社神明社氏子八月明治四十年十二月廿四日本縣訓令第四十号ノ趣旨ニ遵ヒ維持ヲ確立マンカ為ニ基本財産ノ蓄積ヲ計リ又同年訓令第二号達ニ依リ大正五年十一月三日同村宇聖天ノ杉山具行ノ蔵王羽沢ノ熊野綿打ノ杉山等ノ四社ヲ合祀セリ後大正七年六月十日本殿新築工事竣成スルヤ遷宮式ヲ拳ケタリ而シテ尚石造獅子及ビ玉垣ヲ建設スル等氏子ハ常ニ協心努力此ノ完成テ期シ谷?神威ノ尊厳ヲ顕揚シ欲神ノ信念ヲ発揮セリ耶?カ事業ノ梗概ヲ録システ記念トス
大正七戌午年葉月上旬  社掌 照本肇 誌書
大正七年に書かれたものなので、難しすぎて時代を読むのがやっとです。
大正5年十一月に四社(聖天の杉山神社、具行の蔵王権言、羽沢の熊野神社、綿打の杉山神社)を合祀した神社
現在の建物は大正七年六月十日に新築したもの。
創建については不明。
延宝年間(1673〜1681)には鎮座していたそうです。

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神社のそばに
『地神塔』『庚申塚』『馬頭観音』などの石碑がありました。
これらには羽沢小の児童が書いた説明文がいっしょにありました。
ありがたいものです。

地神塔(豊作を祈って)

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硯松(ここで太田道灌が家臣に狂歌を披露したそうです)

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石碑群(庚申塔、馬頭観音など)

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2009年5月3日訪問
昨年10月からサボっていたチャリ巡礼です。
今年の最初となります。
(電車ではボチボチ行っていましたが)

31.13km走行。
お昼は菊名の『三崎市場』のネギトロ丼(580円)でした。

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コースは八王子街道を西谷町まで上り
妙福寺裏の山にある清原宮に行き、
山を下り環状二号線沿いに新横浜に向かいます。

新横浜は東側の神社仏閣を周り
菊名駅で昼食をとって東急線で帰りました。

5社の神社と4寺を巡ってきました。
できるだけ裏道を選んで走りましたが
庚申塔や道祖神など興味をそそる者達が結構おりました。
梅の木の交差点の先を左折して、
妙福寺の裏にある清原宮を目指しました。

大六天団地の中に入ります。
久しぶりのチャリでの坂道です。
かなりきついので、すぐチャリを降りて押しました。
距離も相当あり、運動不足の足と肺が悲鳴を上げました。

昨年夏、行川アイランドのチョウ長い坂道を押したことを思い出せば
たいしたこと無い坂道です・・・。でもキツイ

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上りきると緑の鮮やかな畑が見えてきました。
住宅の中のオアシスのように見えます・・・が

神社のような、普通の家のような
境内のような、家の庭のような

ちょっと入り辛いので入り口で躊躇していると
犬の散歩のおばさんが歩いてきました。
『おはようございます』
おばさんから挨拶をいただきました。
ワタシも『おはようございます』と笑顔を返しました。

声を出したらフッと金縛りが解けたので、
境内に入ることにしました。

狭い境内ですが、本殿の前に行き
お参りをすませ、次に向かうことにしました。

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ネットで調べても謂れなどはわかりませんでした。
地図には鳥居のマークがあったので神社として訪問しました。

とにかくのほほんとした景色が印象てきでした。
2009年5月3日訪問

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三崎港、花暮堤防に釣りに行ってきました。

堤防の根元に小さな祠がありました。
何の謂れがあるのかわかりませんでしたが、
海のそばということで、豊漁、航海安全の祠なのでしょう。

すぐ横が北条湾です。
あの『北条』なのだと思います。

釣りですが、コマセにコッパアイゴの大群が襲い掛かります。
息子が狙って20くらい釣ったでしょう。

ヒッコリーで燻製にしました。

今朝は少し涼しいです。
明日からGWで12連休です。

善光寺にも行きたいし、板東33ヶ所のどこかにも遠出したいし
現時点、無計画中です。


祐親は ひとりさびしく 山の上
伊東家の菩提寺には彼は居ませんでした。
小高い山の上にひとりだけの墓があります。
現在は住宅に囲まれており
ここからでは菩提寺も見えません。
なんとなく寂しそうに思えました。

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電信柱の『⇒祐親の墓300m』を信用して矢印に進みました。
100mほど行くと『伊東祐親の墓この先300m』と案内板がありあました。
どこまで行っても300m・・・。

そろそろ300mかと思うところで、掃除をしているおばあさんに逢いました。
「祐親の墓はこのあたりですか?」
「そうですね、この坂は曲がっていて、この先300mほどですよ。」
エッ、また300m・・・か・・・。

実距離不明ですが、500m以上坂を上った気分になりました。
朝からけっこうきつい山登りになってしまいました。
この伊東という町ですが
コチラは観光で早朝散策をしている身です。
6時ころなのですが、いたるところで掃除をしている方が目につきます。

そういえば、道路はきれいだし、
空き缶、タバコの吸殻、ポリ袋など都会でおなじみのゴミ3兄弟の姿はありません。
こういうところは観光地を見習わなくてはいけないと思います。
そんなことを思いながらも、見落とさないようにキョロキョロしながら進みました。
おばあさんと話をした所から『300m?』でお墓を見つけました。

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ツツジの葉に囲まれた一角が見えてきました。
葉の無いサルスベリが見えました。

左奥に五輪塔と思われる石物が見えてきました。
たぶんここが祐親の墓でしょう。

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案内板
伝・伊東祐親の墓所
 頼朝挙兵に際し、平氏側に味方した伊東祐親は、捕われの身となり、寿永元年(一一八二年)二月十?日、相模三浦郡に在った女婿、三浦義澄の邸内で自害したとされています。
 その祐親の墓所と伝えられるのがこの塚です。
 五輪塔の水輪にみられる納骨孔は稀少な例証であり、また地輪に残された種字の薬研彫りは鎌倉初期の手法を伝えるものです。
 昭和五十四年九月二十九日指定
   伊東市教育委員会



千鶴丸の一件と石橋山の戦いで、2度頼朝の殺害に失敗。
3度目の戦いは捕われの身となってしまいました。

最後まで平家に尽くした生き様を強く感じます。
一方、三浦一族とも縁を結んでおり
当時の各地区の豪族はしたたかに生きていたのだとも思います。

頼朝絡みで同じような立場となった北条時政のように
大きな歴史の流れを読んでいれば
違った鎌倉時代があったのかもしれません。

歴史の答えは一つしかないのですが
最初の武家社会の夜明けはどうなっていたものか・・・。

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祐親の辞世の句だと思われる石碑がありました。
達筆なので読みきれませんが
『三笠山さ○て は○れ○ ○○○をば ゆくすゑ ○○○も ○たの よなん』
と書いてありました。
 解読できない己の未熟さにがっかりです。

塔婆には
『東林院殿寂心入道大居士』の法名が書かれていました。
東林院は彼が開基したお寺の名前になっています。

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彼とはもう少し話をしたかったのですが
ホテルの朝食の時間も近づいていたので戻ることにしました。
2009年4月19日訪問
すっかり初夏の気温になっています。

通勤風景も緑が多くなってきました。
次は田んぼに水が入るのをまつところです。



老木に 昔話を せがみたい
昔の豪族、権力者は一族の神社と菩提寺を持っていることが多く
それらが現存していると、彼らを偲んだり、歴史の面白さを味わうことができます。

伊東家の神社は葛見神社ということです。

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案内板
伊東家の守護神・大樟・葛見神社
(祭神)
葛見神(不詳)倉稲魂命 (稲荷神) 大山祇命
(由緒)
全国届指の老樟が千古の縁を湛えて神域に聳える当葛見神社は、今から凡そ千数十年の延長五年に制定された延喜式神名帳所載の久豆彌神社に当てられる古社であります。
 住昔、伊豆の東北部を葛見の庄と称し、当神社は此の庄名を負い、約九百年昔、葛見の庄の初代地頭工藤祐高公(伊東家次−伊東家の祖)が守護神として社殿を造営し、京都伏見稲荷社を勧請合祀してから、伊東家の厚い保護と崇敬を受けて神威を高めてきました。
 このことは元禄十年(一六九七年)の棟札に「葛見大社岡村稲荷者藤原朝臣鎌足十六代後胤工藤太夫祐高之修造也」と記されていたり、慶長十五年(一六一〇年)の棟札に「藤原氏伊東正世公伊東郷住人鈴木近守仰面焼失後造立」ということからも判明いたします。
 明治迄は代々の領主から供米が献じられ、又、岡明神と称えて地方民の氏神として信仰されてきました。
 このような由緒により明治六年四月新制度により、旧伊東、小室村の唯一の郷社に列格されました。
 近年も伊東在住の元首相故若槻礼次郎氏の崇敬を受け、氏は老樟を讃える石碑を寄進いたしました。(大樟右手前)
(例祭)
十月十五日(本来は十月十九日)祭礼時に奉納される神楽は「岡のカグラ」として有名で庁舎(チョウヤ)で演じられます。
二十数年間とだえていましたが、神楽保存会、青年有志により昭和五十九年の祭礼より復活いたしました。
(大樟)
神木の巨樟は樹間二十メートル、樹令千数百年といわれ、本多静六林学博士の著書大日本老樹名誌では、全国第二の老樟とされ、昭和八年二月文部大臣から天然記念物に指定されました。

 老樟を讃へる 勺水(日下寛試)作五言絶句
 霊快神龍に似たり 晴天雲雨起す
 誰が図らむ陵谷の変 一木千古を支ふ

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なんといっても千年樟(クスノキ)が目玉のようです。
樟の写真を撮ったら、なんと白い光が入りました。
ワタシの目にも写した瞬間なにかが輝いたように思ったのですが
カメラに写っていました。

何なのでしょう。

いろいろ頭の中で質問していたので
何か答えてくれたのかもしれません。
ワタシにとってはますます神秘的になってきました。

神霊の世界には興味がないのですが
神社仏閣で写真を撮っていると『オヤッ』と思うことがあります。

何かが写るときは、写した瞬間にファインダーに『何か見えた』と
自分の目にも一瞬焼き付けられることが多いです。

伊東祐親の墓がこのそばにあるようなので
そちらに向かうことにしました。

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2009年4月19日訪問

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