レキササイズ:歴史散策でダイエット

2014年4月から重い荷物を軽くしました。

1.お寺巡り

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日曜の早朝に伊東の町を散策しています。

八百数十年前の景色などわかりませんが
そこは時代小説『源頼朝』を思い出し
勝手に森を想像して歩きます。

頼朝と八重姫のデートコースのそばに
最誓寺というお寺がありました。

千鶴丸の菩提を弔ったお寺ということです。



千鶴丸 先祖とともに 眠る寺
音無神社の境内から最誓寺が見えました。

山門は逆の方向にあるので、
ぐるっと周って向かいました。

山門にあった石柱の案内板にこのお寺の縁起が描かれていました。
どうも悲劇の若殿、千鶴丸の菩提を弔うために建てられたようです。

こんなに近くに二人に関係するものが残っているとは
ありがたい!ますます深みにはまります。
早起きして散策した価値があります。
門石柱の案内板
最誓寺縁起
開創 鎌倉初期真言宗「西成寺」として建立さる
開基 北條氏二代の執権江間小四郎とその室八重姫の立願による
由緒 源頼朝が伊豆流配の折八重姫との間に一子千鶴丸をもうけしが平家の寵臣たる父伊東祐親の怒りに触れ「稚児が渕」に沈めしをその菩提を弔うため創建さる
変遷 慶長年間曹洞宗に改宗寺号も最誓寺と改め現在に至る。
本尊 阿弥陀如来他に千鶴丸地蔵尊閻魔大王奉祀さる

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江間小四郎は北条義時とのことですが
あの北条義時とは別人だそうです。

『あの』とは、承久の乱を乗り切った義時で
彼はまだ四歳だったとか・・・。

最初、同じ義時かと思いましたが
そうだとしたら、出来すぎるストーリーで
あまりにもメロドラマ的になってしまいます。
違うことがわかってホッとしています。

山門を入ると、すぐ左手に『伊東家の墓』があります。

同じお寺に弔われているとは、
墓の移設などもありましたが、縁あって
今は千鶴丸も伊東家の一員なのでしょうね。

先祖と一緒のお寺に弔われているのは
『よかったね』と千鶴丸に声をかけてあげたくなります。

一方、千鶴丸を殺すように指示した祐親の墓は
ここにはなく、少しはなれた小山の上にあります。

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案内板
 市指定史跡
 伊東家の墓
 伊東の地に来た伊東氏の先祖は藤原南家の武智麻呂から八代の子孫にあたる藤原為憲と言われています。
 藤原為憲から七代の子孫になる家次祐隆の代に狩野から久寝(伊東の池)に移り住んだと思われ伊東氏の歴史を家次から始まりとするのが普通です。
 伊東家一族の墓はその昔、最誓寺の南東約0.5kmの東光寺に存在したが、伊東家の衰えとともに江戸末期に廃寺となり東林寺に合併されたが墓(石製五輪、宝筐即塔)は最誓寺に移されました。
 一族の墓は伊東氏の歴史を物語る貴重な文化財です。
 指定 昭和40年10月23日
案内板
 伊東市文化財 史跡第一号
 伊東家墓碑由緒
 藤原鎌足十六代の後胤、狩野家継は伊東の庄に移り伊東祐隆と改め河津の庄を領した。長男祐家の他、二児をもうけたが妻に死なれ後妻を取りしが、その連れ子との間に生まれた祐継を嗣子として伊東祐継(工藤祐経の父親となる)と名乗らせて、伊東の舘におき、一方嫡流である祐家の長子祐親(曽我五郎、十郎の祖父)を河津の庄に追いやり河津次郎祐親とした。これがやがて伊東家騒動の始まりとなり「仇討ち曽我物語」の発端となるのである。
 これら一族の墓は東光寺及び東林寺に納められているが東光寺はこの地より南東〇・五キロの所にあって領主、伊東祐隆の再興によって栄えたが、徳川時代に至り伊東家のおとろえるに同じうして江戸末期、ついに廃寺となり墓は、当最誓寺に移されまつられるようになって久しく境内の木陰に苔むしていたものが、昭和三十四年本堂再建の時に整備供養され市文化財の規定が設定されるや第一号として指定され、今後も永く一族の菩提を弔う為、護寺されるものである。ちなみに当最誓寺は今を去る八百五十年前、源頼朝が伊豆流配の折、祐親の娘八重姫と密通し一子千鶴丸をもうけたが、平家の流れ汲む祐親の怒りにふれ、稚児ヶ渕(この裏を流れる松川の上流)に沈められた後、八重姫が北条家家臣江間小四郎氏に嫁ぎしより、許されて稚児菩提の為に頼朝と毎夜相見しこの地音無の森に一宇を建立し、西成寺と名付けるに始まり、慶長元年、禅宗に改められ寺号も最誓寺となり今日に至る。
寶珠山 最誓寺 二十六世代

それにしても、『曽我兄弟の仇討』や『千鶴丸』に関係の深いお寺とは
ここに来るまでは、まったく知りませんでした。
まさに早起きは三文の得とありますが、
だいぶ得をした気持ちになりました。

お寺の名前ですが
『西成寺』も『最誓寺』も『さいせいじ』って読むのでしょう。
お寺の名前の変遷で気づくことがありますが
読みが同じで漢字が変わっていくパターンは時折見かけます。

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2009年4月19日訪問
土曜日に、夜遅くまで飲んで
日曜日に、早起き散策をしたので
体調が少し辺です。

年をとると多少の無理もきかなくなってきました。


古木知る 八重姫忍ぶ 物語
日曜日の早朝に
頼朝と八重姫のデートコースを散策しています。
日暮神社から岡橋を渡り音無神社にやってきました。

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案内板
音無の森、頼朝八重姫伝承
 曽我物語によれば、伊東の北の小御所に住んでいた若き日の頼朝は、伊東祐親の三の姫八重姫と結ばれて、二人の間に千鶴丸と名づけられた若殿が生まれました。
 二人が愛を語らった場所が、この音無の森だと伝えられています。
 頼朝は、この対岸にあるひぐらしの森で、出会いの時を待って日ぐらし過ごしたといわれます。今はその森に日暮八幡社があり、ひぐらし会館が建っています。
 両方の森を結ぶ岡橋(左手に見える)の手すりには、頼朝と八重姫の姿が描かれています。
 伊東市教育委員会

時代小説の『源頼朝』を読んだことがあったので
なんとなく二人の密会について頭の片隅にあります。

記憶では、確か森の中のイメージがあるのですが、
川(松川)がすぐそばを流れているとは思いませんでした。
千鶴丸が殺されて、遺体が川を下って海岸まで流れてくるのですが
もしかしたらこの川なのかなぁ・・・。
などと思ったりしながら川を眺めていました。

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何故か?
本堂に柄杓がたくさん供えられています。
いったいなんなのでしょう。

ネットで調べたら
安産のお参りに穴の開いた柄杓を供えるそうです。
いろいろなお参りの仕方があるものです。

確かによく見ると底に穴があいていました。

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2009年4月19日訪問
伊豆は東伊豆の伊東へ温泉旅行に行ってきました。
一泊して朝ごはんの前にホテル周りに散策に行きました。

ここは伊東です。
伊東祐親の地元です。
この人が娘と頼朝の関係を許していれば
鎌倉時代はまったく違ったものになっていたとも思えます。

大きな流れの歴史では脇役ですが
彼らのかかわりのあったところを散策して
偲んでみました。

今週は頼朝の旗揚げ前の縁のある地を紹介させていただきます。


日暮神社です。
静かな住宅地の中、小さな公園の隣に鎮座しています。
鳥居を見つけて立ち寄ったのですが
ここがあの八重姫とのロマンスの地であるとは
我ながら大発見!

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案内板
ひぐらしの森と日暮八幡神社
 日暮(ひぐらし)の森は、若き日の流人源頼朝が、伊東祐親の娘八重姫との逢う瀬を楽しみに、日暮らし過ごしたというロマンスの伝承を秘めている場所で、明治中期の絵図では、田んぼの中に大きくこんもりと繁った日暮の森が川のふちまで続いている。
 この周辺の発掘調査により、弥生時代(約二千年前)から古墳時代(約千五百年前)にかけての集落跡が発見され、日暮(ひぐらし)遺跡と名づけられて、出土品の一部は伊東市文化財管理センターに展示されている。
 この神社の創建年月の明らかな記録は無いが、古くから村民の五穀豊穣、家内安全、安産の守護神として崇敬されて来た。
祭 神:誉田別命(ほむだわけのみこと)
例祭日:九月十五日
平成十一年記 伊東市教育委員会

伊東祐親が京都に行っている留守の間に
彼の三の姫、八重姫と密会し
千鶴丸という男の子をもうけてしまうというストリーですが

八重姫を待ちに待っていたのが日暮の森のようです。
どうみても、現在では森は無く
神社の周りは住宅地となっています。

ただ、境内には幹の太い木が生えていて
昔は森だったといわれると、そうだよネという気持ちにはなります。

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ここで密会しどこに行ったかというと
音無神社のほうだと音無神社の案内板に書いてありました。
この二つの神社の間には川が流れています。
橋があったかどうかはわかりませんが
現在『岡橋』という橋があり、そこに二人が密会している絵が描いてありました。

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2009年4月19日訪問

青葉 徳恩寺

昨日より7度低いと天気予報で言っていましたが
一度半袖シャツにすると戻りにくいものがあります。
今日も半袖シャツで出勤です。

明日は東伊豆伊東へ温泉旅行です。
リフレッシュしてきます。

本日のお寺は青葉区の徳恩寺です。


青葉区のこどもの国線が走る周辺はのどかな雰囲気が漂います。
学生時代(30年以上前か)に1年間だけ暮らしたことがありますが
狭い道路と畑が広がる景色がボヤ〜っと記憶に残っています。

その記憶にある狭い道路を走りながら山のほうに目を向けると
徳恩寺が見えて着きました。

本当に学生のころの目は何を見ていたのでしょう。
ぜんぜん気がつきませんでした。

畑に囲まれ、小山の中腹に見える姿は
のどかな景色そのもののように思えます。

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案内板
高野山真言宗 摩尼山延壽院 徳恩寺
 徳恩寺は元々、延命院という草庵が十世紀末に結ばれていましたが、戦乱や自然災害により衰微し、廃寺寸前であったところ、建武二年(一三三五)、等海律師(一三七三寂)の手によって、高野山真言宗摩尼山延壽院徳恩寺として開創されました。
 律師は、金沢文庫称名寺の実真阿閻梨の弟子でしたが、小机三会寺の中興開山と仰がれ、当山を御開創の後に、柿生・王禅寺で示寂された名僧であり、以来、徳恩寺は隆昌を極め、江戸中期には中本寺として近隣の真言宗寺院十三ヶ寺を統べる法談所でもありました。

 殊に元禄十四年(一七〇一)には、江戸幕府の名老中であった柳沢吉保の一族である、恩田郷を治めていた柳沢信尹公より、鉄眼禅師の「大般若経六百巻」及び大名駕籠二丁のご寄進。また、奥方の念持佛である弁財天一躰及び弁天社を寄進建立されるなど、当山への帰依信仰にあつく、多大な貢献をされ、さらに信尹公の具申により、慶安二年(一六四九)には寺領七石の朱印地を賜りました。

 本尊虚空蔵菩薩は、室町期の作と伝えられ、特に毎年十一月の十三詣・七五三の参詣には、ご祈祷をうける幼児や児童で盛況を極め、横浜虚空蔵として地域の人々に親しまれています。

 寺宝の金剛薩?(土辺に垂)画軸は、当山第十九世開演僧正が、元禄年中に高野山より請来されたお大師さま直筆と伝わり、文政四年(一八二一)に檀信徒の寄附で補修されたものであります。

 日本画壇で活躍される入江正己画伯の釈尊降誕図、江戸初期に描かれた涅槃図などの寺宝のほか、昭和四十三年十一月に本堂改修工事を竣工の折りに、事業を記念して、故鈴木憲一・小江ご夫妻にご寄進いただいた、小島一鶏・月岡英貴・蓮尾達雄・若林卓・入江正己・小島昇画伯によって描かれた堂内の襖絵は、訪れる檀信徒の目を楽しませています。
草庵の時代を含めれば千年の歴史がある古刹ということになります。
戦国時代、江戸時代とこの地区の中心的な寺院だったようです。

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この近辺を知行した旗本は石丸家ですが
墓所はもう少しこどもの国寄りの松岳院にあります。
徳恩寺には彼らの名前を見ることはありませんでした。
2006年4月22日訪問

南区 宝生寺

半袖シャツで出勤しました。
暑がりで寒がりなのですが、
昨日事務所の中で暑くてたまらなかったので、半袖にしました。

季節はどんどん夏に向かっていきます。

今朝車に乗ろうとしたら
フロントガラスに小さな虫がたくさんついていました。
そろそろ蚊も大量発生しそうな気配です。


横浜といえば開港以降の歴史が話題になり
横浜開港150周年で賑わいでおりますが、
開港の影に隠れたずっと昔の歴史が
ポツポツと残っていることにもワクワクするものがあります。

このお寺、セミ捕りで走り回ったことのある境内です。
小学生の頃ですから、とても広く感じた境内です。
50過ぎて40年振りくらいに訪問しました。

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懐かしいというよりは、そのころの記憶もほとんどないので
新鮮な気持ちで訪問した古寺という感じです。
そんな訳で、案内板の紹介は
お寺の歴史の前に、まずは天然記念物から
書かせていただきます。

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案内板
神奈川県指定天然記念物
 宝生寺・弘誓院の寺林は、タブノキ、スダイジ、シラカシなど神奈川県の主要な常緑樹によるまとまった林相が維持されている。
 ここでは三つのタイプの常緑広葉樹林が見られる。台地から尾根にかけてのスダジイ林(ヤブコウジ−スダイジ群集)、谷状地のタブノキ林(イノデ−タブ群集)、それにクスノキ、シラカシなどの稙栽樹を中心とした樹林である。いずれも高木層にスダジイ、タブノキ、シラカシ、ケヤキ、クスノキが高さ二十メートル以上の樹冠を形成し、低木層にはアオキ、ヤブツバキ、ネズミモチ、イヌビワ、シロダモ、モチノキ、ヒ
サカキなど、草本層もベニシダ、イタチシダ、ヤブラン、キズタ、ツルグミなどが三十〜七十パーセントの被度で生育して、安定した林相を形成している。
 商店街や住宅密集地の中にあって、これだけ自然度の高い樹林が残されているのは、現代の奇跡ともいえるほど珍しい。県民の科学的研究や自然教育の場として、また自然の記念物として将来にわたって保存される価値が高いものである。
 昭和五十五年十二月二十日 神奈川県教育委員会

そういえば記憶の片隅にあるセミ捕りで、
木々に囲まれ、山奥のような雰囲気の谷状の場所で、
オスメスのつながったアブラゼミを見つけたことを思い出しました。
周りには木々しかなく、心細い気持ちになったりしていました。

当時(ワタシの当時は昭和三十年代)、
裏山はまだ木々が残っていました。
市電の中村橋駅から続く中村橋商店街は華やかでした。
遊び場は木の茂った裏山や、神社仏閣でした。

この日、町をぐるぐる周ると
裏山は住宅地になり、
市電は昭和50年にはなくなっていました。
中村橋商店街はシャッターの閉まった店舗ばかりでした。
唯一、神社仏閣だけが昔のままのような気がしました。

写真真ん中の四階建てビルは
かつて美容院と駐車場でした。
ワタシの最初の車もこの駐車場を借りていました。

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案内板
寶生寺
寶生寺青龍山寶金剛院○○真言宗(古義)に属する寺である。
平安朝時代末期の承安元年民部卿大僧都覺清法印により開創された。
その後南北朝時代に学徳ともに勝れた覺尊法印が住職となってから急速に發展して地方随一の大寺院になった。
文明八年、小机城を包囲中の太田道灌小當寺あてに祈○と食料の○状に併せて禁制状を寄せた。
また天文十四年に北條氏康から門前諸役免除の判物、天正十八年に小田原城○○中の豊臣秀吉から禁制状を送られた。
さらに天正十九年には、徳川家康から寺領千石の朱印状を授けられた。
慶長十四年伊豆相模せ成○○○ら○○真言宗法談所三十四院の一と定められ、近隣五十二ヵ寺の末寺を支配する本寺として認められた。
江戸時代には灌頂堂、客殿、山○、長屋門、鐘楼、經藏、弁天堂、寶篋印塔等が建立された。
しかし、明治七年本寺の寺格を増徳院に移してから次第に衰徴し。多くの建物を失った。
現在の本堂は延寶へ(一六八〇)年に建立された灌頂堂である。
また梵鐘は元禄八年に鋳造されたもので、太平洋戦争中も特別保存鐘として金属供出を免れた。
山門は文久八年、鐘楼は昭和十二年に建立されたものである。
なお當寺所蔵の多数の古文書、佛画は、現在神奈川県立博物館に寄託、順次展観されている。
嘉吉二(一四四二)年領主により横濱村薬師堂兔として當寺あてに田畑の寄進を受けたが、これは「横濱」の地名のあらわれる史上最古
の文書として有名である。
 本掲示の板は昭和初年まで境内の西北にあって横濱十名木の一として知られた通称「千年待つ」の餘材を使用したものである。
案内板の色が黒くなって読めない字もありましたが、
平安時代の開創で、一時期は相当な大寺院だったとは驚きでした。
こんな身近にこんな古刹があったとは驚きでした。
セミ捕りをしていて、よくバチが当らなかった思います。

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案内板には登場していませんが、
横浜を知行していた平子氏の菩提寺、
横浜のお寺巡りをしていると
よく名前の出てくる印融という僧が浮かんできます。

平子氏:
鎌倉御家人で久良岐郡平子郷を支配した武士団。

印融:
真言密教の学僧で、真言密教の教相・事相、音韻学・梵語学・漢詩論・密教図像学・辞書などの
広い範囲の著作・写本も多数残しているそうです。
2006年4月30日訪問

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