佐久間艇長と第六潜水艇
明治43(1910)年4月15日、佐久間艇長率いる第六潜水艇は、14名の乗組員を乗せ、潜航実験の訓練などを行うために岩国を出航し広島湾へ向かいました。ところが、実験中に浸水・沈没事故が発生し、これによって乗組員全員の尊い命が失われてしまいます。沈没した潜水艇が後に引き上げられたときには、佐久間艇長をはじめとする乗組員全員は、最期まで自分の持ち場を守っったままの姿で亡くなっていました。 佐久間艇長のポケットから発見された遺書には、沈没後の艇内の様子が淡々と綴られていました。電燈は消え、酸素は刻々と消費されていき、ガソリンによるガスは艇内に充満します。その中で、乗組員たちは一人また一人と息絶えていったのでした。遺書の中で佐久間艇長は、日本国の大切な艇を沈めてしまい、乗組員を死なせる罪を詫び、乗組員全員が最期まで任務を全うした事を述べ、残された遺族に対しては国から十分な配慮をして欲しいこと、今後の潜水艦の発展のためにこの度の浸水・沈没の原因を十分に調べて欲しいことが書き留められています。乗組員全員が最期まで配置を守ったことと、佐久間艇長の遺書は、日本だけでなく世界の多くの人々に感動を与えました。これが「潜水艦乗組員かくあるべし」と、修身の教科書や軍歌として広く取り上げられただけでなく、海外ではイギリス海軍もこの遺書を英訳し、潜水艦乗組員の精神教本としました。アメリカ合衆国議会議事堂には遺書の写しが陳列された。 この場所で毎年開催される慰霊祭には、今でもイギリス海軍が出席しています。 商店街からこの案内を目印に路地を入ると・・・高台に登る階段にたどり着く豊漁祈願の鯛乃宮神社第六潜水艇殉難之碑はその隣に高くそびえる佐久間艦長の遺書の写し殉職した14名の乗組員の名前が刻まれている碑の格納庫の中には・・・第六潜水艇のスクリューが安置されている
第六潜水艇殉難之碑はここ詳細な地図で見る |
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どこに逃げようか・・・
こんなときだからこそ。。。
考えちゃいそう。。。
2011/3/21(月) 午後 0:41
母が言っていました。
今回の震災の風景から戦争時代を思い出すと…
でも昔と今の違うところは、国民がどんな状況でも
日本は勝つとひとつになっていた事だと。
我さえ良ければ…そんな人が増えているように感じます。
この潜水艦の乗組員も艦長と共に、ひとつになっていたのでしょうね。
2011/3/21(月) 午後 9:20
極限状態でも動けるように日々訓練をされていたんでしょうね。
日本を支えて下さった方々、そして今現在も日本を支えて下さっている方々に、深く感謝したいと思います。
2011/3/22(火) 午前 9:17
いちごさん、
自身の命が失われようとしている極限状態の中、どのようにしたらこのような冷静沈着な行動が取れるのか、自分だったらどうするか、考えてしまいます。
2011/5/1(日) 午後 0:16
pipipiさん、
乗組員も艦長と共にひとつ・・・そうですね。
今、日本はひとつにならなくてはいけないときだと思います。
永田町の一部の議員さんたちにも伝えたいです。
2011/5/1(日) 午後 0:25
みゅうさん、
このような行動は、なかなかできることではありませんね。
今回の震災では、日本だけでなく海外からも多くの支援がありました。
このような心温まる光景を見ると、国と国とが争うことのはかなさを感じてしまいます。
2011/5/1(日) 午後 0:39