|
東妙寺から、ひとつトバして筥崎宮へ行って参りました。
大分・宇佐神宮と京都・石清水八幡宮と並ぶ日本三大八幡宮に数えられる筥崎宮ですが、実はあんまり知らなくて、目的は例の「敵国降伏」の扁額くらい…
JRから行ったので裏から入って、左手回ったらなんか知らない建物が…
中見たら、亀山上皇尊像があるじゃないですか!
この建物は↑『亀山上皇尊像奉安殿』と、言って平成23年10月に出来たばかりの建物なんですね〜。中の像は福岡市東公園にある「亀山上皇立像」の原型となった木彫像です。
日本に前代未聞の危機が訪れた元寇の時代は亀山上皇が院政を敷いていた時代でした。
治天の君として上皇は各地に祈願し、佐賀県神崎郡に東妙寺が建てられたのです。
そして、ここ筥崎宮には上皇の御宸筆が収められました。
それをもとに作られたのが、この扁額です。
楼門に掲げてあるので、この門は伏敵門とも呼ばれます。
太平洋戦争のときは、「神風」と共にこの上皇の神通力が持て囃されて、大変崇められたことでしょう。
しかし、近年の研究で、鎌倉幕府が元寇を撃退出来たのは、暴風雨の為ではなくて、鎌倉武士による勇猛果敢な戦いの成果であったことが研究によって徐々に明らかになっています。
大宰府を中心とした凄まじい攻防戦がこれから明らかになっていけば、元寇に対する考え方も随分変わっていくでしょう。
そして、この亀山上皇は文学の中の登場人物としてもお馴染みです。後深草院に仕えた二条と呼ばれた女性の書いた「とはずがたり」で、主人公・二条と情を交わします。
その上皇と、自ら祈祷して国を守ろうとした上皇の姿がナカナカ重ならないのも事実です。
しかし、女が完全に政治からはじき出された宮廷で、男だけが持っていた二面性も興味深いです。
元寇の時代、皇統は両統迭立という法則のもと継承されていました。
承久の乱の混乱で皇統が巡ってきた後嵯峨天皇は鎌倉幕府に遠慮して、皇統継承の明確な意思を残さないで崩御しました。
幕府が一応、皇太后に確認しますと「遺志は亀山院にあり」と答えます。
この同母兄弟の後深草院と亀山院に対して、夫婦共に明らかに愛情の差があったようです。
それで、亀山院の方に皇統が落ち着くかと思いきや、関東申次の西園寺実兼の尽力で鎌倉幕府から、両統が交互に継承するように提案されます。後深草院の系統を持明院統といい、亀山院の方を大覚寺統と言います。
その二統の争いとなるかと思いきや、亀山上皇の気まぐれで皇統が斜陽の皇子・尊治親王に回ってきます。
これが、後醍醐天皇で、彼の倒幕の意思が日本を南北朝の争乱へと導くのです。
この後醍醐天皇の時代は天狗が跋扈した時代とも言われ、この筥崎宮に本殿には正面に六つの天狗の面が掲げられています。
その由来は分からなかったんですが、すごく興味深かったので撮りました。
遠くからの撮影なので、すごくボケています。(中の撮影は禁止なんだよね)
南北朝のくくりに入れるのはオカシイんですが、書庫に「鎌倉時代」がないので。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]


