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1年の計は元旦にあり―と、言いますが、とりあえずサッカーばっかじゃなくてヤル気あるところを見せたいので、書初めに当たる本日は歴史ものの更新です。
本も何十冊も読んでいるんですが、なんか書く気しなくて…。
サガン鳥栖昇格の興奮の中、ついに行ってきたお寺です。
この日は吉野ヶ里にも行ったんですが、吉野ヶ里のすぐ近くにあるお寺です。
ついでに行った感じですけど、私は全然別ルートでこのお寺の存在を知りまして、ずっと行きたかったんですよね〜。
見た目パッとしないこの小さなお寺ですが、東妙寺は由緒正しく、蒙古襲来に備えて後宇多天皇が祈願寺として建てた勅願寺であります。
運慶作の釈迦如来像など旧国宝や重要文化財が多くあります。
その旧国宝のひとつに『梵網経一巻』がありまして、後醍醐天皇の皇子・懐良親王がその母君の菩提を弔う為にこの寺に納められたものです。
懐良親王というと、我がバイブル『皇子たちの南北朝』でも、確かなことは分からないために活躍のワリに記述が少なくて(私がそう思うだけかも知れないけど)、しかも小説になると膨らませ過ぎっていうか…、私にはロマンが感じられない履き違えたものしかないので、私にとってはにあんまり食指が動かない皇子でした。
しかし、この親筆の存在を知って、なんかものすごく切なくなったのです。
母思いのその心ではなくて、その筆の美しさにとにかく心を動かされたのでした。
懐良親王の母は、ご存知の通り和歌の名門・御子左家の女性で、和歌をいっぱい残した宗良親王もその一門でした。
しかし、懐良親王自身残っている和歌は宗良親王とやりとりした二首だけで、我々は親王の文化的教養を殆ど知ることが出来ません。
推定で七歳ほどで九州へと旅立ち、三年以上の月日をかけて九州入りし、しかも政治的に重要な北部九州へ入れたのはさらに五年の月日を費やした懐良親王は、その生涯の全部を戦乱の中に生きたのでした。
ひとりでの子供の旅行ではないとはいえ、いつ、どうやって誰から学んだのか知る由もありませんが、とにかくその書が心を打たれる程に美しい…これが、私が懐良親王への扉を開くキッカケになったのです。
もちろん、国宝そのものをホイホイ展示してあるワケではありませんが(レプリカすらない)、親王への思いを馳せに行って参りました。
まあ、とにかく場所は街道から丸見えなんですけど、入り口が分かりずらいです。
帰りにお寺の人から教えてもらったのですけど、街道から直接お寺に繋がる地下道があってそこで線路を越えるようになっています。
私は北のゴチャゴチャした住宅街を抜けたんですけど、途中でキレイなイタチに遭いました。
迷っていたわけじゃないけど、道案内するみたいにこっちを見ていたので、「ジ○リアニメみたいだな〜」と思いました。
レプリカはなかったんですが、コピーしたものがあったので、それを読んだり、古文書の東妙寺の敷地の広さに驚いたり、ナカナカ有意義な時間を過ごしました。
その広い寺領に対して足利尊氏も直冬も東妙寺に寺領安堵の文書を残しているんですね。
軍事的にも重要な拠点だったのでしょうか。
南北朝時代と言わず、吉野ヶ里の村落の遺構の上を鎧武者が駆けていたんだなあ…と、感慨深かったです。
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