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お寺と神社を同時に訪問しました。
横浜最北端のお寺に行ってみようということで、
手持ちの地図の卍マークをチェックしてみました。 地図からは青葉区北部の保木薬師堂が最北端と認識して、 そこを目指してポタリングをすることにしました。 青葉区南部は、かつてワタシの学生時代の寮があり、
1年間ほどそこで暮らしていました。 田園都市線青葉台駅近くに寮があり、 駅周辺にはいろいろ思い出の場所があります。 それから30年以上の月日が経ちました。 駅周辺は活気を帯びていて、昔の田舎の駅のイメージは一新。 なんじゃこりゃぁぁぁぁの変わりようです。 子供の国線に沿って北上、鉄町を経て山越えをし、
川崎市に一度入り、王禅寺の横の道路を通って美しが丘西まで行きました。 保木薬師堂の近辺に行くと、 区画整理が行われ、広い道路が走り、 新たに作られた町という印象を受けました。 広い道路は車両も多くなく、ポタリングしやすいコースでした。 地図ではHACのそばにあるので、それを目印に進み、たどり着くことができました。 名前が『薬師堂』で、堂がひとつ建っているのだろうとは思っていましたが、 やはり堂ひとつの建物でした。 屋根の上の真言文字『べい』が印象的な建物でした。 (いろいろお寺をめぐりましたが、屋根にこのような文字の書かれている建物は見たことがありません。) 七段のちょっとした石段を上り境内に入ります。
見た目は正四角形の土地の境内に見えます。 石段の正面に堂があります。 堂に向かって左側には12体の石仏、石柱が並んであります。 一直線にならんでいるので、いろいろなところにあった石仏、石柱を集めてきて ここに並べたように察します。 案内板
保木薬師の縁起 一、保木薬師堂(ほうぎやくしどう) 天明三(西暦一七八三)年建立。方五間。大工は清澤村(川崎市高津区千年)の木嶋弥七、藤吉。昭和六十二年保木土地区画整理事業に伴って移転改築し、茅葺から銅葺に変え棟に真言「べい」の梵字を揚げ内外を整備した。 堂は古来永年部落の集会所として活用されていた。 二、本尊−薬師如来像 神奈川県重要文化財 承久三(一二二一)年開眼、作者は僧尊栄。木造高さ八五、二センチ。昭和五十八年二月神奈川県指定重要文化財に指定された。現在は神奈川県立博物館に寄託して保管され、毎年九月十二日の縁日に帰堂して護摩法要を行う。 三、脇侍−持国天、多聞天 寛文什一〇(一六七〇)年一〇月開眼、作者は僧知門、高さ一〇二センチ、木造。邪鬼を踏む立像、破損欠失部がある。 四、宮殿(厨子) 享保一七(一七三二)年造立、大工上麻布村(川崎市)鈴木多兵衛、間口一一〇センチ、入母屋造妻入り、木瓦葺昭和六十二年に補修した。 所在 横浜市青葉区美しが丘西二、七、二 所有 金剛山満願寺(境外仏堂) 管理 保木薬師堂信徒会 平成六年三月建之 お堂の向こう側に神社がありました。
十社宮と呼ばれる神社です。 十社宮はまさに名のごとく、十柱の神様が祭られています。
案内板
十社宮 鎮座地 横浜市青葉区美しが丘西二丁目七番地三 由緒 一、新編武蔵風土記稿に「十社宮は見捨地、石川村の西の 方によれり」と記載されている。創建年月日は不詳であるが周辺の状況から推察して江戸時代初期と思われる。 二、寛延二(西暦一七四九)年 旧社殿造営 大工 八木下金蔵 三、宝暦三(西暦一七五三)年 石水鉢奉献 願主 飯嶋甚右衛門 四、天保十一(西暦一八四〇)年 石坂三か所築造 当所氏子中 五、明治十三(西暦一八八〇)年 旧石鳥居建立 当所氏子中 六、此の神社は古来「十社権現社」と呼ばれ隣接の薬師堂と共に別当満蔵院が代々その祭杞を守ってきた。明治維新の神佛分離令により「十社宮」と改められた。 七、平成二年三月保木土地区画整理事業に伴って社殿を移転改築しその面目を一新した。氏子の信仰篤く祭杞を伝承している。 御祭神 国常立尊(クニトコタケノミコト)、国狭植尊(クニサヅケノミコト)、豊斟淳尊(トヨクムヌノミコト)、泥土煮尊(ウヒヂニノミコト) 沙土煮尊(サヒヂニノミコト)、大戸道尊(オオトノヂノミコト)大戸辺尊(オオトノベノミコト)、本多和気尊(ホンダワケノミコト)、大日霎尊(オオヒルメノミコト)、天児屋根尊(アメノコヤネノミコト) 恒例祭 祈年祭 二月下旬式典執行 例祭 十月十日式典執行。驚神社合同祭杞 勤労感謝祭 十一月下旬式典執行 平成六年三月吉日 建之 十社宮氏子会 お寺と神社が共存しているように見えます。
決して違和感は感じませんでした。 2006年4月22日
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1.お寺巡り
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ワタシの知る限り横浜でただひとつ、
島にあるお寺ということになります。 といっても地図帳を見ての判断ですので 間違っていたらゴメンなさい。 京浜急行金沢八景駅から平潟湾にでて、
湾に沿って関東学院大学方面に進みます。 野島に架かる橋を渡ると染王寺が見えてきます。 野島には小学校の遠足で(確か)貝塚を見に来たんだと思いますが、
当時の東京湾は汚染が激しく、ここでもドブ臭かった海を思い出します。 父とハゼ釣にきたことも思い出します。 野島にかかる橋の上から竿を出して、小さなハゼを釣った記憶がよみがえりました。 現在は海の匂いも潮の香りになり、橋もきれいになっていました。 釣をしている人の姿は見えませんでした。 釣船屋もたくさん並んでいたような記憶ですが 今ではあまり目立ちませんでした。 金沢八景という名前からして かつては景勝地だったと思います。 今でも横浜港とは全く違った海の姿が残っています。 山門に描かれていた家紋は藤(だと思います)に『王』の字が入ったものです。
『藤』に縁のある家系なのかもしれないなぁ・・・などと思いつつ 六地蔵様に挨拶しながら山門をくぐりました。 境内の中にも六地蔵様が居られました。
正面に見える本堂は、ガラスこそ入っていますが、木造の古そうな建物です。 潮風にさらされながらも、しっかりとした雰囲気があります。 武州金澤34ヶ所観音霊場のひとつ。
武州金澤34ヶ所観音霊場という霊場巡りがあることも初めて知りました。 34ヶ所すべてが横浜市内にあったようですが、廃寺になったお寺もあります。 深入りするつもりはありませんが、 霊場というと33ヶ所が多い中、34という数字が気になります。 他の2つの33ヶ所霊場と併せて100霊場を狙ったのか それともたまたま34ヶ所だったのか ・・・・気になります。 いずれこれらも巡礼してみたいと思います。 また新四国東国八十八所霊場第七十七番ということでもあります。 案内板より
横浜市地域史跡 筆子塚 平成五年十一月一日 登録 所有者(宗法)染王寺(ぜんのうじ) 染王寺は、野島山と号して古義真言宗御室派で、本尊は聖観世音菩薩の立像です。 本寺の創建については詳らかではありませんが、永徳二年(一三八二年)比丘尼了意(びくにりょうい)が野島山に小庵を結んだのに始まると伝えられます。また、文政十一年(一八二八年)の「新編武蔵風土記稿」に、寺名の染王寺が善應寺とあり、野島山の山頂に所在していたことが記されています。 現在、本堂左側境内地には、四基の墓塔からなる「筆子塚」があります。 これらの墓塔は、江戸時代の元禄元年(一六八八年)から享保十六年(一七三一年)に造立されたもので、四基のうち二基は善應寺、あと二基は正覚院のいづれも住職の名が刻まれており、これは、本寺が寺小屋のような学問推進の場であり、その師であった住職のために、教えを受けた手習子たちによって建てられたものです。 平成六年三月 横浜市教育委員会 かつては野島の山頂にあったそうです。
寺の名前もゴロが似ている『善應寺』だったようです。 筆子塚があることから、昔も教育については熱心だったことが伝わってくるようです。 2006年8月12日
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環状四号線、鎌倉街道の笠間交差点からローカルなエリアに入ります。
地図の鳥居の記号を目印に狭い住宅街をウロウロします。 石段と鳥居を見つけました。 たぶんここが笠間の山王神社なのでしょう。 石段は明るいところにあるのですが、
その上の鳥居は木の茂った暗いところに見えます。 小さい山の頂上に吸い込まれるように参道が続きます。
境内の大きさも想像できます。 そんなに大きなお堂があるとも思えません。 そう思いながら鳥居をくぐり、頂上を目指します。 石碑のようなものが見えました。 頂上に着くと、石碑の左側に小さな祠がありました。
この二つが全てのようです。 神を祀るのに境内やお堂の大きさは関係ないのでしょう。
この小山全体が本殿に等しいのかもしれません。 祠の後ろ側に展望できる場所があります。 山頂から眺める町の景色も気持ちがいいものがあります。 石段を下って帰るときに
石段を下りきったところに、もうひとつ祠がありました。 やはり、この山全体が聖域なのかもしれません。
鳥居もあたらしそうでした。 お供え物や、手入れ状況を見ると 地元の方の信仰は篤く、大切にしていることが理解できます。 大きな神社の散策もワクワクするのですが 小さな祠の聖地の散策も楽しいものがあります。 2008年6月14日
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横浜に環状4号線の原宿と瀬谷がつながってからもう何年か経ちました。
かつて下瀬谷を経由して車通勤をしていたのですが、 その時に利用していた裏道も環状4号線に分断されてしまい、 どこをどう通っていたのかさえ思い出せません。 全通院勢至堂は環状4号線の下瀬谷橋バス停の近く
階段を上ったちょっとした丘にあります。 瀬谷八福神巡りの最後の八番目に訪問しました。 他の七寺とはまったく感じが異なり、 お堂がひとつの人っ気のない境内です。 八福神巡り用のスタンプも堂の縁側?に置いてあるだけです。
八福神巡りというイベントがなければ、 めったに来る人もいないのではないかと思ってしまいます。 案内板がありました。 藤の大樹についても説明が書かれていました。 下瀬谷分教場跡(勢至堂)と大藤
明治22年(1889年)の市町村制の実施により瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、一村となりました。この合併により瀬谷小学校の通学区域が広くなったため、低学年児童の通学の便を考慮して、明治23年(1890年)11月に分教場をこの全通院勢至堂境内に設けました。この分教場は昭和18年(1943年)の学区改正によって廃校になるまで、50年にわたり数多くの児童が通学しました。 また、この境内には「横浜市の名木古木」に指定されている藤の大樹があり、その花の咲く頃は誠にみごとなものです。 全通院勢至堂は曹洞宗瀬谷山徳善寺別院として、勢至菩薩を本尊として祀っています。 相模国深見村の中丸左源太が、一夜霊夢に導かれ鹿島神社の旧跡から勢至菩薩の像を発掘し、全国を巡礼し喜捨を請け、徳善寺に納めました。その後、この全通院阿弥陀堂に遷座したと伝えられています。屋根の改修時に発見された棟札には江戸時代の寛政9年(1797年)に現在のお堂が建立されたと書かれていました。 地元では「お勢至様(おせっさま)」「勢至堂(せしどう)」とも呼ばれ親しまれています。12年に1回、午年の8月23日に開帳されます。 平成10年 3月 瀬谷区役所 相模国深見村の中丸左源太の霊夢<お勢至様(おせっさま)>:
左源太の夢に仏様が出てきて、掘り出すように告げました。 左源太は土の中から金色の仏像を掘り出して、洗い清め、村のほこらにおまつりしました。 再び左源太の夢に仏様が出てきて、今度は、一緒にほかの村々を回ってくれるよう告げました。 左源太はほこらの勢至菩薩を厨子に背負って各地を巡り、仏の教えを広めました。 勢至菩薩は全通院の勢至堂に安置され、おせっ様と呼ばれるようになったということです。 1月と8月の23日は縁日が開かれるそうです。 午年はまだまだ先ですがご開帳には是非来てみたいと思います。 大藤は毎年咲くでしょうから、6月に花見に来たいと思います。 瀬谷八福神ですが
二ツ橋にある最勝寺が寿老人と書かれた資料を見たことがあり 気になってメールで瀬谷区役所に問い合わせました。 さっそく返事が返ってきて かつては最勝寺が寿老人だったそうですが、 辞退され、当院が寿老人に設定されたとのことだそうです。 2006年4月8日
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中原街道沿いにあるお寺です。
ここにも日蓮の像がありました。 瀬谷八福神のパンフレットより 日蓮宗御興統門流(富士宮市北山本門寺)第十二世日賢上人が寛永2年(1625年)石川家 門除け『題目堂』として建立し開祖となる。江戸への布教の途にあった日賢上人は里人から石川宗川の篤き信心に感じられ、上人自ら開山となられ、寺号に宗川の名を取り『宗川寺』と号す。 瀬谷八福神 福禄寿 ここで見つけた案内板は、昭和時代に書かれたものでした。
昭和54年ということは30年前のものということになります。 案内板より
宋川寺の大樹 夫婦銀杏(瀬谷町一四六六番地) 中原街道瀬谷問屋場跡(瀬谷町一五六三番地) 宗川寺は寛永乙丑年(一六二五年)富士重須本門寺第十二世日賢上人開山、開基は石川宋川である。 山門を入ると左右の夫婦銀杏は昔から縁結び、安置祈願の信仰を受け、近所より多くの参詣があり、いまは横浜市の名木と指定された大樹である。 中原街道瀬谷問屋場は天正六戌寅年(一五七八年)小田原北條氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に問屋場が設けられ、のち、徳川氏の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸−平塚間五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代二七〇年にわたって、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果した。(これより東方八〇米、桧林がその跡である。) 昭和五十四年三月 瀬谷区役所 石川宋川:
江戸時代、この周辺で知行地を持つ旗本は、 瀬谷村:後藤氏、長田氏、本多氏、阿久和村:安藤氏、宮沢村:石川氏 この宗川寺は石川家のかかわりのあるお寺ということになります。 人の名前の付いたお寺はあまり記憶がありません。 信仰心が篤いだけでなく、かなりの大物だったのだと思われます。 夫婦銀杏: 山門の左右に銀杏の大樹のある神社仏閣はよく見かけます。 ワタシはそれが神社仏閣のパターンなのかと思っていました。 そういえば、確かにここ(宗川寺)の大樹は立派です。 問屋場(といやば): 江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところ・・・。 よくわかりませんが、東海道五十三次の宿場とまではいかないのかもしれませんが 街道の中継地点になっていたのだと思います。 設けられたのは1578年(天正6年)ということなので、江戸時代の微妙に前になります。 石川弥治右ヱ門重久に経営が委嘱されたということで、石川家の歴史そのものかもしれません。 中原街道: 中原街道と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからで かつて日蓮も利用したという記録もあるようなので、 相当古い街道ということになります。 ワタシもチャリ巡礼で利用することがあります。 2006年4月8日
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