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音戸の瀬戸
音戸の瀬戸(おんどのせと)とは広島県呉市にある本州(警固屋)と倉橋島(音戸町)の間に存在する海峡のことである。幅はわずか90m程度、可航幅が60mしか無く、一日の船舶の通行量は約700隻で、最大で4ノットと潮流が早く、狭い所を広島市と松山市を結ぶ定期船など1000トン級の船が行き交う船舶の往来が激しい海域である。日本一短いとされる海上定期航路(音戸渡船)も就航している。また、南端最狭部にはアーチ橋とツツジで有名な音戸大橋がかかっている。2010年現在、北端で2本目の橋(仮称第2音戸大橋)の建設工事が行われている。(Wikipediaより) 音戸の切に架かる音戸大橋 橋の向こう側が倉橋島(音戸町)音戸大橋の北側では第2音戸大橋(仮称)が建設中
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呉・東広島・竹原・三原周辺
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戦艦「大和」の船橋部分にあたる部分にある見晴らし台見晴らし台からは公園が一望できる大和波止場は「大和」の前甲板の左半分の大きさ
大和の主砲部分船首部分から後方を望む大和の船首部分大和の主錨大和の時鐘
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映画「海猿」より両城の200階段はこの急傾斜面にある両城の200階段
明治22(1890)年、呉鎮守府の開庁とともに急増した呉の人工は、昭和18(1943)年には、人口40万人を越えたといわれています。当時、呉市の平地部は、軍の土地使用になっているため、新しく来られた海軍関係者や職工さんをはじめとする市民の居住場所は、急傾斜地区が中心となりました。 両城地区には、海軍士官の人達が多く居住し、彼らの家は、和室と洋室が混在する当時では非常に珍しい「和洋折衷の家」でモダンとされていました。(説明板より抜粋)
階段のふもとにある説明板両城の200階段の入口入口では猫がお出迎え急階段を慎重に登っていく階段の頂上から見下ろす呉の街頂上の平地には中学校があった下り道は上りよりも慎重に慎重に・・・
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佐久間艇長と第六潜水艇
明治43(1910)年4月15日、佐久間艇長率いる第六潜水艇は、14名の乗組員を乗せ、潜航実験の訓練などを行うために岩国を出航し広島湾へ向かいました。ところが、実験中に浸水・沈没事故が発生し、これによって乗組員全員の尊い命が失われてしまいます。沈没した潜水艇が後に引き上げられたときには、佐久間艇長をはじめとする乗組員全員は、最期まで自分の持ち場を守っったままの姿で亡くなっていました。 佐久間艇長のポケットから発見された遺書には、沈没後の艇内の様子が淡々と綴られていました。電燈は消え、酸素は刻々と消費されていき、ガソリンによるガスは艇内に充満します。その中で、乗組員たちは一人また一人と息絶えていったのでした。遺書の中で佐久間艇長は、日本国の大切な艇を沈めてしまい、乗組員を死なせる罪を詫び、乗組員全員が最期まで任務を全うした事を述べ、残された遺族に対しては国から十分な配慮をして欲しいこと、今後の潜水艦の発展のためにこの度の浸水・沈没の原因を十分に調べて欲しいことが書き留められています。乗組員全員が最期まで配置を守ったことと、佐久間艇長の遺書は、日本だけでなく世界の多くの人々に感動を与えました。これが「潜水艦乗組員かくあるべし」と、修身の教科書や軍歌として広く取り上げられただけでなく、海外ではイギリス海軍もこの遺書を英訳し、潜水艦乗組員の精神教本としました。アメリカ合衆国議会議事堂には遺書の写しが陳列された。 この場所で毎年開催される慰霊祭には、今でもイギリス海軍が出席しています。 商店街からこの案内を目印に路地を入ると・・・高台に登る階段にたどり着く豊漁祈願の鯛乃宮神社第六潜水艇殉難之碑はその隣に高くそびえる佐久間艦長の遺書の写し殉職した14名の乗組員の名前が刻まれている碑の格納庫の中には・・・第六潜水艇のスクリューが安置されている
第六潜水艇殉難之碑はここ詳細な地図で見る |



