今回は久しぶりに、以前
ズナイダーとフォスターの名演を取り上げましたが、
ブルッフの
ヴァイオリン協奏曲第1番の2つ目の演奏を取り上げます。ソリストは韓国の、もうベテランの域に差し掛かったと申し上げても良い
サラ・チャン、
クルト・マズア先生指揮する
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団による、昨年リリースされたばかりの新しい録音であります。
フィギュアスケートのキム・ヨナ、サッカーの代表チーム、日本プロ野球界における韓国人選手台頭、ゴルフ選手の活躍等の例を持ち出すまでもなく、今や韓国のアスリートは日本を抜いてアジアトップの、種目によっては間違いなく世界と互角に戦えるレベルのところまで来ていることは皆さんもご存知の通りですが、音楽の世界でもそれは例外ではありません。ヴァイオリンのチョン・キョンファと指揮(ピアノ)のチョン・ミョンフン兄弟、ピアノのイム・ドンヒョク、チェロのハンナ・チャン、そして今回ご紹介致しますサラ・チャン。いずれもアジアを代表する名手というだけでなく、今や世界的にも引っ張り凧の『至宝』と呼べる存在です。中でもチョン・キョンファは昔から宇野先生がことあるごとに、サン・サーンスの3番やチャイコフスキー、ベートーヴェン、ヴィヴァルディの『四季』等のコンチェルトにおいてベストの演奏であると賞賛してきたり、諏訪内晶子さんと並ぶ女流のトップヴァイオリニストと高く評価してきたお陰もあって、私ももちろんそうですが、皆さんの中にも早くから彼女に親しまれてきた方も多いのではないかと思います。
今回初登場のサラ・チャンは韓国名をチャン・ヨンジュといい、1980年フィラデルフィア生まれということですから、今年30歳を迎える今一番脂の乗った女流ヴァイオリニストと言えるでしょう。チョン・キョンファの後を追うのはもちろんのこと、ムターやムローヴァといった名手の後継と言っても過言ではない存在です。ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番は彼女が5歳のときから弾き込み、7歳でジュリアード音楽院の入学資格を得るときに弾いた十八番のレパートリーだそうですが、彼女にとって待望の初録音となります。
私はサラ・チャンをデビュー当時から追っ掛けてきたわけではありませんが、割と頻繁にソリストに起用していたサヴァリッシュ先生ともリヒャルト・シュトラウスやパガニーニ、サン・サーンス等の作品を録音しており、浅からぬ縁を感じています。今回の素晴らしいアルバム(カップリングのブラームスが対照的な演奏でまた素晴らしい!)を聞くに及び、月並みですが、大人の女性への見事な脱皮を改めて感じさせられるとともに、彼女が現代を代表するヴァイオリニストの仲間入りを果たしたことを確信した次第です。わずか8歳でメータ指揮のイスラエル・フィルやムーティ指揮のフィラデルフィア管と共演、9歳で初のレコーディングを行い、メニューインをして『私が知る限り、最も完成された理想的なヴァイオリニスト』と言わしめた逸材。一方のマズア先生ですが、アッカルドとヴェンゲーロフとの録音でバックを務めており、私の知る限りではそれに次ぐ3度目の録音だと思いますが、ゲヴァントハウス管とは交響曲全集等の名盤も残しており、安心して聞ける見事なバックを務めているのが大きなアドバンテージでしょう。そして今回の共演は、マズア先生の長年のパートナーであるゲヴァントハウス管やニューヨーク・フィルではなく、現在名誉指揮者の地位にあるドレスデン・フィルであるという点も、大変大きな注目を集めるのではないかと思います。
第1楽章
それでは細部を見てみることにしましょう。『
前奏曲』と題されたこの『
アレグロ・モデラート』の第1楽章、冒頭序奏部分の木管のフレーズを中庸のテンポで導入しようとするマズア先生の棒を『ちょっと待って下さい!』と制するかの如く、
引きずり粘る、かなり濃厚な表情づけが特徴的なチャンのヴァイオリン。一見喧嘩しているかのように見えるんですが、この
丁々発止のコントラストが曲の陰影を掬い出し、見事な立体感を作り出しています。1分17秒から主部に入り、第一主題を提示するチャンのフレージングは益々濃厚となるんですが、特に駆け下りてくる際に奏でられる重音の気迫と粘着力、ヴィヴラートのかけ方、高音部分での妖艶なアクセント、力強く共鳴するしなやかな低音等には強く耳を奪われるでしょう。最近はあまり評判の良くないEMIの録音ですが、この盤に限って言えば臨場感と奥行き、
クリアな分離感に溢れる優れた録音であり、オーケストラのトゥッティにおけるシンフォニックな響きの厚みが、非常に充実した音塊として聞こえてくるのが実に嬉しい限り。2分27秒からスッと滑り込んでくる第二主題はマズア先生もテンポを抑え、相変わらず濃厚に歌いまくるチャンのソロを見事に引き立てています。ソロと同じ音型をなぞるホルンの暖かい音色が印象的ですね。4分過ぎから、ソロが第一主題の変形音型を重音によって導入し、上から一気に駆け下りてきて、また一気に駆け上がってフルートと絡みながら速度を速め、オーケストラのトゥッティに雪崩れ込む箇所がありますが、このアッチェレランドによる追い込みがとりわけ見事で、
細かい音符を微塵の破綻もなく弾き切るテクニックは唖然とする程に上手く、彼女がドロシー・ディレイ門下の優れたテクニックの持ち主であることを思い知らされる、極めて印象的な部分であります。そして、マズア先生の棒もこのトゥッティの辺りで沸点に達し、情熱的で熱い語り口が見事!特に弦楽合奏のパートは出色の出来栄えです。ただし、やはりフォスターの棒に比べてしまうとティンパニや金管をもっと突出させて『吠えて』欲しかった、というのが正直なところでしょうか。そして6分過ぎの冒頭の再現ですが、ドレスデン・フィル独特の少しくすんだ色合いを見せる魅惑的な木管の音色と、冒頭以上に柔らかく神経を行き渡らせたボウイングによるチャンの『独白』とのアンサンブルが、非常に美しいコントラストを見せてくれます。
第2楽章
第2楽章の『
アダージョ』に至る例の『ブリッジ』の部分ですが、上述の美しい弦楽セクションが徐々に音量とテンポを緩めていく辺り等は充分に
幻想的な雰囲気に彩られており、チャンの静謐な美しいソロの魅力を最大限に引き立てていると言えるでしょう。そのチャンですが、第1楽章とは少し趣を変えてより
女性的な雰囲気を強く前面に押し出し、幾分抑え気味の音量でありながら柔らかいフィンガリングとしなやかなボウイング、充分に歌い込まれたヴィヴラートにより、彼女ならではの魅力に溢れた音楽を紡いでいきます。特にこの曲の中でも最も有名であろうと思われるこのアダージョのテーマ、掛け値なしに素晴らしいですね。やや速めに設定されたテンポのように思いますが、とにかく美しい音色、時折見せる掠れた音や程よく散りばめられたポルタメント等にも、彼女の曲に対する共感と没入感や、センスの良さが示されているように感じました。そして驚いたのが録音の優秀さで、上述のように近年のEMI録音の中でも傑出した名録音でありますが、実はこの演奏は
ルカ教会での収録でして、その神々しさを感じさせながら(ホルンが絡んでくる辺りは特に)、
暖かく、優しく、柔らかい空気感が見事に再現されています。まさかこの楽章で最大限の真価を発揮するとは思いませんでしたが、バックのオーケストラが弦楽器のピッツィカートに至るまでとても幻想的な雰囲気でチャンのソロを暖かく包み込む感じが実に感動的です。この雰囲気はズナイダー盤、エーネス盤には感じられなかったこの演奏最大の長所と言っても良いですね。そして、4分35秒辺りから曲想が明るくなり低弦を従えて盛り上がり、トゥッティに至る辺りのチャン同様に魅力的な弦楽セクションの音色、これも特筆賞賛されるべきでしょう。終盤で見られる伸びやかなチャンの高音と、ラストの極めて繊細なピッツィカートとのコントラストが、感動的な音楽を締め括ります。
第3楽章
フィナーレは『
アレグロ・エネルジコ』と指定された、舞曲にも似た躍動感溢れる活発な音楽。一部にはブラームスの『パクり』とも言われるようですが、実は作曲年代から言って逆だったりします(笑)マズア先生のテンポは冒頭から妥当で、付点のリズムを生かし切った推進力とエネルギーが見事。第一ヴァイオリンによるテーマ、第二ヴァイオリンとヴィオラによる刻み、チェロによるリズム音型と、ここでも素晴らしい録音がシンフォニックな響きをより一層引き立てていて、大変充実した伴奏を聞かせています。チャンのソロは相変わらずテクニックが素晴らしく、重音等も実に柔らかい音色で聞かせてくれます。そして、フレーズの中間でスッと音量を弱めて後半にクレッシェンドしていく手法がなかなか新鮮な解釈。第二主題は一転してポルタメントを比較的多用しながら、深々とした低音で歌い込んでいき、これもまた彼女の新境地と言えるのではないでしょうか。細かいパッセージでのテクニックは相変わらず、息もつかせず唖然とする程の上手さ!マズア先生の棒は3分30秒過ぎでのトゥッティの盛り上がり等で、やはりもう少し『泥臭く』金管やティンパニを出しても良いような嫌いはありますが(先生の品格が邪魔している?)、概ね好ましいサポートだと思います。ラストの追い込みも素晴らしく、高揚感に不足することはありません。
総括
サラ・チャンの著しい進化が実感出来る素晴らしい演奏ではあるのですが、
マズア先生の棒に若干の不満を感じざるを得なかった点と、ズナイダーやエーネスのような『大男』達が見せる『余裕』や『懐の深さ』を、やはり感じ取ることが出来なかった、という点において少しだけ減点、相変わらずの『王座』はズナイダー盤、エーネス盤としておきます。が、今エーネス盤が極めて入手困難な状況のようですので、是非、この高レベルの演奏も仲間に加えて頂けると幸いです。凡百の演奏に比べたら、何百倍もの深い感動が得られること請け合い。特に第2楽章の幻想的な美しさや温度感は傑出しており、出来れば手元に置いておきたいですね。確かチャンは2008年のNHK音楽祭で、ノセダ&N響とこの曲で共演したんでしたっけ?ライヴでこの演奏聞いたら、多分無条件に物凄く感動するんだろうなぁ…まぁ、彼女にはこれからも録音の機会が沢山残されていますから、また次の機会に期待しましょう!というわけで、★4つを進呈しましょう。
※詳しい評価や録音データ、ジャケット写真はまた後日、アップロードします
詳細タイミング
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調作品26
第一楽章:7分56秒
第二楽章:7分44秒
第三楽章:7分4秒
合計:約23分
オススメ度
解釈:★★★★☆
ソリストの技量:★★★★★
オーケストラの技量:★★★★☆
アンサンブル:★★★★☆
ライヴ度:★★★☆☆
総合:★★★★☆
録音データ
サラ・チャン(ヴァイオリン)
クルト・マズア指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
2009年6月15〜16日ドレスデン、ルカ教会