中将の君のひとりごと

歴史とサッカーが好きな私のオススメを紹介します。最近はもっぱら旅人か、映画評論家気取りですが…

南北朝時代

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龍潭寺(りょうたんじ)

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今月、静岡に行ったついでに寺社巡りをしてきました。
静岡の西の方なら、やっぱり龍潭寺ですよね〜。

龍潭寺のある井伊谷(いいのや)は宗良親王ゆかりの地で、親王の菩提寺でもあります。
ここから出た井伊家はのちに二十四代・直政が家康の寵臣になり大出世しますが、この地で鎌倉時代から続く名家でした。

井伊家代々の墓もここにありまして、井伊家が彦根藩主となってからもその威光によって繁栄していたようです。

まあ、この寺の最大の見物は小堀遠州作の庭園です。
しかし、この前に行った寺もそうだったけど、なんか改築をやっていて(浜松でなんかあるのか?)
庭が見れない…と言うか、庭を見せる為に梁があって、池の上で見るカタチになってました。

前に見たし、庭の中…それも池の上で見れるなんてそうないのだけれど、近寄っちゃうと、空間美がイマイチ分からないというか…。
ちょっと残念でしたね。

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もう二度と「詳説 日○史図録」については書くまい…(笑)
1000カウント間に合うのか…?!
写真は阿蘇山火口です。


五条頼元は懐良親王の成人にあたって、阿蘇氏の恵良(えら)惟澄に、これからは何事も親王自身に
「伺い申し入れ」ることなどを書き送っています。


吉野宮炎上が「観応の擾乱」に繋がっていくことは、前にも触れました。
この「観応の擾乱」は九州でも猛威を奮います。

台風の目となったのが、足利尊氏の実子・直冬です。
義父である足利直義が失脚すると、中国探題であった直冬も狙われ、寸でのところで肥後に渡ります。
彼が頼ったのが阿蘇惟時でした。
肥後に渡った直冬の許に直義統の勢力が集います。

大宰府の小弐氏の婿となった直冬は幕府方の鎮西探題である一色氏と対決し、ここに「宮方」(懐良親王)、
「将軍方」(一色氏)、「兵衛佐殿方」(直冬)という三勢力の戦いが九州にそのまま持ち込まれることになりました。


直義が勢力を盛り返すと、直冬が鎮西探題に任命されます。
しかし、「正平の一統」で南軍と幕府が手を結ぶと、一色氏が鎮西探題に復帰します。

鎌倉で直義が殺害されると、直冬の勢いは衰え、文和元年一色氏に敗れた直冬は長門に逃れました。

この擾乱が宮方に優位に働いたことはいうまでもありません。

正平六年から懐良親王は菊池武光と共に肥後・筑後を転戦します。
ようやく兵馬を率いる皇子としての一歩を踏み出した懐良親王ですが、ちょうどその頃、母である二条為道の女が亡くなりました。

翌年、南朝が義詮の油断を付いて京都を奪還します。
後村上天皇は鎌倉にいる尊氏が戻る前にと、懐良親王に上洛を促します。
しかし、程なく義詮軍に敗れ、撤退しますが、尚も懐良親王の帰還を希望していました。


五条頼元の子・良氏宛に後村上天皇の真筆の書状が遺っています。

「昔の臣下の心映えは美しかったのに、今は人の心は変わってしまいました。
先帝の志を引き継いでおられるのはただ頼元ひとりになってしまったように思われます。」


四条隆貞、北畠親房といった重臣を相次いで失った後村上天皇はたったひとりの(と思われる)弟を身近に置きたかったのでしょう。
そして、懐良親王もその兄を思い遣って帰還を承諾していたようです。

二人は多くの兄たちを失った今、同じ血を引く者として強い絆で結ばれていたのでしょう。

しかし、この兄弟は合見えることはありませんでした。


菊池武光に奉じられた懐良親王は正平八年筑前針摺原の戦から始まり、諸勢力を撃ち破り、
ついには同十四年筑後川の合戦(川では戦ってない)でついに小弐勢を敗りました。

懐良親王自信も三箇所の深手を負う程の激戦でした。

その二年後、ついに懐良親王は太宰府に入ります。
薩摩上陸から実に19年の歳月をかけた九州縦断でした。
征西将軍懐良親王の征西府はこれから12年に渡る全盛期を迎えます。


正平二十二年、要請に応じて後村上天皇の皇子である良成親王が僅か6歳で西下しました。
その十二月京では足利義詮が死去。
僅か10歳の義満が新将軍となります。

その幕府の動揺を突くかたちで懐良親王の東上が謀られます。
すなわち、翌正平二十三年二月、菊池・島津・松浦の七万騎を率いて懐良親王は大宰府を出発します。
しかし、姫島沖で大友氏の水軍の要撃を受けます。
いったんは長門の厚東氏の船隊に救援されますが、大内氏の兵船に攻められて大敗を喫しました。

やむなく懐良親王は大宰府に帰還します。

兄弟たちの帰還を待ち侘びたまま、後村上天皇は翌三月に亡くなりました。
懐良親王もついに吉野へは戻ることはありませんでした。

建徳二年、新しい九州探題として今川了俊が上陸します。


当時、『倭寇』に苦しめられていた明の光武帝はこの懐良親王を「日本国王」として度々使者を遣わしています。
正平二十四年に初めて明の使者が博多に上陸します。
建徳二年に明の入貢要請に応じて懐良親王は献物を持って上奏しています。
明は暦と文綺紗羅を与えました。

国交はするものの懐良親王は倭寇の取り締まりには応じませんでした。
南西諸島・琉球方面の倭寇の史跡に菊池氏にまつわる伝承が多く残っていることから、
懐良親王たち南朝軍は倭寇のもたらす利益によって成り立っていた部分があったのだろうと思われます。


明との国交の最中、今川了俊によってすでに博多が陥落していたのでした。
征西府の斜陽の中、懐良親王の歌が宗良親王に届けられています。

日のそへて遁れむとのみ思ふ身に いとどうき世のことしげきかな

しるやいかによを秋風の吹くからに 露もとまらぬわが心かな

先に挙げた宗良親王の歌集に遺されていたもので、歌人の家の母を持ちながら懐良親王の歌は
この二首のみしか残されていません。

翌文中元年、大宰府が陥落します。
懐良親王は菊池武光と共に筑後高良山に逃れます。
二年後には高良山も放棄し、肥後の菊池まで撤退しました。
この間に菊池武光も没しています。

菊池の地で懐良親王は吉野から遣わされた後村上天皇皇子・良成親王に征西将軍職を譲りました。

しかし、明はなおも「日本国王」懐良親王相手に国交を続けます。
最後の使者は元中三年でした。


この三年前に菊池氏とも袂を別っていた懐良親王は筑後矢部でひっそりと没していたのでした。


おわり

大幅に書き直したけど、まだ納得いかん…。

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懐良親王は北方謙三氏の『武王の門』があるからいいや(読んでないけど)、とも思ったんですが、
後村上天皇について洩れてしまった話があるので、続けることにします。



懐良親王は二条為道の女を母に元徳年間ごろ生まれました。
母親は宗良親王の従兄弟ですから、懐良親王にも歌人としての側面があったように思われます。


延元三年、阿蘇大宮司家の惣領・阿蘇惟時に懐良親王を征西大将軍として九州へ下向させるという綸旨が
後醍醐天皇より下されます。

その年の暮れには讃岐に到着した懐良親王が阿蘇惟時に迎えに来るよう令旨を出しました。


懐良親王の一行は五条頼元を筆頭にしての総勢12人という粗末なものでした。
他の皇子たちのように武将を伴っての下向でないのは、阿蘇氏との深い繋がりがあってのことだと
思われますが、南朝の衰退によるところが大きいと思います。

意に反して阿蘇氏は動きませんでした。
そのまま翌年の延元四年八月、後醍醐天皇が崩御します。

その報を受けてか、このままでは埒があかないと伊予の海賊・忽那義範を頼って忽那島に入ります。
海賊の力に頼るのはここが初めてではありません。
前年の嵐で失敗した義良親王・宗良親王の船団も熊野海賊の力によるものでした。


この忽那島で懐良親王は三年の月日を費やします。

そして、肥後入りを断念した一行は忽那氏に護送されて薩摩に上陸します。
懐良親王一行はそのまま薩摩国谷山郡司・谷山隆信の居城・谷山城に入りました。
これを「谷山御所」といいます。

谷山城の北方わずか9キロには幕府側の守護・島津氏の拠点の東福寺城があり、
谷山氏はこの対立を優位にするために親王を迎え入れたのでした。

この谷山御所で懐良親王は実に5年半の月日を過ごします。
その間に、懐良親王の…というよりは五条頼元の阿蘇氏への勧誘は続けられました。
そればかりでなく、惣領・惟時へは後村上天皇の綸旨や北畠親房の親書が届けられますが、
興国四年惟時は北朝に奔ります。


懐良親王は惟時を懐柔するための最終手段に出ます。
肥後入りを断行するのです。

正平二年五月十日、まず南軍である熊野と瀬戸内の海賊船数十艘が筑前国宗像の大島・小島に押し寄せました。
そうして、北軍の目を北部九州に引き付けておいて、主力船隊が鹿児島湾に入ります。
そして、海陸両方から東福寺城へ攻撃を仕掛けました。

何度か繰り返された戦いで島津軍は大きな痛手を被ります。
十一月谷山を発った懐良親王は翌月には肥後国葦北郡に到着します。


翌正平三年正月、益城郡の御船城に入った懐良親王の許へ観念したように阿蘇惟時が対面に訪れました。
宮に肥後入りまでされては知らぬ顔は出来なかったのでしょう。

五条頼元は大変喜びますが、その対面でも事態は好転せず、懐良親王はそのまま菊池郡の菊池武光の館へ移りました。


しかし、懐良親王が肥後へ入り、いよいよというその時に南朝は吉野で大打撃を受けました。
すなわち、四条畷で大敗北を喫した南朝は高師直の追撃を受けて吉野を落ちます。

その報は足利直義によってすぐさま九州へ伝達されました。
この敗北は未だ態度を決めかねていた九州の勢力に大きな影響を与えたと思われます。
その動揺を鎮める為に後村上天皇からは虚勢とも受け取れる綸旨が下されました。


そうした中、菊池氏の館でようやく懐良親王は成人を迎えます。



写真は阿蘇神社です。
「遺稿」とか言って病床で原稿あげる人ってホントにスゴイと思う…。
まったくアタマが働かない…。

真相は明らかでありません。

天皇親政を理念に掲げた南朝が幼帝でいいのか?という疑問は残りますが、
後村上天皇は譲位を口にしたのだと私は思います。


京を目前に撤退した無念はいかばかりであったでしょう。

それにも増して実際の軍を統括する総大将の必要性を感じとったのかも知れません。


後村上天皇の理念には護良親王の存在があったのだと思います。
御所で何度かしか会ったことのない兄ですが、征夷大将軍として堂々入京するさまは
忘れられなかったに違いありません。

それだけでなく、あの幼き日北畠顕家と取り組んだ「陸奥国府」こそ兄宮の
建武政権に託した最後の遺産だったのです。



男山の戦で側近の四条隆資を失ったのも大きな痛手だったことでしょう。
当時は公家といえども、前線に立って南朝の為に命をはる者が多く存在しました。

平安時代以降、政治の実権はひと握りの公家が握っていて、天皇は飾りものになっていった印象を持たれる方もいるでしょう。
しかし、自分の荘園経営も朝廷あってこそのものなのです。
天皇無くして公卿の存在も成り立たないことを彼らは知っていたのです。

その嚆矢が北畠顕家ですが、彼の他にも護良親王の側近であり一軍を率いていた
四条隆貞(隆資の子)などがいます。

元々親王の下向には必ず実務官の上流貴族が従っていました。
彼らは親王の令旨の奏者となりました。
もちろん、四条隆貞も護良親王の令旨を発給し、その量は他の奏者を圧倒しています。


男山の戦の2年後、追い討ちをかけるように北畠親房がこの世を去ります。
公家社会に固執した彼はむしろ、後醍醐天皇よりも古い体質だったと言われています。
武家からも、両天皇からも信頼されることのなかった親房ですが、策謀だけを楯に南朝に何もかも捧げた人生でした。

大きな支柱を失った南朝は、足利尊氏の実子・直冬のみが僅かに奮いますが、斜陽は目に見えていました。
直冬は義理の父である直義の死後、直義派の武将たちとともに南朝へ投降していたのでした。
正平十年には尊氏を撃ち破り、京を制圧します。
それが最後の光明でした。


その頃、後村上天皇は九州を席巻した懐良親王や遠江にいた宗良親王にしきりに軍の催促をしています。

正平十二年、足利尊氏がこの世を去って、その翌年には新待賢門院・阿野廉子が崩じます。

楠木正儀は南朝の中心として何度か和義に取り組みました。
正平二十年には輪旨の奏者になっているくらいですから、それは後村上天皇の意志でもあったのでしょう。
和議は実現しないまま、後村上天皇はその苦悩の生涯を終えます。
41歳でした。

後村上天皇の跡を継いだのは強硬派の長慶天皇でした。
彼の即位により統一への道は遠くなり、和議に奔走していた正儀は室町幕府に投降します。



うわー!間に合わなかったー!!
…ちょっと不完全燃焼ですので続きます。

楠木正行の戦死、賀名生への没落を若き(ちょうど二十歳)天皇はどのように受け止めたのでしょうか。

先に挙げた宗良親王との歌のやり取りで察するしかありません。


歳の近い正行の討ち死は衝撃であったばかりでなく、北畠親房に対する拭いようのない不信感を
芽生えさせたことでしょう。

そして、ことごとく焼け落ちた吉野行宮。
『李花集』によれば、翌年春、阿野廉子は吉野を訪れ、その時の思いを詠んでいます。

みよし野はみしにもあらず荒れにけり あだなる花は猶のこれども

蔵王堂をはじめ、あとかたもなく焼かれた吉野の中で、昔と変わらず咲く塔尾の御廟(後醍醐天皇陵)の桜を懐かしんだものです。

「徒なる桜」とは、取り残された自分のことでしょうか。
彼女の心は常に亡き後醍醐天皇に寄り添っていたことが伺えます。


この大勝利が足利直義と高師直の対立と火種となって、「観応の擾乱」へと発展することは
宗良親王のところで触れた通りです。

先に罷免された高兄弟が直義を襲います。
直義は政務を辞し、出家までしますが、赦されずに逃亡して南朝に投降します。

直義を受け入れるかについて、南朝方では激論が交わされました。

何しろ直義は護良親王と恒良親王の仇です。

しかし南朝は直義を受け入れます。
もはや自軍だけでは大掛かりな戦を仕掛けることも出来なくなった南朝方は
幕府の内紛を利用するしか幕府に対抗する術がないのでした。


やがて南朝は幕府内の騒乱をより複雑にせしめるだけの存在になっていきます。


綸旨の効果があったのでしょうか、直義は息を吹き返し、尊氏軍を敗ります。
すると、あっけなく兄弟は和解して直義は南朝を裏切りました。

そして、今度は尊氏・義詮父子が投降し、直義討伐の綸旨を受けます。
戦の後に高一族を誅殺したものの、もはや兄弟関係は修復不可能となっていたのでした。


ここに≪正平の一統≫がなり、背後の憂いを無くした尊氏は鎌倉に逃げた直義を追います。
直義は捕われ、幽閉されたのち最終的に自分がしてきたように毒殺されます。

その最大の動揺を突いて南朝は鎌倉と京都を攻めます。
すなわち、鎌倉は征夷大将軍・宗良親王を奉じた新田一族に、京都は楠木正儀・北畠顕能連合軍によって奪還されたのでした。


四条畷の戦の後、吉野を焼いた高師直に対し、高師泰はそのまま楠木氏の本拠地の河内の東条まで進軍して支柱を失った楠木氏の壊滅を図りました。
正儀はこれに粘り強く応戦し、1年半後師泰が「観応の擾乱」の為に兵を退くまで持ち堪えていたのでした。


南朝の攻撃を受けた足利尊氏父子はそれぞれ脱出しますが、義詮は大きな過失を犯します。

近江への退却に北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)と直仁親王を伴わなかったのです。
以後、彼らは囚われ人として南朝の吉野・賀名生での長い幽閉生活を送ります。


当時、住吉を行宮としていた後村上天皇は天王寺へ行幸し、更に山城の男山八幡へ向かいます。
もう京都は目の前でした。

そこで後村上天皇は、その頃菊池武光に奉じられて九州で転戦していた懐良親王へ上洛を促す手紙を出しています。

しかし、義詮は兵三万で京都を奪還すると、そのまま男山を包囲します。
50日程、存えるもののいよいよ危険が迫ると後村上天皇は突出し、
公家の四条隆資、一条内嗣、三条雅賢などが討ち取られました。


京都に先んじて小手指原の戦で勝利した尊氏はそのまま、鎌倉の維持の為に残ります。
義詮は京都を奪回するものの、三上皇を失ったままではどうすることも出来ません。
何度も取引を持ち掛けますが、南朝は頑なでした。

仕方なく出家しようとしていた光厳上皇の二宮(崇光上皇の同母弟)を捜しだし、
広義門院(光厳院母)の院宣によって即位させるという苦肉の策に出ます。

義詮の体たらくに怒り心頭の女院も、仕方なく院宣を出したのでした。
後光厳天皇です。


数ヶ月後、後村上天皇は賀名生に落ち着きます。
その頃、後村上天皇が三歳の皇子に践祚して、自ら陣頭に立つという風聞が流れたそうです。




う〜、今回で終る予定だったのにぃ〜…。
ところでこれ、読んで面白いのかな…?

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