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当院では主治医制をとっている。
患者さんの急変対応などはまず主治医が行うことが原則だ。主治医が休みのときや動けないときなどは他の医師が代行するのだが、電話対応は原則主治医がすべて行っている。どんなに細かいことであってもである。
つまり患者さんに何かあったとき、それが夜でも休日でも主治医に電話が入る。そして主治医が動けないときには、主治医の依頼で当番医が出動して、往診を代行するというやり方だ。
この方法は主治医にとっては一時も完全な休みが無いという意味で非常に負担が大きいが、患者さんの医療の一貫性を保つためには、みんなから必要と認識されている。
「奥さんは変わりないのですが、ご主人がまったく意識がありません。」
91歳と、84歳の認知症の同士の老夫婦世帯を訪れたケアマネ兼ヘルパーから、電話が入ったのは土曜日の朝8時前だった。
「すぐに主治医に連絡します。少々お待ちください。」当直していた看護師が電話を切って、すぐさま主治医にその旨を伝える。
横で見ていた私も、これは出動になるなと予想しつつ、「車を用意しておいてください。」と朝の準備であわただしいアシスタントに準備を促す。
まもなく主治医から電話が入る。
「昨日まで元気だったようですが、意識がないということです。往診してあげてください。」と申し訳なさそうに話す主治医の声もやや上ずっている。
はじめていく往診先は幹線道路から少しだけ入った路地の突き当たりの一戸建てだった。
室内に入ると、まず便臭が鼻をつく。
老婆がぼっと床に座っている横のベットに患者さんは体を丸めて横たわっていた。
失禁して、しばらく経過していたらしい。
「ようやく便の処置が終わってベットを片付けたところです。」と、ヘルパー兼ケアマネの青年が息をはずませながら事情を説明する。
完全に意識がないわけではなかった。手足も動くし、呼びかけにも目を開けようとする。しかし呼吸はもうすでに弱くなっている。痰がらみも強い。瞳孔反射もあることを確認して、私は主治医に電話をかける。
「意識は昏睡気味ですが、麻痺は無く、瞳孔も異常ないです。血圧は120/64、酸素飽和度64%、下顎呼吸気味です。どうしましょうか?」
「どうしよう。」主治医も想定していないあまりに急激な変化に戸惑っている。
私やケアマネは救急車を呼ぶことも想定に入れながら、「ご家族はいらっしゃいますか?その方たちの意向はどうでしょうかね?」じっとうつむいている奥さんを横目で見ながら、電話越しに私は主治医に質問した。
「急いで確認してみます。」主治医が家族に電話することになり、一度電話を切った。
電話を待つ間、呼吸がしやすい姿勢に、体位を直したりしつつ、まだ気が動転しているケアマネに声をかける。
「今先生が、ご家族とどうするか相談しています。ご家族はどこにいるのですかね?」
「遠くはなれたところにお孫さんがいるだけです。」
「でも疎遠なんです。」ヘルパーが寂しそうに答える。
「あなたはずいぶん前からこの方のケアマネなのですか?」
「3年前からです。」
「普段はどんな方ですか?」
「昨日の晩私が訪ねたときには、普通に食事をしていました。」
「今朝訪問してみたら、ベットから落ちた跡が残っていましたが、それでも自分で這い上がっていたようです。」
「あまり身寄りが無いということですか?ご夫婦お二人でがんばってきたのですね。そしてあなたがそれを支えてきたんだね。」
静かにヘルパー兼ケアマネの青年が静かにうなずく。
「お孫さんと連絡が取れました。無理な医療的対応をするのではなく、自宅でなるべく自然に苦痛が無いように静かに診てあげることと成りました。」主治医からの電話が入る。「点滴をしてあげてください。1日量500cc。在宅酸素は私のほうで手配します。」明確な指示である。
ヘルパーはちょっと驚いたようだ。
「私からケアマネに説明します。電話を替わってください。」主治医が促す。
救急車を想定していたケアマネがやや不振そうに電話に出る。
「ハイ」・・・「ハイ」・・・主治医の話を静かに聴いている。時折「そんな・・・」と絶句している。
最後に、「全部よくわかりました。私がなるべく付き添います。」といって電話を切った。
電話を切ったケアマネが振り返りながら、私に話す。
「家族の方はまったくいらっしゃる気がないようです。寂しいですね。」涙がほほを伝っている。
「さて奥さん一人じゃ大変だね。」
「もちろん本人は今は大きな苦痛は無いし、むしろ静かに寝ている感じに近いでしょう。でも奥さんをこの状況で一人にしておくのは・・・」私が言いかけるとケアマネが、
「私が付き添います。」と強く言い切った。
主治医の指示通り、点滴と採血をして、すごしやすいように患者さんの姿勢を青年と一緒に直す。
「今日中おそらく数時間のことだと思う。呼吸がまばらになって静かに息を引き取られると思います。何か困ったことがあればいつでも連絡をしてください。」私は最後にそれだけ伝えた。
「主治医の先生には本当に感謝しています。先生に励ましていただきました。」といってケアマネが私にお辞儀をした。
帰り際振り返ると、青年がベットの近くに誘った老婆の肩を抱きながら、今起こっていることを説明していた。
「君が家族なんだよ。」私は最後に言おうとした言葉を飲み込んだ。
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