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頼長への捜索は十日に及び、頼長の随身だった秦公春(すでに死亡・頼長の起こした殺傷事件の大半の実行犯である)邸なども追求されました。
そして21日に頼長の母方の従兄弟・玄顕が名乗り出て申告するまで続きました。
頼長は11日の戦の折に深手を負い、14日に死去。
密かに般若寺に葬られたというものでした。
天皇方はすぐに掘り出して遺体を検分し、頼長の死が確認されました。
享年37歳でした。
23日には崇徳上皇を讃岐の配所に移しました。
上皇はこれにより「讃岐院」と呼ばれ、1164年にその地で亡くなります。
その後、怨霊となって都を騒がせたことが知られています。
28、30日に源為義以下の武士18名が斬られ、ここに平安時代が正に「平安」だったとされた死刑のない時代は幕を閉じたのでした。
しかし、この斬刑も為義は義朝の許で、平忠正は清盛の許でという風に国家的な刑罰をとらずにあくまで一族内の制裁というカタチで行われたのです。
8月3日には頼長の三人の息子たちが配流になりました。
仁平2年(1152)の頼長が主催した鳥羽院五十賀の御賀で青海波の舞を舞った隆長や楽才に秀でた師長(いづれも頼長息)などです。
二人の兄弟はそれぞれ流刑地で亡くなりますが、この師長だけは生き延びて政界復帰を果たします。
頼長の怨霊を恐れた人々により位階は父親を越える太政大臣まで昇ります。
8月26日に源義朝の弟・八郎為朝が捕らわれ、「保元の乱」は終息しました。
しかし、信西の野望は終りません。
写真は神代植物園の牡丹です。
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