中将の君のひとりごと

歴史とサッカーが好きな私のオススメを紹介します。最近はもっぱら旅人か、映画評論家気取りですが…

源平時代

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信西は主犯のひとりとして、藤原忠実の処分も考えていたのです。
息子の頼長が死亡したとはいえ、実際の刑は息子たちと同じく流罪だったと思われます。
この頃はギリギリ公家はまだ死刑にはならなかったので、忠実も流罪にすべしというものでした。

実際には「保元の乱」の騒動の火中にいなかった忠実ですが、この親子の親密さから言って、…更に言うと源為義の実際の主人であったのですから、無関係だったハズがありません。

信西はこの機を逃さず、摂関家に二度と立ち上がれない程の打撃を加えようとしたのでした。

嫡男である関白・忠通は
「父を流すなら、まず自分の関白を罷免してから行うよう」庇い、配流を止めました。
今まであれだけ対立していた父親に対してどういう風の吹き回しと思うでしょう。

しかし、忠通はここにきて信西の真の狙いのひとつが摂関家の内部対立を利用した権力の失墜にあると気付いたのです。
何しろ、その氏長者の争いのゴタゴタで摂関家の荘園や宇治平等院などの屋敷も忠実の所有だったのですから…。
それが配流ともなれば、広大な荘園もすべて召し上げられる可能性があるのです。

実際、忠実もそれを恐れて、11日に争乱の勃発を知るや宇治から奈良へ避難しそこに篭ります。
そして13日、戦で流れ矢に当たり重傷を負った頼長が最期の別れにと、奈良を訪ねても忠実は決して会わず、断固として関わりを絶ったのです。

愛し子に対するこの仕打ちを政治家の冷徹さと見る向きもありましょう。
しかし、彼らにとって大切なのは家の権威と財産を子孫に繋いで行くことだったのです。


忠実は15日には忠通に書状を送り、20日に荘園の譲渡を行います。

一方忠通にも揺さぶりがかけられていました。
11日、戦の勝敗が決すると朝廷は忠通に「氏長者の宣旨」を下したのです。
これは、氏族間で行ってきた長者の譲りに朝廷が介入したということであり、忠通は始め受け取りませんでした。
しかし、何度も宣旨が下り、摂関家の荘園問題が残っていた忠通は朝廷と事を構えるのは賢明でないと判断して渋々受け取ったのでした。


私たちはこの摂関家が実権を握った背景に、外戚という立場による内覧の地位獲得にあったと教わりました。
彼らの先祖の藤原道長が「望月の欠けたることも…」と詠んだのも、彼の女たちが次々に入内し、皇子を産んでその皇子たちが皇位に就くことが約束されていたからでした。

しかし、院政の始まりは元々、この家との関係の薄い皇子が即位したことかたでした。
外戚でなければ、その天皇がいかに幼年とはいえ、わざわざ血の繋がりのない後ろ盾でもない貴族を摂政とする義理はないのです。

実際に鳥羽天皇の母方の叔父藤原公実(閑院流)が摂関の地位を望みましたが、白河院は忠実を摂政とし、ここに摂関の地位と天皇の外戚との切り離しが行われ、忠実の一族が皇后や彼女の産んだ天皇を伴わなくてもその家格を保つことになったのでした。
そして、その経済基盤を後ろ盾とした家格を守ることが、忠実・忠通父子の最重要課題だったのです。

幸い忠実は知足院に蟄居となり、100箇所に及ぶ摂関家の荘園は忠通に受け継がれました。その一方で、頼長に譲渡されていた20箇所は朝廷に没収され、後白河天皇のものとなりました。

しかし、摂関家の衰退は如何ともし難く、もはや往年の権力は望めず、武士を内包することも出来なくなりました。
信西はここに後白河天皇のもと強大な権力を手に入れたのでした。

イメージ 1

頼長への捜索は十日に及び、頼長の随身だった秦公春(すでに死亡・頼長の起こした殺傷事件の大半の実行犯である)邸なども追求されました。
そして21日に頼長の母方の従兄弟・玄顕が名乗り出て申告するまで続きました。

頼長は11日の戦の折に深手を負い、14日に死去。
密かに般若寺に葬られたというものでした。

天皇方はすぐに掘り出して遺体を検分し、頼長の死が確認されました。
享年37歳でした。

23日には崇徳上皇を讃岐の配所に移しました。
上皇はこれにより「讃岐院」と呼ばれ、1164年にその地で亡くなります。
その後、怨霊となって都を騒がせたことが知られています。

28、30日に源為義以下の武士18名が斬られ、ここに平安時代が正に「平安」だったとされた死刑のない時代は幕を閉じたのでした。
しかし、この斬刑も為義は義朝の許で、平忠正は清盛の許でという風に国家的な刑罰をとらずにあくまで一族内の制裁というカタチで行われたのです。


8月3日には頼長の三人の息子たちが配流になりました。
仁平2年(1152)の頼長が主催した鳥羽院五十賀の御賀で青海波の舞を舞った隆長や楽才に秀でた師長(いづれも頼長息)などです。
二人の兄弟はそれぞれ流刑地で亡くなりますが、この師長だけは生き延びて政界復帰を果たします。
頼長の怨霊を恐れた人々により位階は父親を越える太政大臣まで昇ります。

8月26日に源義朝の弟・八郎為朝が捕らわれ、「保元の乱」は終息しました。
しかし、信西の野望は終りません。


写真は神代植物園の牡丹です。

見込み捜査から始まった探索により朝議で頼長の流罪が決まります。
恐らくその証拠の中に、崇徳上皇の関与の証拠もあったのでしょう。

その証拠は今となっては永遠に謎となってしまいました。

その後の源平争乱や、皇位の断絶の危機に曝された朝廷はそれを崇徳上皇と頼長の怨霊と考えたのでした。
彼らは崇徳上皇と頼長の地位を回復しただけでなく、この事件…『保元の乱』の関連書類を皆焼いてしまったのです。


さて、追い詰められた崇徳上皇は9日、住まいとしている鳥羽から白河へ移ります。
10日には頼長も喪に服していた宇治から武士団を伴って上洛しました。
都は緊張に包まれます。

10日夜半過ぎ、後白河天皇は多田源氏の頼盛に守られて内裏から武士団のいた東三条邸に移りました。
どうも美福門院や皇太子に比べ、天皇その人の安全はあまり気にされていなかったようです。
(つなぎに過ぎないので)

ここからは『保元物語』にあるように、後白河天皇方の平清盛・源義朝・足利義康が白河へ夜討ちをかけます。
そして11日には崇徳上皇と頼長のいた白河北殿と隣接する前斎宮御所が炎上して、争乱はあっという間に決着が見られました。

『保元物語』には源八郎為義が頼長へ夜討ちを持ちかけて、頼長が「これは帝王を決める戦だから夜討ちなどで決着すべきでない」と退けたという頼長らしいエピソードも語られています。
それに対し、天皇方(この呼び名には問題はあるが…)は源義朝の夜討ちの申し出を信西が許可して、以上の結果となったとあります。

平清盛が参加したのはあくまで美福門院の招きであったので、清盛の方が褒美が多かったのは当然といえます。
敵方に着く可能性があったのですから…。

白河が焼かれて、それでも誰も討ち取られたということはなかったようで、崇徳上皇は仁和寺に
弟である五宮・信法法親王を頼り匿って貰おうとします。
しかし、関わりを恐れた法親王から断わられ、13日には天皇方に捕まりました。
それを聞いて他の者も自首し、源為義も16日に義朝の許へ投降します。


しかし、頼長の行方だけが依然として掴めませんでした。

鳥羽天皇の葬儀に頼長も崇徳上皇も出席するハズもなく、早くも7月5日にはこの二人が軍兵を集めて
皇位を奪おうとしているという風聞が流れます。

そして信西は7月8日には高階俊成、源義朝に東三条邸を襲わせ、邸内で秘法を行っていた
平等院の僧・勝尊を捕らえ、その書状を動かぬ証拠として頼長の謀叛発覚となりました。
つまり、証拠もないのに東三条邸が襲撃されたのです。

なぜ、そのようなことをしたか?と、いうことが問題になります。
天皇三代にわたって院政を敷いてきた鳥羽法皇の死によって、朝廷の求心力が弱まったことがあります。
遺された後白河天皇自身は政治力など殆どなく、法皇の遺産さえ受け継げませんでした。

それに引き換え、摂関家は多くの荘園を抱え、その管理の為に源為義以下の武士団を掌握していました。

一方、後白河天皇には自由に出来る武士団といえば源義朝くらいで、白河法皇の威光でのし上ってきた平家はむしろ天皇家の嫡流である崇徳上皇に同情的だったようです。
(清盛自身も白河法皇の落胤である噂があったから、より崇徳上皇に好意的だったと思われる)

ただ、平家の台頭には鳥羽法皇第一の寵臣・家成の荘園政策への協力があったようですから、
美福門院とは関わりがあったようです。


藤原家成は生前、白河の宝荘厳院や鳥羽の安楽寿院など院の御願寺を次々と造営し、
そこで行われる法会や儀式の財源として立荘を行いました。
貴族たちもそこへ寄進し、それが膨大な八条院(美福門院皇女)領の礎となりました。

つまり家成が造った鳥羽院領が美福門院や八条院に相続され、その管理を行っていた(寄進した本人でもある)平忠盛がその縁で家成の死後は美福門院に仕えていたのでした。


つまり、後白河天皇は正統たる崇徳上皇と軍事力を持つ忠実・頼長父子を恐れていたのです。
そして、信西は鳥羽法皇の崩御による社会的不安を利用したのでした。


全然、昨日に間に合わなかった〜…

ここで、泰子の同母兄の忠通が喪に服したのかはよく分からないのですが、
その後の展開から言って喪中であったと思います。
喪よりも、頼長にとって鳥羽法皇と自分を繋ぐ唯一の存在であった高陽院の死は政治的な痛手だったのでした。

美福門院は言わずもがな、生前の近衛帝も嫌っていたという頼長に対する法皇の態度も次第に冷淡になっていきましたが、それでも法皇の存在が忠実・頼長父子を支えていたのは間違いありません。
翌年の二月になってやっと頼長に「左大臣元の如し」の宣旨が下されますが、「内覧」の再宣下はなされませんでした。

そんな中、法皇が「不食」の病にかかり、六月には危篤の状態に陥ります。(保元元年・1156)

そこからの展開は今の私たちから見ても実に不可解なものでした。
法皇の重病にも拘らず、平癒の祈祷などは一切行われず、鳥羽殿に源平の武士が招集されます。
見舞いに訪れた崇徳上皇は追い返され、悲嘆に暮れました。

6月12日に美福門院が出家し、21日には鳥羽法皇は危急となり、
そして7月2日ついに崩御となります。

葬儀は遺言によって信西の検知によって行われました。


ここからは歴史の変動というよりも、稀代の策士によって正統な皇位継承者が葬られたひとつのクーデターが始まります。

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