中将の君のひとりごと

歴史とサッカーが好きな私のオススメを紹介します。最近はもっぱら旅人か、映画評論家気取りですが…

源平時代

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崇徳上皇の母・待賢門院璋子は閑院家に生まれ、幼い頃より当時の「冶天の君」であった白河院の養女となっていました。
白河院に特別に可愛がられ、院は彼女を摂関家に嫁がせようと考えました。

当時の関白は忠実で彼の嫡男・忠通との縁談を打診します。


しかし、忠実は当時から醜聞の絶えなかった璋子を受け入れることは我慢がならなかったようです。
忠実の室は白河院との間に子まで生した源師子で、その所生の忠通に白河院との噂のあった璋子を
押し付けようというのですから随分な話です。

忠実に拒否された白河院は璋子を女性としての最高位に就けるべく、我が孫の鳥羽帝の后としたのでした。


醜聞にまみれた璋子でしたが美しく教養も豊かだったようで、鳥羽帝との間に六男二女をもうけます。
国宝『源氏物語絵巻』を作成したのも彼女のサロンで、鳥羽帝の共同統治者として政治も援けていました。

鳥羽帝(のちに上皇〜法皇)の寵愛は美福門院得子の出現まで続きました。
しかし、晩年は不幸で呪詛の嫌疑がかけられ失脚します。
ですが久安元年(1145)三条第において璋子の崩御にあたって、鳥羽法皇が御幸し、自ら磬を打ち鳴らして号泣されたとありますから愛されていたのでしょう。


美福門院得子が言い出したのは、璋子が入内後も白河院との関係を続け、崇徳院はそれによって出来た子だという内容でした。

多分これは突然出て来た話だったようです。
なぜなら、院政は天皇が実子(又は猶子)であることが前提だからです。
早くから崇徳天皇が鳥羽院の実子でないと分かっていたなら、実子と分かる皇子が他にいたのですから、
鳥羽院は白河院という重しがとれた時点で譲位を迫ったはずだからです。


しかし、当時の事情を知る忠通と得子の讒言は功を奏したようで、常識的な皇位継承を望んでいた鳥羽院の心は揺らぎました。

まさにそんなとき、近衛天皇が崩御したのです。


写真は「源氏物語」ゆかりの石山寺です。
最近、投稿がYahooに全然反映されてない…。「歴史」のとこにもないなんて…ぐすん。。。

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頼長のその名は摂関政治の最盛期の藤原頼通と道長から採ったもので、
頼長自身も摂関家と皇室の一本化による貴族政治の振興を目指しました。

『撥乱反正』の理念に基づいた頼長の政治は厳粛なもので、その頃朝廷を悩ませていた寺社の強訴に対しても真面目に取り組みました。
当時から藤原氏の氏寺である興福寺すら思い通りにならない有様でした。

初めは神輿で強訴を繰り返した寺社勢力も僧兵以下の武力を内包するようになり、イザコザが起こるようになりました。
それに対し朝廷は結局強訴されると厄介なので、うやむやに解決してきました。
それすらも頼長は法に照らして裁決しようとしたのです。

そして、その厳格さは父の愛人にも及び、唯一の庇護者である忠実から面会禁止の処置を言い渡された程でした。


その他に恩赦で許された罪人を家人によって殺害させるといった仕事人みたいなこともしています。
当時、頻繁に出された恩赦による罪人の放置で、治安が悪化していたのは事実としても、
向かう方向が違うような気がします。

他にも血なまぐさい事件を起こす頼長は次第に孤立していきました。


そんな中、皇位継承問題が起こります。
近衛天皇は元々病弱な為に、皇子誕生は望めないとして、早い時期からその後継者について取り沙汰されていました。

候補者は二人いました。
一人は崇徳院の皇子の重仁親王で、美福門院得子の養子となっていました。
もう一人が崇徳院の同母弟・雅仁親王の第一皇子・守仁親王でした。
守仁親王の母は産褥で亡くなったので、彼も得子の養子となっていたのでした。

守仁親王は仁平元年(1151年)仁和寺に入室することになっていました。
この直前、関白・忠通は頼長が近衛天皇の退位を図っていると讒言します

同じ頃、頼長は法皇の寵臣である家成邸を家人に襲撃させるという事件を起こしていますから、
立場が非常によくなかったハズです。
しかし、申し開きは受け入れられたようです。

二年後には忠通は得子の内意を受けて、近衛天皇が眼疾悪化の為に守仁親王への攘夷を望んでいると
鳥羽法皇に奏請します。
法皇はこの時、忠通をあまり信用していませんでした。
幼帝が即位させて摂政の専横を図るのだろうと思った法皇は危ぶんで応じませんでした。

しかも父親王を差し置いての即位はいかにも不自然ですし、天皇の子である重仁親王が順当と思えました。
重仁親王が即位した場合、崇徳院による院政が開始されるわけですから、得子はそれを避けたかったのでしょう。


そして、得子は崇徳院の出生を持ち出したのでした。


写真は仁和寺です。
今日は本当にまとまり悪い…。

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摂関家の氏の長者となった頼長は、その年(久安6年)末には、やっとのことで鳥羽法皇から
内覧の約束を得ます。

「氏の長者」とはその一族の最高官位に就くものでしたから、頼長が摂籙に就くのは当然といえます。

年明けには、忠実は師実・師通ら祖先の日記を忠通より取り返し、頼長に与えます。
この日記の継承も氏の長者の役割で、天皇家も献上された日記類を持っており、
これを引き継ぐことが正当性を示すものでした。
ちなみに「南北朝の争乱」の発端となった「両統迭立」では持明院統がこの書籍類を保持しており、
後深草院二条が「とわずがたり」を書いたのも、その文化活動の一端だと言われています。


そして、1月10日内覧の宣旨を受けた頼長はそれを執政への就任と考え、
嫡室・幸子の政所を設けて、「北政所」と名乗らせます。
後年、豊臣秀吉の正妻・ねねを「北政所」と呼びますが、それは太閤・秀吉の妻であったからです。

しかし、兄の忠通も摂政から関白になります。
関白の機能とは大人の天皇の元、太政官の文書を内見することにあったので、
「内に覧る」ことであった内覧となんら変わりなく、ここに内覧・頼長と関白・忠通の並立政治が行われます。

それを実現したのが他ならぬ鳥羽法皇で、彼は忠通を重んじる愛妃・得子の言を受け入れながらも、
忠通の思い通りにすることは反対だったようです。

結局、二人の手綱を取るように、法皇は内覧である頼長に諮らずに決断を下したり、
関白・忠通を差し置いて頼長に決裁させたり使い分けていたようです。


頼長はそれでも理念を持って執政に取り組みました。
彼の理念は、聖徳太子の「十七条憲法」の趣旨に従って「乱を撥め正に反す」
『撥乱反正』(はつらんはんせい)という政治でした。


写真は桜開花記念。もちろん去年の桜です…

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案外、まとまらない…。
関係ないけど昨日、ショックなことがありました。
コンビニで買ったものを自転車のカゴに入れたまま、100円ショップで買い物したら、
菓子パン1個だけ盗られていたんです〜!!
逆はしょっちゅうやってるのに盗られたことないのに〜、というか袋ごと盗れよ〜!

まあ、これで誰かが空腹を満たしてくれればいい…
気をとりなおして続きです。


頼長は6歳のとき、兄・忠通の養子となっています。
父・忠実はいまだ子のない忠通から、譲渡される形式での頼長の摂籙(摂政ないし関白)の継承を目指していたようです。
そののち、忠通に子・基実が産まれますが、年が離れているのでそれでも可能と考えていたようです。

頼長自身もただ摂籙の譲渡を待っていたわけではないようです。
多子の皇后冊立の翌月、突然自らの左大臣辞任を申し出ます。

表向きはそれで出来た空席に妻の父である実能を昇任させる為と言っていますが、30歳を超えたばかりの
頼長の辞任は世代交代への揺さぶりであったようです。
これは父・忠実の反対で実現しませんでした。

8月に忠実は頼長に摂籙を譲渡するよう、忠通に促し、鳥羽法皇に懇願します。
忠通の返事は「摂政の譲否は法皇の決定に従う」というものでした。
しかし、法皇は両者の応答を取り次ぐのみで、終始どっち付かずの態度を決め込んでいたのでした。


応じない忠通に対して、忠実は下手に出て後に必ず忠通の子孫(当時、基実は7、8歳)に返すから
一旦頼長に譲るよう説得します。

それは十回にも及び、9月25日の返信は「法皇が摂政を召し上げるなら止むを得ないが、自分からは譲り与えられない」というものでした。

それを「不義の報命」と怒った忠実は頼長などを伴なって宇治より上洛し、
摂関家の本邸である(近衛帝の元服を行った)東三条邸を押収します。
そして、高陽院泰子も招き寄せ、源為義らに警護させた上で忠通と義絶の処置をとりました。

そして、東三条邸横の蔵にあった朱器台盤と渡庄券文を与え、頼長を摂関家の
「氏の長者」としたのです。
「朱器台盤」とは藤原氏の長者の象徴で天皇家における「三種の神器」みたいなものだと思われます。

この間、忠通は新築していた法性寺殿にいて無事でした。

忠実は広大な摂関家の荘園の警護の為に武士団との関係を持っていました。
それが、源為義(義朝の父親)で、このとき彼の武士団が動いたのでした。
頼長に仕えていた義賢(義仲父)は、2年前に京を去っていましたが、その弟たちは同行したと見られます。

この摂関家が同族間の争いで武士団を動かしたことが、大きな歴史の流れとなったのです。


ウッカリ自分が2000人目になってしまったよ…
写真はあまり関係のない仁和寺です。

一日あいてしまいました。
留守の間来て下さった皆様、ありがとうございました。話は続きます。


頼長と兄・忠通の戦いはまず、近衛帝の后争いから始まりました。

ここで何度か触れてきたように、頼長は待賢門院璋子の一族である閑院流の多子を養女としていました。

美しき一族に生まれた彼女は美しく成長し、久安4年(1148年)6月には近衛帝への入内の確約を
鳥羽法皇と摂政・忠通から得られます。
翌月から着々と準備を進めますが、思わぬ事態が起きます。

『源氏物語』の葵の上との結婚でも分かりますが、当時は男子の元服の儀のおり添い臥の女性と
臥所を共にする慣わしがありました。
多子入内も近衛帝の元服に伴なうものでした。

しかし、その年12月、頼長の父・忠実室で忠通の母であった従一位・源師子の逝去で、
その元服の儀が行えなくなったのでした。
(多分・加冠役の忠通が喪に服すことと、近衛帝自身が忠通の女で崇徳上皇の皇后である聖子の
養子となっていたからだと思われます)

それでも、延期されたものの、久安6年正月には近衛天皇の元服の儀が摂関家の本邸・東三条邸で行われ、
忠通が加冠役、頼長が理髪役を務めました。
そのすぐに多子は入内しました。近衛天皇12歳、多子11歳でした。


しかし、多子入内と平行して得子は頼長に対抗して事を進めていました。
久安4年、頼長が多子入内の確約を取り付けてすぐ、得子は藤原伊通の女・呈子を養女としました。
そして、呈子は近衛帝元服の翌月、頼長の兄・忠通の養女となり、入内の雑事定が行われます。

呈子入内が迫る中、頼長は多子の立后を急ぎます。
法皇への懇願だけではラチが開かないと知るや、父・忠実に請うて宇治から入京してもらい、
再度法皇に懇願してもらいます。
忠実も頼長に女院得子への懇願の書状をしたためるように諭しました。


妨害している張本人であるだけでなく、天皇自身の母后である得子の協力は不可欠であるはずなのに、
頼長はなかなか従いません。
元から得子に取り入る者を「媚を売る」ものという風に軽蔑してきましたから、
自分もそのような謗りを受けたくないと言うのでした。

どうもここらへん、忠実を呼び出したことといい、頼長に子供じみた印象を受けるのは私だけでしょうか?

結局、頼長は書状を書きました。
しかし、これで上手くいくと思っていた頼長の意に反し、事態は進まず、終には忠実が法皇に迫るカタチで
立后の兼宣旨を取り付けます。
いづれも2月のことで、3月14日多子は皇后に冊立されました。

呈子は翌4月に入内し、6月に立后し、中宮と呼ばれました。


次は2000人記念でしょうか?

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