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娘が出て行ったので、 朝のリズムが狂ってきました。 寝坊してしまいました。 娘を送っていかねばと起きていたのが 責任感が半分になって、気が抜けたのでしょう。 3月も今日で終わりです。 週末は恒例の花見会です。 本日紹介させていただくのは お寺でもなく神社でもなく 南北朝時代の鎌倉公方に関係した上杉憲方のお墓です。 京都から鎌倉を管理していた出先機関なのでしょうか 鎌倉公方は鎌倉時代に京都にあった六波羅探題の逆みたいですね。 極楽寺坂にあります。
極楽寺を散策した後、成就院に行きましたが そこで、上杉憲方のお墓の場所を尋ねました。 「ちょっとわかり難いんですよね。 極楽寺に向かってちょっと行って 普通の家と家の間を山のほうへ入って行くんですよ。 そうそう、確か案内がありますよ。」 極楽寺から成就院に来るときに 結構気を使って探したのですが 見つけられませんでした。 これだけのヒントで再挑戦してました。 再び極楽寺に向かいました。
坂の頂上間近で石に彫られた案内を見つけました。 確かに、普通の家に入る感じでした。 これでは簡単に見つけることはできません。 見つけられずに断念した人もいるのではないでしょうか。 史跡にしては非常にわかりにくいところにありました。 民家の塀の隙間を入って行き、
突き当りを左側に曲がると見えてきました。 民家と山の間にひっそりとありました。 案内板
史跡 伝上杉憲方墓 昭和二年四月八日文部省指定 上杉憲方は憲顕の子である。天授五年(一三七九)美濃の土岐頼康の叛乱を討つため出陣したが三島で在陣中、鎌倉御所、足利氏満を補佐する関東管領に任ぜられ鎌倉に帰り山内に住んで山内氏を称した。 応永元年(一三九四)十月六十才で亡くなり法名は明月院殿天樹道合という。 墓地には上杉憲方墓と伝えられる安山岩製の七層塔のほか、疑灰岩製の五層塔一基、五輪塔三基、安山岩製五輪塔多数ある。 七層塔は鎌倉末期の作と推定される塔身には仏像を刻み基台には枠をめぐらし格挟間を刻んでおり、すぐれたものである。 昭和四十六年三月十五日 神奈川県教育委員会 さびしげなエリアです。
案内板に書かれている石の塔を確認。 とにかくここにこれたことに満足し、 成就院の住職さんに感謝です。 ついつい見落としそうな場所といい
古都散策のコースとしてはマイナー的なイメージでした。 2009年1月17日
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1.お寺巡り
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娘の引越しを手伝って東京に行きました。 地元となる神社に娘一家のためにお参りしてきました。 いよいよ新生活の始まりです。 夜娘一家と焼肉に行き、 今朝起きても口の中が油だらけの感触です。 もうしばらくは焼肉は食べたくない・・・。 東京って結構川があります。
昔はこの近辺まで入江がきていたそうな。 ETCをつけてから、始めての首都高です。 ETCだと割引があることを始めて知りました。 首都高を降り、都会の中を車で走るのは久しぶりです。 付いたのは猿江町です。 江東区の神社訪問は初めてです。 案内板
猿江神社由来記 伝承として昔、康平年間(一〇五八年〜一〇六五年)源頼義が奥州征伐(後三年の役)の頃、この付近の入江に勇々しき戦武士の屍がただよい着き、不思議にも、其の屍より、毎夜光明を発し村人この屍を叮重に葬る。 武士の鎧に源頼義の臣「猿藤太」と記してあり、又、懐中より有難き経文一巻がいでたり、よって村人「猿藤太」の頭文字と入江の「江」をとりて、猿江稲荷と尊稱し、近郷近在の守護神となし、村落の敬神の地として仰ぎ奉り。豊作祈願、病気平癒、悪病退散、等の、この地の氏神社として祭り、又それより地名も猿江の地名これより発祥せり。 尚、当時、この村落の氏神社である猿江稲荷神社は右来より「天照大御神」「宇迦之御魂神」とを御祭神としてゐたが武人猿藤太の御霊をも合せ加え、代々お祀り申し上げて参りました。 江戸時代は猿江稲荷神社と稱し隣接せる、日蓮宗寺院本覚山妙寿寺の住職が代々、守護管理を司どっていたが明治以降、近年になり、神保宮司を祭官として招き。合せて村、町、の発展と共に町内氏子の者達が、神社の護持運営にあたり現在に引き継がれた次第であります。 お恵み(ご利益)としては、家内安全、病気平癒、商売繁盛、心願成就として霊験あらたかなり。 昭和六十一年丙寅八月吉日 文責者 堀江候雄 源頼義の家来「猿藤太」を葬ったところから猿江の由来だそうですが
神社から地名になったというのは初めて聞きました。 都会のスペースもままならないのでしょう。 同じ境内に合祀されていたのが『藤森稲荷神社』と『馬頭観音社』でした。 案内板
藤森稲荷神社縁起 創立不詳ながら、江戸時代初期には本所(墨田区)横綱町の江戸幕府御用材木蔵に既に祀られていた。享保十九年(一七三四)御用材木蔵と共に猿江の地(現在の猿江恩賜公園)に遷座された。明治以降は宮内省所管となり、この頃から猿江神社の宮司家により祭祀奉仕がなされている。 亦、社殿が藤の木で囲まれ毎年花の咲く季節に祭礼が行われていた事から、何時しか藤乃木魂を祀る「藤森神社」と称され、四百年余に亘り木材作業に従事する人々の厚い信仰を享けてきた。 昭和五十二年春、東京都の都市計画による猿江貯水場の移転に伴い、現潮見駅前に遷座されるが平成十三年十二月崇敬なる旧東京広葉樹連合会々長長谷川健治氏他関係諸氏の創意尽力で再び縁深きこの猿江の地に戻り、猿江神社の境内に安宮鎮座される。 江戸時代より木材の守護神として商売繁盛、工事作業安全のご利益があるとされている。 尚、石灯篭一対(弘文五年・一八五八)、石水盤(貞享三年・一六八六)は、区の有形文化財である。 宮司 神保恵一 謹書 案内板
馬頭観音社 馬頭観音とは密教系の信仰である六観音の内、ヒンズー教の神、毘紐拏(びしゅぬ)が馬に化身して、魔物に奪われた聖典を取り戻したという説話が起源とされる。馬が周囲の草を食べ尽くすように、一切の煩悩を打伏すといわれ、日本では奈良時代以降に信仰され、身近な動物への無病息災の民間信仰と共に江戸時代には旅の道中の安全、家畜の守り神として広く流布されるようになった。 当社は創立不詳にて、長期境内に埋没していたが、昭和六十年、「氏神と共に境内の馬頭観音を崇拝せよ」との告言により再び御姿を現わされ、人々の厚い信仰を享けている。 形容は馬頭観音の刻印の上に馬の絵が彫られ、馬方の絵の石と併せた、大小一対の珍しい石碑で、研究者より注目されている。 心願成就、旅行、交通安全のご利益もあるとされ、馬に関わることから競走馬関係者の参拝も多い。 又、近年前途の由来よりペットの無病息災祈願も増えている。 [馬守]人生・勝負に勝つ! [馬頭観音守]授与致します 馬頭観音は路上で見かけることがありますが、
『社』とついて、神社のように祀られているのは初めて見ました。 境内では桜の花がポツポツと咲いていました。
1週間遅ければ満開だったでしょう。 この神社の『紋』です。 稲のようです。 このあたりもかつては水田が営まれていたのでしょう。 2009年3月28日
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娘が嫁いでまる3週間経ちました。 しかし、住む家を探していたので 今日まで家から通勤していました。 毎日駅まで車で送っていくのですが 今日、最後のお勤めです。 来週からは新居から出勤することになります。 ホットするやら淋しいやら。 節目の1日になります。 このお寺、まさに名前がお寺の素性を表しています。
元榎下城のあった地に建立されたお寺です。 読んで字のごとくということになります。 横浜線、中山駅と十日市場駅の間、 三保団地入り口の交差点を入ったところにあります。 のどかな場所です。
横浜線の線路の向こう側は田畑が広がり、 お寺の周りには林があります。 いつまでも残しておきたい風景のパターンです。 山門をくぐると、林に包まれ静かな境内となっています。
お城についての資料は結構見つけるのですが、 お寺については公開されている資料はあまりありませんでした。 慶長年間(1596〜1614)に開かれ、城跡であったことから 旧城寺と名付けられたということです。 地図の上では、このお寺から少しはなれたところに
旧城寺と書かれたお寺がもうひとつあります。 お堂がひとつの小さなお寺ですが 何らかの係わり合いがあるものかと思います。 案内板より
榎下城(久保城)址 ○室町初期(一四〇〇年頃) ○土城様式(石垣を用いる前の様式) 榎下城は上杉憲清が築いたもので、自然の丘陵地を利用し、内外に空堀をめぐらし、さらに土を盛って土塁を築き、大手口には侵入者をまっすぐ城内に入れないために喰い違いの虎口という独特な土塁を築いている。また、東側の堀は谷を利用して箱堀となっている。 本九は一段高いところに位置し、昭和四十年より三回にわたる発掘調査で櫓跡と城の柱跡が確認された。 上杉憲清の子憲直が永享の乱に足利持氏に加担し、敗れて金沢称名寺で自決して以来城主については不明である。その後慶長年間にこの地に旧城寺が開かれた。 昭和四十八年十一月 緑区役所 榎下城址
榎下城は、上杉憲清が築いたと伝えられ、自然の丘陵地を利用し、本丸は一段高いところに位置し、内外に空堀をめぐらし、さらに土を盛って土塁を築き、大手口には侵入者をまっすぐ城内に入れないために喰い違いの虎口という独特な土塁を築いています。また、東側の堀は谷を利用して箱堀となっています。 上杉憲清の子憲直が永享の乱(1438)に足利持氏に加担し、敗れて金沢称名寺で自決して以来、城主については不明ですが、小田原北条氏の時代にも小机衆の拠る小机城に対して出城の役目を果たしていたとも考えられます。 その後、慶長年間(1596〜1614)にこの地に旧城寺が開かれました。 寺林は、県指定天然記念物に指定されています。 (社)横浜国際観光協会 横浜市教育委員会文化財課 平成2年3月 神奈川県指定天然記念物
旧城寺の寺林 昭和五十五年二月十五日指定 恩田川に望む台地上に位置している旧城寺の寺林は、周辺の農耕地、住宅地の中に典型的な郷土林として残 されている。 山門の両側の古い土塁上には樹高二十五メートルのカヤが列生し、カヤの大木を中心にアラカシ、シラカシ、タブノキ、ヤブツバキ、ケヤキなどがすきまなく樹冠を形成している。低木層にはアオキ、ヒサカキ、モチノキ、ヤブツバキなどのヤブツバキクラスの常緑広葉樹林の種群が数多く生育している。 寺院の後方斜面林は、スギ、ヒノキの植林に混生してシラカシ、ケヤキ、ミズキが高木層を占め、亜高木層にはシロダモ、モウソウチク、イヌツゲが生育している。低木層から草本層にかけてはアオキ、シラカシ、ヒサカキ、シロダモ、ナンテン、ジャノヒゲ、ヤブラン、ヤマイタチシダ、オオイタチシダが生育している。生態学的にはシラカシ群集のケヤキ亜群集と判定される。 県下の内陸台地に残された郷土林として将来にわたって保全される必要があり、天然記念物に指定するものである。 昭和五十五年十二月二十日 神奈川県教育委員会 山門由来記
この山門は明治廿六年もと横浜の神奈川通りにありし浄土真宗本願寺派、海見山長延寺第十一世雲居玄照法師の代に建立せられしものなり。幸にも関東大震災、横浜大空襲の難をまぬがれたり。昭和四十一年、第十五世雲居隆昌法師の代に長延寺は當三保町に遷山。佛縁によりてこの山門を旧(昔の字で書かれています)城寺に復元す。之が復元に當り石井忠兵衛氏檀越となり工事費百五拾萬円を供養せらる。時に宗祖弘法大師御誕生千二百年の記念すべき年に落成。 昭和癸互八月四日 久保山旧(昔の字)城寺住職野村全宏 識之 長延寺ってオランダ大使館に使われていて
現在はこの近くに移設されたお寺です。 いろいろつながりがあるものです。 2006年4月22日
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今朝の横浜は小雪が舞っています。 春の花が咲き始めているので 神秘的な組み合わせになっています。 通勤の車の窓に、結構大きな雪粒が当りました。 また一歩春が後退したような朝です。 厚木街道と保土ヶ谷バイパスのクロスするところ。
保土ヶ谷バイパスのすぐ脇の小さな丘にあるお寺です。 石段を上り、本堂に向かうと子供の声が聞こえてきました。
遊んでいる声です。 そういえば、ワタシの子供の頃、遊ぶところは 神社、お寺の周りが多かったような。 住宅街の端のほうに、 ちょっとした木々の生えたオアシスだったように思い出します。 子供の声になつかしさと安心感が出てきました。 案内板
横浜市地域史跡 旗本宅間家歴代の墓所 平成六年十一月一日 所在地 宗教法人 三佛寺(さんぶつじ) 所在地 横浜市旭区本村町七六番地五号 旗本宅間家は上杉一族で、戦国時代は北条家に属し、永谷(現、港南区)を領し、江戸時代、二俣川村を知行しました。 現在、墓所には元和三年(一六一七)から明治十五年(一八八二)に及ぶ計十八基の墓塔と二基の灯篭が遺されています。墓塔は宝篋印塔四基、板碑形十三基、角柱塔一基ですが、元和年代の二基は、切妻破風付の古式な板石碑で、横浜市域では稀少な遺例です。また、安政六年(一八五九)没の憲輔は歌人で、墓には辞世の句が刻まれています。 平成七年三月 横浜市教育委員会 宅間上杉家:
室町時代に勢力があった上杉氏の一族で上杉重兼を祖とそうです。 上杉家は系列がいろいろあるので、書き物を読んでいても混乱してきます。 深追いするつもりはありませんが、 戦国時代は北条家、関ヶ原の戦いでは徳川配下、江戸時代は旗本として二俣川村を知行しているそうです。 開基は宅間治部少輔規富ということです。 1600年頃になります。 二俣川学舎: 明治6年にここに寺小屋なのでしょう、二俣川学舎が設けられました。 筆塚があり、教育の熱心さが伝わってきます。 御詠歌
三佛乃 みのりをとくや 鶴が峰 ひとこえとても よもに あまねし 旧小机領子年観音霊場 第二十八番札所 宅間家の墓と辞世の句については見落としてしまったので、
次回訪問時に確認する予定です。 2006年4月22日
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南区蒔田というところに勝国寺はあります。
中学時代は自転車で山越えをして、学校に通っていました。
勝国寺は通学コースの途中にあります。 当時はお寺があることや、 まして、城跡があることも知りませんでした。 中学の頃から、神社仏閣が好きなんて人はあまりいないと思うので、 まぁ普通の中学生だったのでしょう。 戦国時代にこの地を知行していたのは吉良家で
勝国寺は、彼らの菩提寺ということです。 四基の供養塔が残されています。 「蒔田御所」と呼ばれた蒔田城というお城もあったそうです。
子供の頃に住んでいた身近なところに
戦国時代を思わせるロマンがあるとは驚きでした。 お寺は文明11年(1479)に吉良氏の菩提寺として建立されました。 五百年以上の歴史があるのは魅力的です。 案内板
横浜市地域史跡 吉良家の供養塔 平成五年十一月一日 登録 所有者(宗法)勝国寺(しょうこくじ) 足利氏の一族である吉良氏は、後北条氏とも姻戚関係にあり、中世後期の室町時代には、この蒔田の地で「蒔田御所」と称せられた館を構え、将軍家の一家として諸侯から一目置かれる存在でした。 竜禅山勝国寺は、館が所存した丘陵の下に位置し、その寺名は吉良政忠の法号と一致し、その子成高が父のために寺院を開基したものと考えられています。 この勝国寺裏山の墓地には、吉良家の供養塔である四基の五輪塔が所存しています。 五輪塔の最も大きなものは、高さ102センチメートルを測り、さらにその一基には、正面に「祖師西来」、台石に「政忠塔」、裏面に「照岳道旭大居士」「文亀二年六月十七日」と刻されていることより、本五輪塔は政忠の供養塔と考えられます。 平成十八年三月 横浜市教育委員会 案内板
吉良氏の館跡と勝国寺 成美学園の丘一帯は、小田原北条時代、北条氏と姻戚であった吉良氏数代の館跡です。吉良氏在住の当時は、地名によって蒔田御所といわれました。 吉良氏は、足利一族三河国(愛知県)吉良を発祥とし、応永年間(1394〜1427)に武蔵世田谷(東京都)に本拠を置きました。吉良政忠、あるいは成高の時に蒔田を領有するようになりました。北条氏康の娘高林院が、吉良氏朝に嫁ぐときに、北条幻庵があたえた婦道の心得書は、「幻庵覚書」として有名です。 吉良氏の菩提寺の一つは、館跡に近い勝国寺です。政忠の菩提寺としてその子成高の建立といわれます。墓地に政忠の供養塔が遺されています。 (社)横浜国際観光協会 横浜市教育委員会文化財課 平成2年3月 案内板
龍祥山勝国寺由来 此の地は小田原北條氏綱の女婿吉良左兵衛の城跡であった。龍祥山勝国寺は文明11年吉良左京大夫政忠の開基である。政忠は文亀2年6月17日此の地に卒し、墳墓は之を証し、法名は勝国寺殿昭岳道旭大居士と称す。名を勝国と改めたにより寺号とする。五輪の石塔有り。高さ二尺五寸、正面に祖師西来の字を刻してある。五輪の石塔四基あれど文字無く、政忠の孫左兵衛頼康も当寺に葬りしといへば、四基の中にあると思慮せられる。 2006年4月30日
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