中将の君のひとりごと

歴史とサッカーが好きな私のオススメを紹介します。最近はもっぱら旅人か、映画評論家気取りですが…

南北朝時代

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四条畷の戦で大勝利をおさめた高師直が吉野まで攻め入ったことは前回書きました。

その勝利で勢いづいた高師直は尊氏の弟の足利直義と対立するようになります。

その対立で高師直たちが尊氏邸に逃げ込んだ直義を取り囲むという事態になり、
直義は鎌倉にいた義詮(尊氏嫡男)に政務を譲渡して出家することで決着しました。


しかし、それで済みませんでした。
尊氏は自らの庶子で直義の猶子となっていた直冬に対し討伐の兵を出したのです。

実の父に散々に疎んじられていたこの甥を、直義は大変可愛がっていました。
その我が子の窮地を知るや、ついに直義は起ちます。

義理固く、足利家を第一に思っていた直義なら、直冬攻めさえなかったら兄弟対決など
決してしなかったでしょう。


ここに「観応の擾乱」が始まります。


直義はまず南朝に降伏し、後村上天皇から尊氏追討の綸旨を貰い受けます。
そうしておいて直義は、摂津打出浜において尊氏軍を破りました。
すると、尊氏はあっけなく降伏し、尊氏・直義兄弟は和睦します。

この時一緒に入京しようとした高氏一党は、先に誅殺された直義派の上杉氏によって惨殺されました。


そうして何事もなかったように暮らせる筈もなく、二人の間には常に緊張が付きまとっていました。

そのうちに尊氏が南朝に通じ、危険を感じた直義は京都を脱出して鎌倉へ入ります。
尊氏は背後の憂いを無くす為に南朝と和睦し、北朝の天皇を廃します。

これを「正平の一統」と言います。

尊氏は直義追討の綸旨を受け、鎌倉を制圧しました。
翌月には直義も暗殺されます。

この泥沼化した武家方の内紛に乗じて、南朝は鎌倉の奪還を謀りました。

すなわち、正平七年閏二月成良親王のあとしばらく停止していた征夷大将軍の座に宗良親王を任じたのです。



思いがけない任命に宗良親王は戸惑いを隠せません。

「思いきや手もふれざりし梓弓 おきふし我が身なれむものとは」

という歌を詠んでいます。


鎌倉攻撃は新田軍が主力となります。
義貞の遺児・義興と義宗、そして彼の従兄弟・脇屋義治たちです。

宗良親王は諏訪氏と共に碓井峠まで進軍しました。
南朝は小手指ケ原の戦で敗れるまで鎌倉を占領しますが、やがて尊氏軍に追われます。

宗良親王は再び信濃へ戻ります。


宗良親王は翌年から2年程越後で過ごしたのち、信濃にあったようです。
その間、何度か後村上天皇から軍の催促を受けて、歌のやりとりをしています。




文中三年、やっとのことで吉野に帰った宗良親王には、もう待つ人はいませんでした。


歳の離れた弟である後村上天皇は6年も前に亡くなり、当代の長慶天皇とは初対面でした。

ちなみに同じとき九州では懐良親王が甥の後村上皇子・良成親王に征西将軍職を譲っていますので、
各地で新しい戦略を展開していたのかも知れません。



宗良親王は三年後には信濃へ出立し、途中の長谷寺で二度目の出家をします。

その後の足取りはよく判りませんが、恐らく信濃へは行かずに吉野へ引き返したようです。
そこで『李花集』を纏め、天授元年頃からは『新葉和歌集』を手掛けました。

興和元年、長慶天皇の綸旨により『新葉和歌集』は勅撰集とされました。


その後のことはまるで判りませんが信濃大川原で亡くなったことが、
京都醍醐寺の『三宝院文書』から分かります。

後醍醐天皇の薄幸な皇子たちの中で、70年以上生きたようです。



墓陵は宗良親王と縁の深かった井伊谷にあります。

何年か前にエコパのついでに龍潭寺に行ったときに「隣の神社も行こうか」と寄ったのが「井伊谷宮」で、
宗良親王の墓があって驚嘆したものです。

南北朝時代を知らなかったわけじゃない私でさえ、そんな感じだったので、
一般の方はあまり興味ないでしょうが、こんなにのどかなところで奉られているんだなあ…と
感慨深いです。
(写真が見つからなかった…ので、となりの龍潭寺です)


生来の歌人でありながら、戦と漂泊に身を委ねなくてはならなかった親王の、
せめて穏やかな余生を祈らずにいられません。

後醍醐天皇の崩御は多くの人へ衝撃を与えました。

京都にいた公家たちは俄かに信じ難かったようで、中院通冬はその日記に
「信用するに足らず」と書いています。

通冬は後に後醍醐天皇の死が確実であると分かってからは、こうも書いています。
「公家の衰微、左右あたわず。…諸道の再興はひとえに、彼の御代にあり」

武士に言われるがままに官位を与えるだけの存在でしかない北朝には、公家社会の未来はないことを
北朝方の公家たちも分かっていたのです。



訃報を聞いた宗良親王もそんな気持ちだったのではないでしょうか。

「やはり信じられぬ思いで日々を過ごしていると、他の公卿などから来る便りもその悲しみに関すること
だったので、そうなのだ(帝が亡くなったのだ)と思ってもいよいよ夢の心地する…」

そんな詞書が残っています。


そして、『新葉和歌集』と、『李花集』に

「おくれじと思ひし道もかひなきは この世の外のみよしのの山」

の歌が遺されています。
しみじみとした風情よりも、私なんかはすごく、「南北朝」っぽいなと思います。

この時代を経て、和歌がいよいよ武士の死生観を表現する手段となっていくのです。


後醍醐天皇の後継者には、12歳の義良親王が立ちます。

後村上天皇です。
ここらへんの経緯については後で触れます。


しかし、宗良親王の身に平穏な日々は訪れません。
翌、興国元年に遠江守護仁木氏に攻められ、宗良親王は井伊城を脱出したようです。
興国二年春には越後の寺泊に宗良親王の記録が残っています。


この間のどこかで駿河の狩野貞長館において、護良親王の遺児・興良親王と面会したことが
『李花集』の詞書で分かります。
この面会の時期については年代的に矛盾するところがありまして、ハッキリしたところは分かりません。


3歳くらいのときに父親王を亡くした興良親王はその後、後醍醐天皇の養子となり親王宣下を受けていたのでした。
この頃はまだ7、8歳でしょうか?奥州経営に苦労していた北畠親房の要請によって興国二年に常陸に向けて出発します。
その途中で駿河に停泊したと考えるのが自然でしょう。

非業の死を遂げた兄親王の遺児をどんな思いで見ていたのでしょう。
しかし、わざわざ狩野貞長の館まで出向いているくらいですから、幼い甥を気遣う気持ちがあったと思われます。


越後の滞在は長くなく、興国三年春には越中に行きます。
そして、興国五年には信濃の大川原へ…。宗良親王の旅は続きます。


この頃、北朝で『風雅集』という歌集を編纂しているという話を宗良親王は耳にしました。
その選者に歌人として名高い従兄弟の二条為定が入っておらず、更に南朝に歌は埒外に置かれ、
宗良親王の歌も選ばれないことを知った親王の嘆きは大変なものでした。

後醍醐の皇子として流離いながらも、歌人としての心はひと時も忘れられない宗良親王なのです。


興国五年から四年経った正平三年、四条畷の戦で楠木正行(正成の嫡男)を敗った高師直は
そのまま吉野まで攻め込み、南朝の宮廷を焼き尽くします。

北朝の軍隊が来る前に落ち延びた後村上天皇以下公卿たちはやがて、更に山奥の賀名生に落ち着きました。


遠く信濃でそのことを伝え聞いた宗良親王は後村上天皇と歌を送っています。

「たらちねの守りをそふるみ吉野の 山をばいづち立ちはなるらむ」

「たらちねの」はもちろん「母」に対する枕詞と教わりましたが、ここでは「親」=「後醍醐天皇」という意味です。

―先帝の魂に守られていた吉野を捨ててどこへ行くつもりなのですか

という意味でしょう。


これに対する後村上天皇の返歌は

「ふる郷となりにし山は出でぬれど 親の守りは猶もあるらむ」

―我々の故郷の吉野の山は出てしまったけれど、それでも先帝の御加護はあると思っています


このやりとりで、いかに皇子たちにとって後醍醐天皇の存在が大きかったか伺えます。

そして、父帝の野望の中にこそ自分たちの存在理由があったことも理解し、それでも一方通行の深い愛情を抱いていたということが分かります。

例えば、護良親王の「君のうらめしくわたらせ給ふ」の言葉にも敬愛を踏みにじられた皇子の悲哀が読み取れると思うのです。


政争の道具…父帝の権威を示す持ち駒でしかなかった皇子たちは、死して猶、後醍醐天皇の魂に守られていると信じていたのです。


そして、後醍醐天皇皇子の長兄になってしまった宗良親王は、甥を気遣ったり吉野陥落を咎めたりと、
幼い皇子たちに対する父親のような存在であったろうと思われます。



宗良親王の旅はまだまだ続きます。

元弘三年、「元弘の乱」が治まって尊澄は帰京します。
そしてすぐに天台座主に戻りました。
還俗した護良親王が皇位への野心を疑われたわけですから、賢明な判断なのでしょう。


穏やかな日々とは参りませんが、尊澄は仏法修業に励んだようです。
今の感覚だと、俗世を離れた精神修業、あるいは平和への祈りみたいに受けとられそうですが、
この時代の仏教は天下国家に大いに関わっていましたので、法力を頼みとされていたのでしょう。

そして、建武二年には延暦寺中堂の十二神将の配置換えのようなことも行っています。
天下泰平へのおまじないのようなものだったのでしょうが、「争乱が治まらない」との理由で
後の座主によって戻されています。

それから、皇子たちの各国への派遣があり、「中先代の乱」から尊氏の離反となります。


後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏は光明天皇を建て、ここに南北朝時代が始まりました。


一度は尊氏の和平案を受け入れ、光明天皇の皇太子に成良親王が建ちますが、
ひと月ほどで後醍醐天皇は吉野へ落ち延びます。


その間に尊澄は一品(いっぽん)に叙せられました。
仏門にある者での初めての一品ですので、いかに尊澄が重く用いられていたか分かります。


そして北畠親房に奉じられて伊勢へ向かいます。

こうして、皇子の長い長い漂白の人生が始まったのです。


まず、翌年には還俗して宗良親王となった親王は彼の地盤となる遠江の井伊氏の城へ入りました。
そこで勢力を養います。

しかし翌延元三年、尊氏討伐の為に陸奥から京へ向かう北畠顕家(親房の嫡男)軍との合流を図りますが失敗し、顕家はこの戦で命を落とします。
享年21歳でした。

宗良はそのまま吉野へ入りますが、半年程で遠江へ戻ります。
この時は伊勢から海路向かいますが、天龍灘で大風に遭遇し、井伊城へ入るまでかなりの苦労があったようです。

同じ時に陸奥へ向かった北畠親房、顕信(顕家の弟)、義良親王の船団も嵐に遭って四散しました。
義良親王はそのまま吉野へ戻ります。



翌年の延元四年八月、

「玉骨は縦ひ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」(『太平記』より)

の、言葉を遺し、後醍醐天皇が崩じます。
その遺言に従って陵墓は北(京都)へ向かって造られました。


自らの野望の為に国じゅうに戦火を蒔いた巨星。
その意思で国を動かそうとした類まれな天皇がこの世を去りました。
しかし、その遺志は皇子たちを動かし続けるのです。

尊良親王編、途中で切ればよかった。
久々、猛勉強してしまったよ…。
とりあえず、つづきから。



尊良親王の自害により、宗良親王は全ての兄宮を失いました。
当然、親王の役割は格段に重くなります。


宗良親王は尊良親王と同じく、二条為世の女・為子を母として生まれました。
特にこの皇子は母方の一族の才能を強く受け継いでいて、勅選集となった『新葉和歌集』や
『李花集』を遺しました。

宗良親王は護良親王と同じ使命を背負って妙法院に入ります。

延元二年に還俗するまで尊澄法親王と名乗りました。
しかし、兄と違って尊澄は仏道に励みながら歌道の道にも精進していたようです。

そして正中二年15歳で妙法院門跡を継承します。
同じ年に兄の尊雲は梶井門主となっていますから、天台宗の三門跡のうち二つを
押さえたことになります。

残りの青蓮院門跡も亀山院皇子・慈道が門主でしたから、三門跡とも大覚寺統の手にあったのです。


さて、尊澄は元徳二年に兄の跡を継いで天台座主になりました。
翌年、元弘の変となります。

記録によると、捕らえられた尊澄は、「しきりに涕泣」とあります。
倒幕運動に参加した皇子たちの中で最年少だった尊澄のまだ若く弱々しい様子が伺えます。
(二十歳だけど)

尊澄は讃岐に流されました。


…『源氏』を書け、という圧力に耐えながらもつづきます。

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600人突破ありがとうございます。
年賀状を見て来てくれた友人たちもありがとう。
記念になるよう、がんばって書きます。



尊良親王は歌道の大御所・二条為世の女・為子を母として後醍醐天皇(当時は尊冶親王)の一宮として生まれました。

歌人としての資質は受け継いでいたようで、弟皇子宗良親王が編んだ『新葉和歌集』に歌が残っています。

元弘の変で幕府に捕らわれた尊良親王は事情聴取の後、土佐へ配流となります。
この時に幕府は隠岐へ流す後醍醐天皇に出家を促しますが、あくまで「天皇親政」を理念としていた天皇は拒絶したそうです。

さて、元弘2年になって配流されたその年に護良親王は吉野で挙兵します。
その翌年、天皇は隠岐から脱出、尊良親王は忽然と博多に姿を現しました。
鎮西探題を滅亡させた尊良親王は大宰府に入ります。
その後、何通かの令旨を残していますが、九州での尊良親王の実績は不明なところが多いです。

六波羅と鎌倉の陥落により早々と呼び戻されたのが実情と思われます。


「建武の新政」があっという間に瓦解すると、尊良親王の周りも慌ただしくなります。

足利尊氏の離反に遭った後醍醐天皇は巻き返しの為に、親王たちを各地に遣わしました。
北畠顕家は義良親王を奉じて陸奥へ、宗良親王は信濃へ、そして尊良親王は新田義貞と共に北陸へ向かいます。

まさにその時、ありうべからざることが起きました。

後醍醐天皇が足利尊氏の和平案に合意したというのです。
これには新田義貞も蒼然となり、急いで天皇の許へ引き返します。
新田義貞に詰め寄られた天皇は苦しい言い訳をしたあげく、皇太子恒良親王に譲位し、北陸へ遣わしました。

この禅譲は確かなところは分かりませんが、恒良親王が新しい年号「白鹿」を
用いていることから、行われたのだろうと思います。
あれだけ天皇親政にこだわった天皇にとって、随分思い切った決断と言いたいところですが、私はお得意のその場しのぎだと思います。

結局、その和平も長続きしませんでした。


北陸へ向かった新田軍は始めのうちは奮いますが、次第に劣勢となり、福井県の金ヶ崎城に立て篭もります。
しかし、頼みにしていた援軍は敗れてしまいます。
そこで、新田義貞と弟の脇屋義助が援軍を呼ぶ為に討って出て城外に逃れました。


この時、十七歳の義貞の嫡男・義顕は城に残りました。
父に代わって指揮を執るためでしょうが、城内の兵に対する人質という側面も帯びていたろうと思います。

父子は今生の別れと分かっていたはずです。


結局、義貞の援軍も城へは近付けませんでした。
城内は食糧が尽き、兵馬どころか人肉を喰らったと『太平記』は書いています。
その地獄絵図のさなか、新田義顕は尊良親王に別れを告げます。

「もはやこれまでです。
宮は親王ですので、敵兵とて手出しはしないと思います。
我々は自害致しますが、宮はこのままここにいらして下さい。」

あどけなさの残る義顕の面立ちとは掛け離れた言葉に尊良親王はきっと胸を熱くしたでしょう。


この後、武士のほとんどが所領争いや同族間の争いで南朝北朝を行ったり来たりする世の中になりますが、
新田氏と楠木氏だけ(楠木氏は正儀が一度北朝に降伏する)が100年を越えて、足利氏に対抗し、
ただの一人となっても戦い抜く宿命にあるのです。


楠木氏は地盤そのものが、南朝と深く関わっている寺社を背景としていました。
新田氏は足利氏と同族でありながら、鎌倉幕府創立時に頼朝挙兵に協力しなかった為に
長い間苦汁を舐めさせられた歴史がありました。


源家の主流として一目も二目も置かれて、執権北条氏と縁戚関係を築き上げていった足利氏に怨嗟の思いを抱いていてもおかしくありません。
しかも、一世一代の大勝負だった義貞の鎌倉攻略も、四歳にすぎなかった尊氏の嫡男・千寿王(後の義詮)が帯同していたことにより、手柄が半減するといったこともありました。
(鎌倉攻略軍の総指揮は義貞ではあるが、武士たちが義貞の下に集まったとは見なされなかったということ)

しかし、彼らの悲劇は公卿方によって足利尊氏の対抗馬に仕立て上げられたことにもあると私は思います。
元々、鎌倉攻めは尊氏との共同戦線だったのだから…。



金ヶ崎城に話は戻ります。
新田氏のこれから続く血みどろの歴史の最初の犠牲者となる義顕に、
尊良親政は笑いかけます。

「帝が都へ入られる時も、我らは一緒だったではないか。
あの時帝は私を大将とし、お前を股肱と期待されていた。
だから、我らは離れることないように、私はお前と逝こうと思う。
しかし、私は武士ではないから自害の作法を知らない。
自害とはどのようにするのか。」

思いがけない尊良親王の言葉に、義顕は涙を抑えるのがやっとでした。
新田の嫡男とはいえ、義顕は十七。
三十歳になっていた(二十七歳説が有名)尊良親王との違いが伺えます。
義顕は
「このように」
と言うが否や腹をかき斬り、その刀を尊良親王に差し出します。

宮も胸を貫いて義顕の上に折り重なって果てました。



さて、恒良親王は城を脱出したところを捕らえられたとなっていますが、
義顕の言ったようにして城に残っていたところを保護されたと言うのが真相ではないでしょうか。

その恒良親王も足利方によって殺害されます。

ですから、金ヶ崎城の哀切な主従の最期も結局は、護良親王が殺害されたことにより、
親王といえども無事では済まないことを察した尊良親王の悲しい判断だったのかも知れません。



敦賀にはかなり昔に水戸天狗党の墓とその鰊蔵を訪ねたときに、金ヶ崎城へも足を運びました。

護良親王の墓といい、昔のこと過ぎて写真は発掘出来ませんが、
青い海がひたすら美しく、しばらくスケッチしたものです。


尊良親王の首は禅林寺の夢窓疎石のもとへ送られ、葬礼が行われました。
紅葉で有名な永観堂の側にある墓がそれとされています。
写真は一昨年訪ねたときのものです。


「」内のセリフは私独自の訳です。
でも、会社で書いたワリにはイイ感じじゃないかな、と思います。

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