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オーストラリアのシンフォニック・ロック・グループ、セバスチャン・ハーディーのデビューアルバム。
見開きジャケットでセカンドアルバム「WINDCHASE(邦題:風の歌)」でも触れたが本品もなぜか普通のLPサイズのジャケットに比べてちょっと小さい。(セカンドアルバムについては下記を参照)
http://blogs.yahoo.co.jp/hiro_eurasia/37749094.html
何度か見かけているのだがこのアルバム、国内盤がシングルジャケットであるの対しオリジナルのオーストラリア盤は見開きジャケットだ。さらにはフルコーティング・ジャケットとそうでないものの二種類が出回っている。どちらかと言うとコーティングのないものが多いように思う。一般にはコーティン・グジャケットの方が初期プレスと考えられているのか人気が高いようだ。ちなみに本品は見開きコーティングジャケット。店頭に売れ残り、安値で放置されている国内盤にくらべ、見開きコーティングのオリジナル盤をたまたま見かけると。質感がいいのでつい買ってしまう。決して得意なタイプの音楽ではないのだが、やはりオリジナルの持つ魅力なのだろうか・・・
邦題「哀愁の南十字星」。すごい邦題だ。ここまで来ると惚れ惚れする。
「泣き」「泣き」「泣き」それでも懲りずにまだ「泣き」で押しまくる豪快なまでのシンフォニック・プログレで、A面は4曲だが実質メドレーで1曲の組曲状態。B面も2曲なので両面合わせて3曲と堂々たる大作志向。まさにシンフォニック・プログレの傑作の条件をすでにフォーマットの時点で兼ね備えていると言えるだろう。
音楽ものっけからメロトロンと泣きのギターの大洪水で豪快の一言。ちょっとクリムゾンの「ポセイドンのめざめ」を連想させる。クリムゾンと違うのはジャズに全く転ばないところ。ミッドテンポのの楽曲はひたすら悠然とひたすらシンプルなテーマメロディを繰り返してくる。
いわゆる反復とういのではなく、いわばモーツァルト的にひとつのモチーフが楽器を変えたり変奏曲的に変わったりしながら現れ消えるうちに片面を終えるという内容。いやでもメロディラインを憶えてしまう。これは組曲やトータルアルバムの基本手法なのだが、それでもテンポくらいは変えるものだが、一貫してミッドテンポなのは・・・うーん、やはりマリオ・ミーロが気持ちよくギターを弾くためなのではないかと思える。全く、屈折とか、陰影とか、そんな要素が見あたらない。明らかに偏見なのだろうが、私の知るオーストラリア人の特性そのままだ。
メロディもこれだけ繰り返して使い倒すということは、よほど自分でいいメロディと自信を持っているということなのだろう。そういう意味では外連味のない自分の好きなものに対してまっすぐ正直な音楽だと言える。
シンフォニック・プログレ・ファンにはまさに夢のような音楽なのではないだろうか?
昨晩、NHKの「パフォー」という番組で「プログレ完全復活!ライブin世界遺産」という企画のオンエアを観た。
やつるの剛士,はんにゃとそしてみうらじゅんの軽妙な語りによる進行で、一見ノープランな流れを最後まで爆笑しながら見終わった。
みうらじゅん曰く、「プログレなんだから、とにかく大げさ、そしてとにかく『わからなければそれでいい』んです」というのは言い得て妙だと思う。
よく考えてみると、プログレとはなぞかけして答えを出さずに逃げちゃうような音楽なのかも知れない。
でも、その明確に特定できない感覚は意外と大切で、安易な結論に飛びつかないところ、聴いた人の解釈の数だけその音楽のありようが存在するのがプログレなんじゃないかしらんという気がした。
そういう意味ではこのセバスチャン・ハーディーの音楽は手法のみシンフォニック・プログレだが、あまりにもわかりやすく結果を呈示しているという点ではプログレではないのかもしれない。
観念的な「わかんなさ」とは無縁で、クリムゾンらが作った手法のみを愛しつきつめた音楽。
ちなみに私はセカンドアルバムより本作の方が好きだった。
理由は・・・うーん、こっちの方がメロディが「立っている」からかな。
そうかな。しつこく繰り返されて耳に残ってるだけかな??
少なくともメロトロンの使い方はこっちの方が際だっている。
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