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意図しなくても、望んでいなくても、心奪われることが起こる、こんなときほど人間が知ることができることはまだまだ大したことないのかもしれないという思いを持ちます。また、科学的な根拠や理屈というのは、わたくしたちが目にしているうちのほんの微々たるものであることを実感する機会にもなります。
たとえば、宇宙では物体は引き合っていて、地球上では、物体は中心に向かって9.8メートル毎秒毎秒の加速度で落ちていく、この法則は計算することによって明らかにされています。しかし、なぜ、引き合うのか、なぜ地球の中心に向かって物体が落ちる(厳密にはひきつけられている)のかはいまだに解明されていないといいます。さっき駅前で知人に会って挨拶を交わした、忘れ物を思い出し、家に取りに戻ってホームで電車を待っているとまた、さっき挨拶を交わした人と出くわすことも確率という法則で数字をたたき出すことはできるのでしょうが、どうしてまた出会ったのかは不思議に感じるものではないでしょうか。こういう偶然を数字で表現することほど味気ないものもないと、わたくしは思っています。喜怒哀楽の裏側にはこういった法則や数字では表現したくないものがあるからこそ、人を好きになったり、嫌いになったり、また忘れられなくなる、そんなふうに思っています。
さて、前置きが長くなりましたが、タイトルの「サラ・ヴォーン(Sarah Vaughan)」ですが、もちろん、ご存知の方も多い、アメリカを代表する黒人ジャズシンガーの大御所中の大御所といえる方でございます。音楽好きのわたくしも、もちろん名前だけは存じておりましたが、思い立って聴いてはいなかったシンガーのお一人でございました。たまにラジオから流れる曲に「これはサラ・ヴォーンかな?」と思う程度の知識と経験しか持っていませんでした。はっきり申しまして、興味はなかったわけではないのですが、いますぐ聴きたいという方ではございませんでした。しかし、このサラ・ヴォーン、去年の年末からいまもなおわたくしの心を奪ったままで、なかなか返してくれないのでございます。それもまだ1枚のアルバムと数曲のスタンダード曲しか手元にはございません。しかし、膨大な数であろうこのサラ・ヴォーンの曲を全部を聴いてみたいという思いをいまも持ち続けているのでございます。
どうして、このような思いになったのかはわたくし自身もわかりかねていますが、心揺さぶられ続けていることは間違いはございません。それも直接的ではなく、間接的にその魅力に触れたものですから、余計にそちらのほうに興味が深くなっていることも不思議でなりません。
そもそも、そのつもりもなかった中古CD屋さんに入ったことから始まったのでございます。ジャズシンガーの棚をつらつらを見ておりましたら、前日、ラジオで流れていたダイアン・リーヴス(Dianne Reeves)のCDが目に入りました。そのラジオで聴いた曲のタイトルもよく憶えていませんでしたが、歌がお上手できれいな声をしているなぁと思っていて、それがダイアン・リーヴスだったのでございます。中古で700円ぐらいだったと思います。けっこう手ごろな価格であったことだけでなく、サブタイトルに「サラ・ヴォーンに捧ぐ(CEREBRATING SARAH VAUGHAN)」とあったので、買って聴いてみることにしたのでございます。タイトルは「The Calling」。「サラ・ヴォーンの名前を呼び続ける…そんな意味なのかな?」としか思えませんでした。「The」がついていることにはこのときまったく関心がいきませんでした。それほど、軽い気持ちでの買い物でした。
帰宅して、さっそく聴いてみました。1曲目「Lullaby of Birdland」、2曲目「Send in the Clowns」に続いて、ようやく耳にしたことがある曲(おそらく、オリジナルのサラ・ヴォーンを聴いた覚えがあったのでしょう)「Speak Low」が出てきました。6分26秒、少し長い曲でしたが、「サラ・ヴォーンはもっと野太く低い声だけど、ダイアン・リーヴスは澄んだ歌声だなぁ」という他愛もないことを感じておりました。そして、4曲目の「Obsession」に入りました。ライナーノーツには7分37秒とありましたので「さっきの曲よりも長いなぁ」と思いながら耳にしておりました。スタンダード・ジャズの曲を弦楽器も加えて、クラシック風に仕立てたのかも、そう思っておりました。曲の半ばにさしかかったとき、突然(わたくしがそう思っただけかもしれませんが)、テンポがスローに代わり、フェードアウトしていくように感じました。「あれ? まだ時間は残ってるのに…」と思っていますと、「イエーイ、イエーイ…ウォーウォー…」といういわゆるスキャットの歌声が続き、少しずつテンポが上がってきて、ホイッスルやパーカッションも加わってラテン調のリズムが明確になってきました。なにかを賛美する歌声と昂ぶるリズムに心奪われ、いや、呆然としてしまったという表現があてはまったのかもしれません。すぐにリピート再生。やはり、イントロにはラテンを感じさせるものはなにひとつありませんでした。しかし、ようく聴いておりますと、リズムは確かにラテン、いわゆるボッサ・ノーバのそれでございました。そして、後半のスキャット部分に聴きほれてしまいました。「イェーイ」と「ウォー」だけが繰り返されるのですが、魂が込められたサラ・ヴォーンを賛美する歌声であることは容易に想像できました。素晴らしい。この一言に尽きます。
聴き入るうちに、こんなに素晴らしい賛美の歌を捧げられているサラ・ヴォーンのオリジナルっていったいどんな曲なんだろうと感じずにはいられず、この「Obsession」が入ったアルバムを探し当てました。それが「Brazilian Romance」だったのでした。
もちろん、このアルバムのことなどなにも知りません。解説を読んで、すぐに納得ができました。プロデューサーがセルジオ・メンデス(以下 セルメン)だったのでした。いわずと知れたボッサ・ノーバ界の帝王ともいえるミュージシャンですね。これは偶然だったのですが、この前の月にセルメンのアルバムを聴いていたところでしたので抵抗なく「サラ・ヴォーン×セルメン」をすぐに聴いてみたいという思いがわいてきました。
次の日、CDショップで「Brazilian Romance」を入手し、さっそく「Obsession」から聴くことにしました。しかし、ダイアン・リーヴスのそれとは違って(当たり前のことなんですが)3分9秒と短いことにまず驚きました。そのうえ、期待していた、後半のスキャットもありませんでした。すぐに、ダイアン・リーヴスのものは、やはりサラ・ヴォーンへの賛美を表したものなんだろうと思えました。しかし、そういう聴きほれたいという思いをもった後半部分がオリジナルにはないことなど、忘れさせるほど、サラ・ヴォーンのオリジナルの「Obsession」は素晴らしい曲でした。わたくしには音楽的な教養があるわけではありませんが、わたくしにとっては完璧に仕上がったラテン・ジャズであり、サラ・ヴォーンの深い広がりの歌声がメロディーとリズムを従えて歌い上げている名曲としか言いようがありませんでした。
もちろん、声の質がサラ・ヴォーンとダイアン・リーヴスではまったく違っているため、単純に比較はできませんが、おそらく、今後ダイアン・リーヴスがサラ・ヴォーンを超えることは決してないということは明確だと思われました。しかし、ダイアン・リーヴスはおそらく超えたいなどとは微塵ほども思っていないのだろうということも想像できます。それがあの賛美する歌声に現れている、そんなことを想像するだけで、サラ・ヴォーンの歌声に魅了されたいと思い始め、膨大な数の彼女の曲をすべて聴いてみたいと思ったのでした。
そして、半年あまりが過ぎたいまも、そのすべての曲を聴くという思いは実現されていません。それはわたくしの怠惰によるものではありません。アルバム「Brazilian Romance」の10曲、そして、ダウンロードで購入した「If You Could See Me Now」「Key Largo」「All Of Me」「Fascinating Rhythm」「A Lover's Concerto」の5曲だけですが、いまだにこれだけで十分でいます。とくに最近は、ウッドベースとギターだけで歌い込む「Key Largo」に聴きほれてしまい、なかなか次へ進めないでいる幸せを感じております。
ダイアン・リーヴスのこのアルバムのタイトルになっている「The Calling」には、「神の招き」という意味があります。尊敬してやまないサラ・ヴォーンを「神」のように感じているのだろうか、と当初は思っていましたが、サラ・ヴォーンと出会ったことが神の招きであったと信じている、そんな彼女の思いではないのかと、最近は感じています。
【画像と参考】
●画像上=「Sarah Vaughan Brazilian Romance」(Sarah Vaughan)
1 Make This City Ours Tonight (02:57)
2 Romance (03:30)
3 Love And Passion (with Milton Nascimento) (03:58)
4 So Many Stars (04:07)
5 Photograph (02:31)
6 Nothing Will Be As It Was (04:44)
7 It's Simple (02:58)
8 Obsession (03:09)
9 Wanting More (03:54)
10 Your Smile (03:08)
●画像下=「The Calling -CEREBRATING SARAH VAUGHAN-」(Dianne Reeves)
1 Lullaby of Birdland (04:44)
2 Send in the Clowns (06:03)
3 Speak Low (06:26)
4 Obsession (07:37)
5 If You Could See Me Now (06:44)
6 I Remember Sarah (04:20)
7 Key Largo (04:11)
8 I Hadn't Anyone Till You (05:41)
9 Fascinating Rhythm (05:24)
10 Embraceable You (07:56)
11 Chamada (The Call) (06:17)
【訂正】文中の「アドリブ」を「スキャット」に訂正しました。言葉が出てこないことほど情けないことはございませんが、ご指摘いただいて感謝します(^-^;
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