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見込み捜査から始まった探索により朝議で頼長の流罪が決まります。
恐らくその証拠の中に、崇徳上皇の関与の証拠もあったのでしょう。
その証拠は今となっては永遠に謎となってしまいました。
その後の源平争乱や、皇位の断絶の危機に曝された朝廷はそれを崇徳上皇と頼長の怨霊と考えたのでした。
彼らは崇徳上皇と頼長の地位を回復しただけでなく、この事件…『保元の乱』の関連書類を皆焼いてしまったのです。
さて、追い詰められた崇徳上皇は9日、住まいとしている鳥羽から白河へ移ります。
10日には頼長も喪に服していた宇治から武士団を伴って上洛しました。
都は緊張に包まれます。
10日夜半過ぎ、後白河天皇は多田源氏の頼盛に守られて内裏から武士団のいた東三条邸に移りました。
どうも美福門院や皇太子に比べ、天皇その人の安全はあまり気にされていなかったようです。
(つなぎに過ぎないので)
ここからは『保元物語』にあるように、後白河天皇方の平清盛・源義朝・足利義康が白河へ夜討ちをかけます。
そして11日には崇徳上皇と頼長のいた白河北殿と隣接する前斎宮御所が炎上して、争乱はあっという間に決着が見られました。
『保元物語』には源八郎為義が頼長へ夜討ちを持ちかけて、頼長が「これは帝王を決める戦だから夜討ちなどで決着すべきでない」と退けたという頼長らしいエピソードも語られています。
それに対し、天皇方(この呼び名には問題はあるが…)は源義朝の夜討ちの申し出を信西が許可して、以上の結果となったとあります。
平清盛が参加したのはあくまで美福門院の招きであったので、清盛の方が褒美が多かったのは当然といえます。
敵方に着く可能性があったのですから…。
白河が焼かれて、それでも誰も討ち取られたということはなかったようで、崇徳上皇は仁和寺に
弟である五宮・信法法親王を頼り匿って貰おうとします。
しかし、関わりを恐れた法親王から断わられ、13日には天皇方に捕まりました。
それを聞いて他の者も自首し、源為義も16日に義朝の許へ投降します。
しかし、頼長の行方だけが依然として掴めませんでした。
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