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246(国道246号線の通称)から若葉台に抜ける道沿いにあります。
学生時代、よく通った道なのですが、このようなものがあるとはまったく知りませんでした。 周りの雰囲気は今も昔(30ん年くらい前か)もそれほど変わったように見えません。 そんなタイムスリップをしてしまうような道です。 学生時代、246から横浜に行くときに、抜け道として使っていました。 道路に沿って狭い小川が流れています。 のほほん的な場所です。 石仏もいくつか見えます。 彼らも、のほほんと鎮座しているのでしょう。 ちょっとした癒しの空間です。 案内板より
由来 当種月山耕雲庵の本尊様は、虚空蔵菩薩と申され、広大無辺の力と、特に智恵よ、福徳と音声を備えられた仏様であり、その威神力をもって人々の心願を叶えてくださる霊感あらたかな仏様であります。 福徳を願う人には 家門繁栄/商売繁盛 智恵を願う者には 入試合格成就/転職合格成就 音声を願う者には 技芸上達成就 その外病気平癒 安産無事出産 虚空蔵様を信仰する人には如上の御利益を授け給われます。 当庵は元禄年中の開創にして、実に四百余年の長きにわたり、人々を護りつづけて現在に至ります。 碑文
種月山耕雲庵再建碑 耕雲堂の由来は種月耕雲道心念持仏の虚空蔵菩薩を奉じ桐ヶ谷後背に山居した。 人呼んで耕雲谷戸と称し地自ら谷に水あり山に柴あり聖胎を養ふと云へども当時未開にして野猪群をなしたと云ふ。 由って地を岡部谷戸に改め自ら一宇を開基大林寺八世久庵圓良和尚と請して開山す 時元禄元年頃なり その後此処にて 聖胎長艱せし十五世萬眼和尚金光明最勝王経を書写し厨子に収めて今尚存す 次に緜山蜜紹上座仏音是久沙弥等住した移転後のお堂は山頂近くに五間四面の建物があったが風水害による崖崩れにより現在の位置まで下り、大正十一年春岡部農園団が改築七坪のクラブ兼用で現在に至った 昭和二十五年四月境内地払下げにより大林寺飛地境内地となる 当時境内地四反三畝十二歩山林一反三畝二十六歩也此の御堂により関根範十郎信友先生が安政四年紅林塾を開き塾生を養育した寺子屋なり。 現在長津田小学校の発祥の地也 此の度お堂を再建するにあたって岡部及辻その他の地区の信徒の篤い帰依によりブロックコンクリート建て九坪昭和四十八年末に竣工した。 昭和四十九年一月十三日虚空蔵菩薩の縁日に慶祝落慶するに当り 多数の信徒により山号碑献香及仏具等に奉納金が寄せられた。 維時 昭和四十九年正月 大林寺二十六世 大雲実英記 碑文にでてくる言葉をいくつか拾ってみました。
種月耕雲: 禅語で、雲を耕し、月に種を植えるように、高い理想を掲げ、着実に努力する意があるそうです。 読んで字の如しですが、なかなか重みのある名前の庵です。 お寺の名前のつけ方で、こんなパターンは珍しいように思えます。 種月山耕雲院という同じような名前のお寺が山梨県にあることがわかりました。 虚空蔵菩薩: 十三仏の最後三十三回忌の本尊として、丑と寅とし生まれの人の守り本尊。 十三詣りの本尊。 長津田小学校の発祥の地: 1873(明治6)年に 寺子屋「紅林塾」を「小学壮行学舎」と改めた。 1875(明治8)年に「長津田学校」となる。 狭く小さな庵ですが、
名前にはとてつもない大きさを感じます。 2006年4月22日
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1.お寺巡り
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瀬谷八福神巡りのお寺のひとつです。
海軍道路の散り桜の中を通り抜けて、 のどかな畑の風景を背景にお寺を探しました。 似たような細い道がいくつもあるので 同じところをぐるぐる回り、 やっとのことでたどり着きました。 場所によっては地図の見かたは意外と難しいものです。 瀬谷八福神2番目 大黒尊天 桜の散る参道を通り過ぎ境内に入りました。
最初に目に付いたのは 枝垂桜をカーテンにした鐘楼と大きな日蓮の像でした。 やはり目立つだけあって、 どちらについても案内板に説明がかいてありました。 案内板
この寺は縁起によると、はじめ孝徳天皇の白雉3年(652)に明光比丘尼(ひくに)が立てた庵で明光が亡くなり、その後、大同年間(806〜810)に辨通(べんつう)が天台宗福昌山明光寺と称して寺にしたといわれています。 弘安5年(1282)9月17日に日蓮上人がここに一泊し、その寺の住職文教は、教化をうけて改宗し、寺名も蓮昌山妙光寺と改め、日蓮上人を開山とし、自らは二世となりました。 宝徳4年(1452)、相州瀬谷郷に住んでいた山田伊賀入道経光が大壇那となって、正中2年(1325)鋳造された武州恩田(緑区恩田町)の萬年寺の梵鐘を寄進しました。この梵鐘は、中世の関東地方で活躍した鋳物師の物部氏の一人守光の作で、神奈川県の重要文化財に指定されています。 境内には、明光比丘尼の開基堂、江戸時代、瀬谷村に釆地を賜った鷹匠長田白政の墓碑があります。 (社)横浜国際観光協会 横浜市教育委員会文化財課 平成2年3月 明光比丘尼:
瀬谷区の民話では明光比丘尼がある日居なくなり、 庵の中に墨染めの衣をかけた大きな石があったということで、 明光比丘尼が石になったと悟り、 この石をお詣りするようになったということです。 当時、お茶を薬として飲んでいたので、お茶をお供えするそうです。 この石は、長津田大石神社のご神体、大和市深見要石とともに三奇石といわれるそうです。 日蓮: 言わずもがなの人物ですが、気になったのは彼は1282年10月に亡くなっています。 その年の9月17日にここに泊って、そのとき教化、改宗となっているということは このお寺が、生前の日蓮の影響で改宗した最後のお寺なのかもしれません。 9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺:大田区)へ到着していることから その日のうちにここから大田区まで行ったことになります。 かなりの距離があります。 想像するに このお寺から八王子街道に出て、中原街道にはいったのだと思います。 1日中歩き続けたのでしょう。 長田白政(おさだあきまさ): 源義朝を尾張知多半島・野間で抹殺した長田忠致(おさだただむね)の家系のようです。 この近辺には義朝公を祀ったサバ神社がいくつかあり、 何らかの関係があるのかもしれません。 (サバ神社:佐馬・鯖・・・等の名前の神社で、サバ神社巡りもあるそうです。) パンフレットより
孝徳天皇の白雉3年(652年)明光禅尼の開基。 弘安5年(1282年)9月17日、日蓮大聖人の御一宿を賜り、 時の住持が大聖人の教化を受けて改宗する。これより蓮昌山妙光寺となり今日に至る。 2006年4月8日
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瀬谷区八福神巡りとは?
七福神巡りはよく聞きますが、 瀬谷区では八福神巡りとして開催されています。 七福神にダルマ大師を加え八福神としています。 ここ長天寺は、そのダルマ大師が居られるお寺です。 入り口を間違えて、裏口にたどりつきました。
そのおかげで、裏口のそばにある横穴古墳跡の案内板を見つけたました。 正門から来たら、まず見つけることは不可能です。 幸運ということで、そちらも寄ることにしました。 横穴古墳跡は狭いスペースに小さな祠が建てられています。 その後ろに『八剣大明神』と彫られた石碑があります。 もっと広い場所で、横穴が復元されていることを 期待していたのですが、ちょっと残念です。 お寺に戻り、境内に入り本堂に近づくと、
かわいい顔をしたダルマ大師の石像がありました。 案内板 平成10年3月 瀬谷区役所
瀬谷村役場跡(長天寺) 長天寺は臨済宗建長寺派に属し、室町時代の応永元年(1394年)2月15日宝林宗薫大和尚禅師によって開山、開基は平本六郎兵衛であると伝えられています。 明治22年(1889年)5月27日の市町村制の公布にもとづいて、瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、瀬谷村となり、初めての村役場をこの長天寺の客殿に置きました。この客殿は、大正5年(1906年)に新しい役場が建設されるまで使用され、3村が合併された際の初代村長は守屋平輔でした。 横穴古墳跡 明治39年(1906年)3月、長天寺の北側に隣接したところで当地の平本彌太郎が農作業中に人骨3体・直刀及び鍔3点・金環2点・琥珀の棗玉3個・鉄轡1個を発掘しました。出土品から飛鳥時代・白鳳時代(604年〜708年)頃の相当高貴な人の墳墓と推定され、大切に保管されていましたが、のち、東京国立博物館に収蔵されました。 瀬谷八福神巡りのパンフレットより
臨済宗建長寺派の寺院で、ご本尊は釈迦牟尼佛。室町時代の応永元年(1394)2月15日の開創。奇端『横浜瀬谷八福神』のダルマ大師は釈迦以来28代インドの高僧。中国に渡来し武帝に謁見後少林寺に面壁9年。断臂の二祖慧可に法を伝え、禅宗の初祖と仰がれる。世寿105歳といわれ、七転八起の縁起ダルマで民間に親しまれている。 2006年4月8日
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相鉄いずみの線、ゆめが丘駅の近くにあります。
ゆめが丘の駅は、ホームの屋根がドーム型をしていて、 斬新なイメージがあります。 相鉄いずみの線ができてからすでに何年か経ちましたが、 ゆめが丘の駅のそばはあいかわらず住宅より畑が多く、 駅のホームに人が疎らなところしか見ていません。 しかし、受験の頃になると『ゆめが丘⇔希望が丘』の縁起切符が売り出され、 テレビなどにも登場します。 すてきな駅の名前だと思います。 寶心寺はゆめが丘駅から環状4号線を渡り 狭い路地を抜けたところにありました。 山門のすぐ前に川が流れ、
それに沿って散策コースが整備されており、 さわやかで、気持の良い環境の中にあります。 このお寺で目に付いたのは
江戸時代の和泉村領主松平氏のお墓と岩船地蔵です。 案内板
宝心寺には、江戸時代の和泉村領主松平氏の墓があります。松平氏の先祖の光親が三河国額田郡能見に住んだことから能見松平を名乗り、その6代目が和泉村領主松平昌吉です。松平は徳川家に仕え、後に2000石余の領地を与えられました。旗本になった昌吉は慶安4年、和泉村の菩提寺として宝心寺を創建し、父昌利の墓を改葬して以後松平家の墓としました。 境内には、岩舟地蔵、廻化地蔵(地域文化財)、大山道道標になっている庚申塔があり、また明治初期には和泉学校が置かれました。 泉区役所 横浜市指定有形文化財 岩船地蔵像 平成四年十一月一日指定 所有者 宗教法人 宝心寺 時 代 江戸時代 寸 法 総高 一二三・五cm 像高 七九・五cm 船全長 九七・〇cm 岩船地蔵像は、石彫の船に乗る地蔵菩薩立像で、舷側に「享保四巳亥年 相州和泉村 岩舟山 念佛供養 十月二十四日」の刻銘があり、この石像が栃木県下都賀郡岩舟町の岩舟山高勝寺の地蔵尊を奉請供養したものと知られます。 享保四年(一七一九)、岩舟山地蔵尊の信仰が一時に昂揚して、関東及びその周辺にまで広まり、各地で念仏衆の信仰によって石仏が造立供養されました。当寺の岩船地蔵像はそれらのうち最も早く造立されたもののひとつとして、貴重な石造文化財です。 平成五年 横浜市教育委員会 お寺の創建の歴史を見ると
地元の豪族といわれる方々の菩提寺で建てられたケースが多いので お寺に残る歴史の散策を楽しむにあたって、 いまさらながら昔の豪族の方々に感謝しています。 案内版があると本当に助かります。 それによると岩船地蔵尊の信仰って、享保の頃の流行のようです。 他に見つけることがあったら、そのつもりで観察したいと思います。 旭区の地蔵尊は船に乗っていませんでしたが、 ここの地蔵尊は確かに船に乗っています。 松平昌吉氏は、旗本松平の系図では登場します。 大きな功績は見つけることができませんでしたが、 このお寺を残してきたことに感謝します。 2006年4月15日
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金沢区の称名寺の参道のそばにある大宝院という寺院を訪れました。
称名寺は何回か訪れたのですが、大宝院に寄ったのは初めてです。 というよりは、今までその存在に気がつきませんでした。 しょっちゅう地図を見ていた割には、見逃している卍マークがあるものです。 称名寺の参道を歩いていて地図に目をしたときに 卍マークが目に入りました。 位置は称名寺の参道を山門に向かって、右の狭い道に入ったところにあります。
あまりにも目立たないところにあるので、気がつかなかったのでしょう。 門の前には来ましたが、門が閉まっていて境内に入れません。 塀で囲まれた境内(というより大きな家の木の茂った庭という感じ)の中、 茂った木の奥に屋根だけ見えます。 境内に入れないのが残念です。 門のところに案内板がありました。
金沢大宝院略縁起 当院は奈良西大寺で、金沢山弥勒院称名寺の一坊であった。 鎌倉時代、金沢文庫を経営した北条氏が、四代にわたって称名寺の伽藍を造立した頃、僧坊として建立されたものと思われる。文明十六年(一四八四)に記された称名寺の僧鏡心の「鏡心日記(きょうしんにっき)」に当院の名がみえる。 本尊は聖観世音菩薩。江戸時代の中頃には金沢札所の第三番に数えられ、所願成就の観音霊場として多くの参詣者で賑わった。 明治三十年(一八九七)に、明治憲法の草案作りのため金沢の地を訪れていた伊藤博文によって、境内に金沢文庫と閲覧所が復興されたが関東大震災により倒壊し現在は庫裏(くり)の一部として残存いているのみである。本尊は観音堂正面の厨子内に祀られている。 平成六年四月 大宝院住職 称名寺の伽藍のひとつのようです。
金沢札所とは金沢観音霊場34(正確な名称かは不明ですが)のことのようです。 34ヶ所の寺院を調べると、現在の金沢区、磯子区、港南区にまたがって存在します。 すでに廃寺となったお寺もあり、この霊場巡りは現在では成立しているかわかりませんが、 昔を偲んで巡ってみるのも面白そうなので、興味ある散策コースになりそうです。 金沢七福神を巡っているときに見つけました。
2007年1月4日
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