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私は後醍醐天皇という人を考えるとき、まず皇子たちの悲劇を思わずにはいられません。
特に初めて読んだ本が鮮烈で、護良親王を死に追い遣った冷たい父親の印象しかなかったのですが、
最近読み直して少し印象が変わりました。
天皇が権威そのものになって四百年。
武力を何ひとつ持たない天皇が当時日本で最大の武力を維持していた鎌倉政権に対して
軍事クーデターを企てたのです。
頼みとしたのは皇室側に属した豪族、幕府側に属さない悪党、反幕府の寺社勢力、
そして寝返るかも知れない御家人…。
彼らの取り込みの為に皇子たちは派遣されたのです。
皇子たちそのものが後醍醐天皇の権威であり、権力だったのです。
それは下向する皇子の全てが親王宣下を受けていたことからも分かります。
文観他、多くの僧が鎌倉幕府転覆の呪法を駆使したように、
僧になった法親王たちもその法力を頼みとされていたのでしょう。
だから中宮所生の内親王を北朝に嫁がせ、廉子の子を斎宮とし、
重き皇子であればある程、困難な場所へと立ち向かわせたと思われます。
後醍醐天皇は執念のままに手持ちの皇子ひとり残らず送り出しています。
他に満良親王という方もいましたが、義良親王の第二回陸奥遠征と同じ時に四国へ発ち、
音信不通となっていました。
義良親王の船が無事奥州に着いていたなら、どうなっていたのでしょうか。
私は多分、法仁を還俗させたと思います。
ですから、義良親王の即位は偶然によるところが大きかったと思います。
元々後醍醐天皇は次の天皇は下の世代の皇子をと考えていて、
護良親王を含む上の世代の皇子たちは充分承知していたふしがあります。
なぜなら天皇親政は天皇の在位期間が長ければ長い程、政権が安定するからです。
むしろ十年、寿命が短かったことが誤算だったに違いありません。
ここに僅か十二歳の新帝の苦難に満ちた治世が始まったのです。
洞院実世と四条隆資が幼帝を補佐しましたが、大事の全ては常陸にいる北畠親房の裁量によりました。
後に親房の女が後村上天皇の中宮になります。
義良親王の政策はまず、翌年の興国元年に九州の委任権を懐良親王に与えます。
すなわち、九州の采配は吉野への直奏を禁じ、懐良親王の令旨で行うというものです。
これは奥州において義良親王が委任されていたことと同じです。
興国三年になって懐良親王はやっとのことで薩摩に上陸しますが、九州制圧にはまだまだ長い月日を要します。
他に政策として興国二年、北畠親房の要請で護良親王の遺児・興良親王を常陸へ遣します。
それによって勢いづいた南朝軍は七城(小田、関、大宝、伊佐、真壁、中郡、西明寺)を確保します。
足利方は、これに高師冬に大軍を預けて向かわせました。
その窮地に親房は、白川の結城親朝に来援を促す為に70通以上の書状を送りますが、徒労に終ります。
興国四年には結城親朝は尊氏の誘いにより、親房を攻めるに至り、関東の南軍は壊滅へと向かいます。
『神皇正統記』はこの間、幼帝に向けて、あるいは去就に悩んでいた結城親朝へ向けて王道の正当性を示す為に書かれました。
興国五年、近衛基嗣の預かりとなっていた成良親王が没します。
親房が吉野に戻ったことにより、正平元年頃から俄かに南朝は活気づきます。
その中心となったのは、楠木正成の遺児・正行(まさつら)正時兄弟でした。
湊川の戦の後、河内に戻って潜伏していた彼らは、父に劣らない武将へと成長していたのでした。
正平二年、22歳になった正行は紀伊に討って出て、隅田城を落とします。
足利氏は、細川顕氏を大将とし討伐に向かわせますが、河内の藤井寺付近で不意をついた正行軍によって敗走します。
続いて、山名時氏に加勢させ、軍を倍増して挑みますが、時氏自身も負傷し、3人の弟が討死にしました。
ここにおいて正行討伐に本腰を入れた足利軍は、正平二年十二月高師直・師泰兄弟を大将に任じ、東海・東山・中国・四国二十ヶ国余りの軍勢を動員するに至ります。
総指揮を執る足利直義は八幡山にあり、高師直は河内の佐良良(四条畷)に進出し、高師泰は天王寺・住吉方面に向かいます。
対する南朝の総指揮は北畠親房でした。
ここに南朝の命運は尽きていたのでしょう。
武士に信頼を置かず、独善的で公家一辺倒の親房はかつて楠木正成を湊川に追い遣ったように、
膨大な兵力差にも拘らず正行にも出撃を命じます。
十二月二十七日、正行は一族郎党を率いて吉野に参内します。
後村上天皇は御簾を高く巻かせて、正行を近くに召し寄せました。
若く清らかな武将の姿に幼い日、行軍を共にしたその人の姿を重ねたのかも知れません。
その予感に、天皇はくれぐれも命を落とさぬように正行に念を押します。
しかし、正行は己の運命を既に決めていたのでした。
返らじとかねて思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる
短い命を惜しむように如意輪寺の壁板に辞世を刻みます。
正月五日早朝、正行は四条畷に討って出て、世にも稀な程の凄惨なる戦いを展開しました。
目指すは高師直の首ただひとつ。
ひたすらに突撃を繰り返し、夕暮れになって遂に力尽きた正行は弟正時と刺し違えました。
湊川の戦を擬えたような正行の最期でした。
死後も親房は冷たく、南朝に著しい損害を与えたその戦を叱責しました。
親房の懸念通り、四条畷の大勝で勢いづいた高師直はそのまま吉野を焼き払います。
四条畷の戦の直後、南朝は賀名生へ落ちていたのでした。
正行はこの時、病を得ていたという話も伝わっています。
楠木家の総領が戦もせずに、病に倒れることなど彼にとっては許されないことだったのです。
正行の焦燥感に思いを馳せるとき、いっそうこの悲劇に胸が熱くなります。
この後、楠木氏は正行たちの弟・正儀が総領となりました。
哀しい一族のただ一人の生き残りである彼は、両朝統一に生涯を捧げます。
うう〜、長引いた。
うるうるしながらやってたら、また0時回ってしまった…。
写真は正行の墓です。
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