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本日横浜は季節が変わった感じです。 雨上がりのせいもあってか、いっきに蒸し暑さがでてきました。 水滴が付いた木々の葉っぱも輝いていました。 初夏の雰囲気です。 それと真っ白い富士山が青空に映えていました。 こんな通勤路なので、今日はいいことがあるかもしれません。 今日のお寺は横浜が久良岐郡だったころ この地を治めていた平子氏を知ったかぶりで書いています。 『たいらこ』と読むそうですが 子供のころからその辺りに住んでいましたが たいらこさんという名前の人とは一度もお会いしませんでした。 現代はどこに行ってしまったのでしょう。 ワタクシごとですが、
このお寺が前身となった磯子小学校は我母校です。 当時は、お寺の周りは開拓途中で原っぱになっていました。 野球ができる場所が、4〜5面くらいあり 学校の帰りに遊んだものでした。 また、お寺の裏は山があり、クワガタやカブトムシを取った記憶もあります。 畑もあって、肥溜に落ちた貴重な経験もあります。 現在は山の上まで住宅地になってしまい、 木々の茂った姿はいまや面影もありません。 案内板
真照寺 高野山真言宗禅馬山三郷院真照寺は、寿永元年(1182)、源頼朝の御家人で「吾妻鏡」にその名前が見える平子平馬丞有長の再興した寺であるといわれています。 有長は、建久4年(1193)、源頼朝が富士の巻狩りの折、曽我十郎と切りむすんだ人です。 平子氏は、中世末期、小田原北条氏が関東に進出するまで、現在の横浜市域のうち、中区・南区・磯子区を領有していました。平子氏の館跡が真照寺の境内を含む地域であろうといわれています。 (社)横浜国際観光協会 横浜市教育委員会文化財課 平成4年3月 平子平馬丞有長:
三浦一族とルーツを同じくする源頼朝の御家人。 三浦大介義明の父為継の兄弟、為通の系統。 有名な「曾我兄弟仇討」で、敵と最初に太刀を合わせ負傷し、 勇者として名を残す。 この傷をこのお寺で療養したといわれています。 平子一族の菩提寺とし、毘沙門堂を建立した。 毘沙門堂に祀られた毘沙門像は、 有長の影像といわれています。 久良岐郡内の平子郷が苗字のルーツで、 郡内の地名には 石川・禅馬(磯子)・戸部・永田・根岸・本牧・蒔田・横浜などがあるそうです。 (宝生寺伝) 小学生のころには全く興味のなかった地元の歴史ですが
改めて楽しませてもらっています。 磯子区七福神の毘沙門天です。
2006年4月30日訪問
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1.お寺巡り
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本日は早起きです。 昨日横浜は暖かで、Yシャツ姿で仕事ができました。 フト鏡を見るとでっぱったお腹にショック! そろそろ4度目のダイエットを始めないと大変なことに・・・。 でも今週は家で掃除 来週は伊豆へ温泉旅行 再来週はGW GW終わってからでいいや 去年もGW明けから頑張ったから・・・。 泉区本興寺の縁起読んでいて、フト気がついたのが『休息山』の山号です。 素直?な山号は、その土地の名前のついているものが多いと思います。 『休息』つながりで、座間の円教寺について紹介させていただきます。 それにしても、鎌倉時代から『休息』という言葉があったのですネ。 座間駅周辺の散策をしたときに訪問しました。
周辺にある『龍源院』と『宗仲寺』は相模七福神となっていて 七福神巡りを意識しての訪問だったのですが 円教寺は行き当たりばったりの訪問でした。 案内板を見て、想定外の発見に喜びました。 歴史的には鎌倉時代の建立ということで 時期といい、建立のきっかけといい 印象に残るお寺となりました。 先日紹介させていただいた、泉区の本興寺の当所の山号と同じ 『休息山』というのが、一番印象に残っています。 <案内板>
円教寺 山号 休息山 宗派 日蓮宗 所在地 入谷一丁目三二二一 寺の縁起書によると、文永八(一二七一)年九月十二日、日蓮聖人が龍ノ口(藤沢市)の刑場で首を刎ねられようとした時、にわかに雷鳴が轟き、鈴木弥太郎貞勝公の鍛えた太刀は飛び散って聖人は難を免れた。(龍口法難) このことに驚愕し聖人に深く帰依した鈴木弥太郎貞勝公は刑場から依知(厚木市)本間重連公の館に赴く聖人に、自邸に休息を願い教えを受け「円教房」の名を頂いた。 後年、建治元(一二七五)年円教房は身延に日蓮聖人を訪ね自邸を献じて寺の建立を発願すると、聖人は日範上人(開山)を遣わして円教寺を建立されたのである。 このお寺は、瀧ノ口で日蓮の首を刎ねようとした人の家で
龍口法難の後にここに来て『休息』したとは・・・。 すごいお寺に行き当たりバッタリで着たなぁと思いました。 非常にわかりやすい案内板です。 円教寺が管理されているのだと思いますが、
日蓮の像が座間公園の入り口近くにあります。 他の場所で見てきた日蓮の像は 眉毛が凛々しく、厳しそうな顔の印象を持っていたのですが ここの像はやさしそうな顔をしています。 そう見えるのはワタシだけかもしれませんが・・・。 1282年、日蓮が亡くなった年ですが、 この年にも日蓮は円教寺に訪れているようです。 座間駅周辺の散策は、歴史的に見るものも多いです。
また、丹沢の山々のパノラマを楽しんだり 湧き水の散策コースを楽しんだり 欲張りコースのようです。 座間かるたでは『「に」 日蓮に ゆかりの深い 円教寺』となっています。
2009年1月17日訪問
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今朝、このお寺の駐車場の花が、一段と鮮やかでした。 青空にピッタシの組み合わせでした。 金本も、稲葉もがんばっているようで オジさんには励みになります。 工藤はちょっと疲れていましたが 元気をもらって出勤です。 プロ野球も見方を変えると、いままで以上に楽しめます。 春が始まりました。 ワタシの通勤経路にあり、毎日山門前を通ります。
朱色が色あせてきた重厚な山門を毎日見ています。 また何の木なのか知りませんが、4月ごろ駐車場の木が 白、ピンク、赤と鮮やかに咲いています。 案内板(誤字ご容赦、また句点等は適当です)
本興寺縁起 当山は日蓮聖人が鎌倉に於て辻説法をなされた旧地に弟子の天目上人が休息山本興寺を建立せられましたが其の後日什上人が法華山本興寺と改称され自ら開基となられました 日什上人は比叡山学僧三千の学頭でありましたが日蓮聖人の教風に感激し御年六十七才の時天台より日蓮宗に改められ尓来鎌倉本興寺を據点とし京都との間を往返数次禁裡の奏聞三度武家の諌暁数回寺院の建立数ヶ寺に及び大いに宗風を宣揚せられました 其の後当山二十七世常楽院日経上人は各宗と法論して之を撃破せられ殊に徳川家信奉の浄土宗と江戸城中にて法論に及び為に慶長十四年弟子五人と共に京都六条河原に於て「耳鼻そぎ」の極刑に処せられました来当山に対する圧迫甚しく為に万治三年本立坊は什宝と共に担家を引き連れ当所に移転せられました 本年より三百十余年前であります 仁王門は天明五年建立本堂は明治二年に再建せられ堂内の欄間には釈迦、日蓮、日什の諸聖の一代記を表はす五十四面の彫刻扉には七福神の彫刻あり又御宮殿の造作は大変精巧を極めて居ります宝物として日什上人の絵曼荼羅上人御使用の桧扇日経上人の血曼荼羅等があります。 なんとなくわかるようで、なんとなく理解しにくい縁起です。
歴史の勉強を軽く流してきたことを後悔しながら 他の資料も見ながら、年代を追記し整理してみました。 鎌倉(大町)に延元元年(一三三六年)、日蓮弟子の天目が休息山本興寺を建立した。 永徳2年(一三八二年)、日什が二世となり、法華山本興寺と改称され自ら開基した。 二十七世常楽院日経上人が不受不施を説いたため、 江戸幕府により京都六条河原で耳鼻削ぎの極刑に処せられ、 関連寺院は取り潰された(慶長の法難)。 三十世日顕により万治3年(一六六〇年)、鎌倉郡飯田村の当所に移転した。 お寺は歴史を肌で感じることができるところが魅力的です。 いい年になって、やっと歴史の面白さに目覚めています。 休息山で思い出しました。
いろいろなお寺を巡っていると頭の片隅に記憶が残っているものです。 座間にある円教寺の山号が休息山でした。 『休息』の由来は、日蓮の瀧口法難のときに 日蓮に深く帰依した鈴木弥太郎貞勝が 刑場から移動中の日蓮に、自邸に休息を願い、 教えを受け『円教房』の名を頂いたとのこと。 もともとの休息山もそんな由来があるのかもしれません。 ネットで調べると山梨県にも休息山立正寺がありました。 こちらも日蓮に縁があるので、名前の由来は皆同じかもしれません。 一人で楽しんでいるだけだとは思いますが、
ちょっとした疑問が、結構広い範囲に広がります。 2006年4月15日訪問/毎日通っています。
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通勤経路の桜の眩しさが楽しいです。 週の中日です。 後半もがんばって 週末をエンジョイしなくては。 今週は娘の発った後の片付けで 来週は定年退職される方の ご苦労様温泉旅行の予定です。 東戸塚駅ができてからもう30年近く経ちます。
そのころは巨大マンションもスーパーも建築中でした。 そばを通る環状2号線も工事中でした。 神社の沿革を見ると、東海道線の建設で影響を受け、 さらに東戸塚駅開発の影響を受けて、今日の姿になったようです。 沿革の彫られた石碑
(句点がないので、適宜区切りました) 熊野神社沿革 熊野神社は天長六年九月二十九日川上村役山田字番匠給に地域住民の守護神として創建され祭神は伊弉諾尊伊弉無尊である 例祭は毎年十一月二十三日に行われてきた 現在の熊の神社は明治二十九年東海道線鉄道の副線が建設されるにあたり境内の一部が鉄道用地となった為字五反田三百十八番地の共有地の寄付を受けて明治三十年四月十二日に移転した この時字高用坊八百八十四番地にあった五霊大神を合祀した 拝殿は移転の時に新築され奥殿及び中宮三体は熊野神社より移転された例大祭は移築された日を記念し毎年四月十二日に改められ其の他祈念祭二月二十六日感謝祭十一月二十六日と定められた 境内には旧熊野神社並に五霊大神境内及び各地に散在しているその后地域の発展開発にともない念願であった東海道線東戸塚駅開業を記念し昔の下請中上講中の人々で境内の一部を整備し沿革記念碑をこヽに建立する 昭和五十六年四月十二日 厚木街道と東海道をつないでいる道路、
二俣川駅南口から自然公園通りを経由して 東戸塚駅に向かう山越えの道にあります。 桜の花見で定評のある大池公園(こども自然公園)、 戸塚カントリークラブ、横浜カントリークラブ が道沿いにあります。 大池公園の裏の入り口に 『鎌倉道と大山道の分れ道』の案内板があります。 案内板
鎌倉道と大山道の分れ道 昭和五三年(一九七八年)までこの場所は三叉路でした。 この道を、東に行けば今井街道を経て旧東海道の保土ヶ谷宿に通じており南にいけば今の戸塚カントリークラブの中を通り抜けて、鎌倉まで通じる道(鎌倉中の道)で、昭和三七年(一九六二年)に戸塚カントリークラブが出来ましたが、道路沿いに都(子)塚があり今でも昔の面影を残しています。 また、西に向かえば大池、長昌寺、現在の東希望小学校を経て、大山の阿不利(雨降)神社に通じる大山道への分枝点でした。 神社仏閣の散策もいいですが、
古い街道もなんともいいようもない味があり、 面影を楽しむのもいいものです。 2006年2月25日
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神社仏閣巡りを始めてから、 見なれないもの、疑問に思うものなど 人にはなかなか聞けないし、ネットでも 答えが簡単にみつからないものがありました。 香象院の入り口の『お釜』は何なんだろう? お寺にお釜のモニュメントとは何だろう? 4年越の疑問に解答を見つけたように思えました。 ただ、どうして雨水鉢がお釜の形なのかは疑問として残っています。 3つのお寺は宗派もことなるので、宗派には関係なさそうです。 この疑問は継続となります。 強烈な第一印象は門にあるお釜のモニュメントです。
何でこんなものが入り口にあるのでしょう。 その疑問は2009年4月4日に解けたように思えました。 港南区の西福寺の雨水鉢がお釜の形をしていたので、 これはもともとは雨水鉢だったのではないかと確信しました。 上から
香象院のお釜 座間の心岩寺のお釜(ここにもありました) 港南区の西福寺のお釜 『保土ヶ谷区郷土史』の編者の磯貝正氏のお墓があります。
保土ヶ谷区で 旧跡を散策すると、いろいろな案内板があり、 なかなか興味深く楽しめます。 その影に郷土史をまとめてくださった方の 地道な努力があるものと思われます。 現在の建物を見ると、寺小屋とは想像もできませんが、
保土ヶ谷小学校の分校にもなった寺子屋があったそうです。 入り口から入ると、左側に
『弘法大師』と彫られた石柱があります。 そのとなりに石の象があり、 更にそのとなりに延命地蔵様が居られます。 新四国東国八十八ヶ所霊場 第26番
2006年4月30日
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