風来坊の音楽の日々....

Yahoo!ブログが終了するようですね。アメブロ移転を作業中です。

読書

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

日本文化私観

久しぶりに安吾を読んでみました。

...
― 伝統とか、国民性とかよばれるものにも、時として、このような欺瞞が隠されている。凡そ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、恰も生来の希願のように背負わなければならないのである。だから、昔日本に行われていたことが、昔行われていたために、日本本来のものだということは成立たない。外国に於て行われ、日本には行われていなかった習慣が、実は日本に最もふさわしいことも有り得るし、日本に於て行われて、外国には行われなかった習慣が、実は外国人にふさわしいことも有り得るのだ。模倣ではなく、発見だ。ゲーテがシェークスピアの作品に暗示を受けて自分の傑作を書き上げたように、個性を尊重する芸術に於てすら、模倣から発見への過程は最も屡行われる。インスピレーションは、多く模倣の精神から出発して、発見によって結実する。

...
― 多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて欧米風な建物が出現するたびに、悲しみよりも、むしろ喜びを感じる。新しい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。なぜなら、我々自体の必要と、必要に応じた欲求を失わないからである。

...
― 見たところのスマートさだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまっていっこうに困らぬ。必要ならば、法隆寺を取り壊して停車場をつくるがいい、我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが、累々たるバラックの屋根に夕日が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代わってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下ろしている限り、これが美しくなくて何であろうか。見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が囂々と駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞じることはないのである。それが真実の生活がある限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。

― 坂口安吾 『日本文化私観』より抜粋
― 岩波文庫 『堕落論・日本文化私観 他二十二編』所収

...
これが発表されたのは1942年(昭和17年)3月、ちょうどシンガポール陥落で日本全体がわき上がっていた頃です。

しかし、ここでの安吾は、もはや日本の敗戦を予言していたかの如く、冷徹なまでの眼差しが光っているようです。「..法隆寺も平等院も焼けてしまっていっこうに困らぬ。」これには、ゾッとするものがあります。戦後に書かれた『堕落論』との関連も興味深いですね。

そして、上っ面だけの滑稽な日本主義が強調された時代に於いて、これを徹底的に揶揄する表現で溢れていますね。唯物論的とでも申しましょうか。「我々の生活が健康である限り、...我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。...それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。」安吾流の反体制論なのかもしれません。見事に言い切ってくれました。

とにかくこれが昭和17年に書かれていることには、もっと注目されてもいいのではないか(...とっくに注目されているかな...。)と思わずにはいられません。恐るべき安吾先生です。

誰が刑場に消えたのか

― 故・尾形英紀死刑囚の手記
 「俺の考えでは死刑執行しても遺族は、ほんの少し気がすむか、すまないかの程度で何も変わりませんし、償いにもなりません。死を覚悟している人からすれば死刑は責任でも償いでも罰ですらなく、ツライ生活から逃してくれるだけです。
 だから俺は一審で弁護人が控訴したのを自分で取り下げたのです。死を受け入れる変わりに 反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族のことを考えるのをやめました。なんて奴だと思うでしょうが、死刑判決で死を持って償えと言うのは、俺にとって反省する必要ないから死ねということです。人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、くり返さないようにするのではないですか。将来のない死刑囚は反省など無意味です。

 「はじめのうちは心から反省していました。裁判の中で自分の気持ちを言う機会があったので、申し訳ない気持ちと反省の気持ちを言い、傍聴席にいる遺族に頭を下げました。しかし、(検事らに)『死刑になりたくないためのパフォーマンス』と言われたので、何を言っても聞く耳はないなと感じました。遺族にしてみれば当然のことだと思いますし、何を言われても仕方のないことをしたのだとも思います。」

 「でも、俺は本当に申し訳ないことをしたと思ったから頭を下げたのであって、死刑になりたくないとか、刑を軽くしてもらおうなんて気持ちは全くありません。それをパフォーマンスと見られるなら、命乞いのようなみっともない事はやめようとおもったのです。反省の気持ちよりも反発のほうがだんだんと大きくなり、どうせ俺も殺されるのだから反省なんかする意味もないと思うようになりました。

― 憎悪を増幅するシステム
 警察や検察に至っては、自分たちに都合のいいストーリーに仕立て上げるため、調書を捏造までした、と尾形は私(記事の筆者:以下同じ)に訴えている。しかし、裁判はこれも一顧だにしなかった。結果、尾形は贖罪や反省など馬鹿馬鹿しいと思うようになり、死を受け入れるのだから反省など必要ないのだと考えるようになり、公然とそれを表明するように至った。
 それが強がりだったのか開き直りだったのかは、今となっては確認する術もない。極悪人の戯言に過ぎぬと罵声を浴びせるのは容易いし、ひょっとするとすべては尾形の虚言だった可能性も拭えない。しかし、尾形が法の許す抵抗の手段すらすべて放棄し、自ら死の刑罰を受け入れたのは疑いようのない事実だ。
   *   *   *
 七月二八日午前、尾形は東京拘置所内の刑場に消えた。
 私は思う。尾形の心には最後の瞬間まで、一片たりとも反省や贖罪の念は蘇らなかったのだろうか。だとすれば、そんな死刑囚を生み出してしまったものとはいったい何だったのか。警察・検察であり、裁判を頂点とする日本の刑事司法システムであり、そして犯罪や人間と向き合うメディアや私たち自身の、皮相で不実極まりない態度ではなかったか。
 尾形という死刑囚の存在は、死刑という刑罰が結局のところ、報復という薄暗い憎悪の感情と人間の不実を増幅するシステムに過ぎないことを示しているようにも思う。そんな死刑囚=尾形の処刑の瞬間に、千葉景子は法相として初めて立ち会った。「人権派」であり、「死刑廃止論者」だったはずの千葉は、「死を受け入れる代わりに反省の心など捨てた」と言い放つに至った死刑囚の最後を、絞首刑にされる瞬間を、どのような思いで見つめたのだろうか。

―岩波書店「世界・2010年11月号」より

....
中途半端な時間に寝てしまい、眠れぬ夜に読んだ雑誌の
猛烈な虚しさを感じさせる記事でした....。

≪最近こんな話題がありました≫

▼ノーベル化学賞に輝いた鈴木章北海道大名誉教授(80)は8日、産経新聞の取材に応じ、「日本の科学技術力は非常にレベルが高く、今後も維持していかねばならない」と強調した。昨年11月に政府の事業仕分けで注目された蓮舫行政刷新担当相の「2位じゃだめなんでしょうか」との発言については、「科学や技術を全く知らない人の言葉だ」とばっさり切り捨てた。

...
▽蓮舫さんの発言
― 次世代スーパーコンピューター開発費について「世界一になる理由があるのか。二位ではだめなのか」との発言が反響を呼びました。

蓮舫さん:
 そのことについては本(「一番じゃなきゃダメですか?」)を出していますので簡単に申しますと、麻生内閣の時に、次世代スパコン開発において外部有識者が評価をした中間評価があります。そこで世界一になれないと評価されています。しかし当時の文科省と政府は情報を非公開対象にしています。その上で、世界一を目指す予算編成の概算要求をしているのです。
 それで、文科省の役人には今回の仕分けの前に二回ヒアリングをして、他の仕分け人からも「本当に世界一になれるのか」「何で一位にならなきゃいけないのか」という議論を何度も行ったのです。そこで明確な返答がなかったので、「本番でも聴きますよ」と。その本番での答が「夢のためです」だった。
 今、この国にはお金がない。予算は付けるものではなくて、組むものですから、抽象的な説明では編成する対象にならないのです。
 スパコンと言いながら、場所を買ってハコをつくって中に物を入れ、ソフトを開発して、人を雇って、違う研究をして、どんどん予算が増えていく過程が聖域になっていました。科学も聖域ではない。まさに選択と集中で、世界一を目指す分野に特化をするべきです。そういう議論をしていたのですが、そこはまったく報じられない。
 これを受け、科学者の方々会見がありましたが、やはり私の発言の前後を見ておらず、仕分けの正確な結果も理解はされていませんでした。
 私たちは、スパコンは「限りなく廃止に近い縮減」というまとめをしましたが、それは一度見直しをするという意味です。なのに、会見では「何で廃止にするんだ」「歴史という法廷に立つ覚悟があるのか」とおっしゃった方がいますが、科学者でさえファクトを見ないで会見をしているのです。
― 岩波書店:「世界・2010年11月号」より

...
いや、私もこういった事情を知りませんでした。
偏った情報に囚われているのは、とても恐ろしいことですね。

美は稀有なもの

―「この頃でも、ジャズ固有の音のプレザンスなんて云って歩いているのかね?」。この十年前の記憶の真只中へ一気に突入することで、私は彼女の心の表面に揺れているどの後という不安を解消してやろうとした。彼女は自分の立っている足下が崩れはじめるのを自覚すると、必ず意地が悪くなって私を閉口させたものだったから。すると彼女は、果たして私の言葉に飛びついてきた。

―「あれは、実はUさんの評論のなかから盗んできた言葉だったのよ。Uさん、今やすっかりジャズ評論の大家になって、若者のアイドルじゃない? でもあの頃はまだ誰でもUさんの文章を読んでいるわけじゃなったから、私が盗んでも誰も気が付かなかったのね。それより」と、ここでSの方へ彼女は眼顔を転じると、

―「この人、私がオーネット・コールマンの――そうよね、コールマンもあの頃は、まだそれほど注目されていなかったわ。そうして、私はビ・バップにそろそろ飽きてきて、もっと知的なものを求めはじめていた矢先だったのよね。――そのコールマンの新しい曲のレコードがようやく手にはいって、――黒い部屋のお客さんだった企業の若い人がニューヨークへ出張するので私が頼んで買ってきてもらったんだわ。――そうしたら、その曲の名の・・・・・・」。

―「そうだ、美は稀有なものと云うんだったろう」と、私は懐かしさが胸の中で揺れているのを意識しながら、口を入れた。

―「Sさん、そうしたらこの人(私のこと)がそのタイトルと私のここの印象(と云いながら、彼女は細いしなやかな指で、広い額に触れた)とが溶け合って忘れられないって云って・・・・・・」。

―「随分、古風な口説き文句だね。モダン・ジャズの世界じゃないな」とSが冷やかした。

− 中村真一郎 『夏』 より ...

...
美は稀有なもの ... 「Beauty Is A Rare Thing」

Ornette Coleman - 『This Is Our Music』 に収録されています。
また、ジャズが聴きたくなって来ました。

現代的荒廃

― 私など戦争中や敗戦直後の、禁欲的な時代を生きてきた者にとっては、現代(1974年当時、以下同じ)
 という解放的な時代は、どうも馴染めない。その馴染めないという感じは、最近ますます強まってくる。
 解放的ということが、私には荒廃につながっていると思えるからである。この場合、荒廃とは、
 精神の荒廃のことである。

― なぜ、こんなに解放的になってしまったのだろう。あれよあれよと見ている間に、人々は変な方向へ
 むけて解放されてしまった。つまり欲しいものは何でも手に入る、ということである。そこで人々の
 生活は、欲望に直結した物質で、いまや一杯になっている。

― 欲しいものが何でも手に入ることは、いいことである、と誰もが考えているらしい。そのことを
 誰も疑ってみないのだろうか、と私はいつも思うのである。

(...中略...)

― 現代、人々が手にいれているものは、本当にその人が欲したものだろうか。その人の内部から
 出てきた欲望だろうか。コマーシャリズムがこれほどまでに欲望開発に努めた結果、人々のなかに
 つくり出された、借りものの欲望にすぎないのではないか。だから、誰もが同じ欲望を持つ。
 そして、誰もが同じ物質を手にいれる。その物質の多さを、誰もが競いあう。

― そこの家にしか置いていない物とか、そこの庭にしかない植木とか、そこの座敷でしか味わえない
 料理とか、その人しか着ていない服とか、その人しか聞かせてくれない話とか、その人しか考えない
 こととか、そういうもののなくなった現代とは、なんと貧困な時代だろうか。

― 自分の本当に欲しいものだけを、欲しがりたいものである。たとえそれが手に入らないものでも、
 それに対する欲望を大事にしたいものである。その本当の欲望だけが、自分の精神の証なのだ。
 もしかしたら一生手にはいらないかもしれないものを、一生欲し続けていたいものだ。
 私はそういう生き方の好きな人間である。

高橋たか子 - 「現代的荒廃」 ( 『魂の犬』 所収 1974年 )

...
高橋さんは、1974年の時点でコマーシャリズムが欲望開発に努めた結果、
人々に植え付けられた欲望を 「荒廃」 と書かれております。

私にも耳が痛い、鋭い見解です。

...
そうは言っても、現代経済といいますか資本主義の宿命ともいえましょうか、
欲望開発は必須の 「作業」 なのでありましょう。
必要もない (と思われる) のに繰り返される自動車・携帯電話・パソコン・AV機器などの
モデルチェンジによって、無理矢理消費・購買意欲をかき立てる現代社会・資本主義経済。

私は、このままでは近い将来 「破局点」 を迎えるのではないかと予想しています。
私の 「心配しすぎ」 であることを望みますが...。

欲望の体系に依存しない 「定常型社会」 とでも言えるものは、
はたして可能でしょうか...。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


.
風来坊
風来坊
男性 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事