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悪名高きアウシュビッツ収容所から奇跡的に生還できた、ユダヤ人精神分析学者フランクルの体験記であると同時に、あまりにあまりにも苛烈で残酷な体験を経て得た人生哲学の書とも呼ぶことのできる本です。
私たちは、内村剛介著『スターリン獄の日本人』、会田雄次著『アーロン収容所』、大岡昇平著『俘虜記』を日本人として読むことが出来ます。一世代か二世代前の体験を経たのを読むことは、現実の南京事件の死者の規模、慰安婦の補償を論ずる前に、まず必要と思っています。
更に人種は違っていても、この本―アラン・レネの静的なトーンのドキュメンタリー映画『夜と霧』と同名のタイトルでいいのかと思う点を別にすれば―も当然加えられていいでしょう。
フランクルは言います。ひとは、いかなる時であれ決断する存在だと。私のようにぬるま湯につかっている身で、シェスタをする、食事をとる、眠る場合でさえも、これを応用することができると考えられます。そうだとすれば、怠惰であれ勤勉であれ、過酷な戦時であれ、また平和な時であっても、生きていくための指針ととることもでき、意味があるともいえます。
大きく生死を分けたところとは何だったのでしょうか?とにもかくにも何らかの希望をもつこと―親、伴侶、子供、孫、故郷、仕事、学業、そして神―何でもいいから、生き残ったときに得たいもの、ことを思い描き、また待っているに違いない何ものかに希望を託し、決して自暴自棄にならぬことだったと言っています。
名にたがわぬ名著であるのは間違いありません、よくわかりました。
けれども、旧訳新訳のそれぞれの翻訳者が、太平洋戦争における日本の特攻作戦を中止できなかった総責任や、アメリカのイラク戦争に突入する為の根拠なき大義名分である宣伝戦への多大な責任といったところに言及しているのは、意見自体に反対しないけれども、いささかお門違いじゃないでしょうか。そんな責任論をフランクルが言ってないのは、賢明な翻訳者たちに分からなかったのでしょうかねえ。
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