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ここで、泰子の同母兄の忠通が喪に服したのかはよく分からないのですが、
その後の展開から言って喪中であったと思います。
喪よりも、頼長にとって鳥羽法皇と自分を繋ぐ唯一の存在であった高陽院の死は政治的な痛手だったのでした。
美福門院は言わずもがな、生前の近衛帝も嫌っていたという頼長に対する法皇の態度も次第に冷淡になっていきましたが、それでも法皇の存在が忠実・頼長父子を支えていたのは間違いありません。
翌年の二月になってやっと頼長に「左大臣元の如し」の宣旨が下されますが、「内覧」の再宣下はなされませんでした。
そんな中、法皇が「不食」の病にかかり、六月には危篤の状態に陥ります。(保元元年・1156)
そこからの展開は今の私たちから見ても実に不可解なものでした。
法皇の重病にも拘らず、平癒の祈祷などは一切行われず、鳥羽殿に源平の武士が招集されます。
見舞いに訪れた崇徳上皇は追い返され、悲嘆に暮れました。
6月12日に美福門院が出家し、21日には鳥羽法皇は危急となり、
そして7月2日ついに崩御となります。
葬儀は遺言によって信西の検知によって行われました。
ここからは歴史の変動というよりも、稀代の策士によって正統な皇位継承者が葬られたひとつのクーデターが始まります。
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