中将の君のひとりごと

歴史とサッカーが好きな私のオススメを紹介します。最近はもっぱら旅人か、映画評論家気取りですが…

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

鳥羽天皇の葬儀に頼長も崇徳上皇も出席するハズもなく、早くも7月5日にはこの二人が軍兵を集めて
皇位を奪おうとしているという風聞が流れます。

そして信西は7月8日には高階俊成、源義朝に東三条邸を襲わせ、邸内で秘法を行っていた
平等院の僧・勝尊を捕らえ、その書状を動かぬ証拠として頼長の謀叛発覚となりました。
つまり、証拠もないのに東三条邸が襲撃されたのです。

なぜ、そのようなことをしたか?と、いうことが問題になります。
天皇三代にわたって院政を敷いてきた鳥羽法皇の死によって、朝廷の求心力が弱まったことがあります。
遺された後白河天皇自身は政治力など殆どなく、法皇の遺産さえ受け継げませんでした。

それに引き換え、摂関家は多くの荘園を抱え、その管理の為に源為義以下の武士団を掌握していました。

一方、後白河天皇には自由に出来る武士団といえば源義朝くらいで、白河法皇の威光でのし上ってきた平家はむしろ天皇家の嫡流である崇徳上皇に同情的だったようです。
(清盛自身も白河法皇の落胤である噂があったから、より崇徳上皇に好意的だったと思われる)

ただ、平家の台頭には鳥羽法皇第一の寵臣・家成の荘園政策への協力があったようですから、
美福門院とは関わりがあったようです。


藤原家成は生前、白河の宝荘厳院や鳥羽の安楽寿院など院の御願寺を次々と造営し、
そこで行われる法会や儀式の財源として立荘を行いました。
貴族たちもそこへ寄進し、それが膨大な八条院(美福門院皇女)領の礎となりました。

つまり家成が造った鳥羽院領が美福門院や八条院に相続され、その管理を行っていた(寄進した本人でもある)平忠盛がその縁で家成の死後は美福門院に仕えていたのでした。


つまり、後白河天皇は正統たる崇徳上皇と軍事力を持つ忠実・頼長父子を恐れていたのです。
そして、信西は鳥羽法皇の崩御による社会的不安を利用したのでした。


全然、昨日に間に合わなかった〜…

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事